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あなたの声が怖くなった朝に、転生前の私が目を覚ました  作者: 九葉(くずは)


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第5話 あの人の手は、こんなところまで伸びてくる

 正式雇用は難しい、と修道院長は言った。


 療養所の一室を借りて、コンラートの部下たちの聞き取りを始めて一ヶ月。少しずつ成果が出ていた。夜中に叫ぶ回数が減った兵士がいる。食事が喉を通るようになった兵士がいる。やったのは話を聴いただけだ。安全な場所で安全な相手に話す経験を提供する。劇的な治療ではない。地味な、けれど確かな変化。


 その矢先だった。


「ブラント公爵家より、書面が届いております」


 修道院長の声は申し訳なさそうだった。机の上に置かれた封書には、ブラント家の紋章が押してある。赤い蝋の封蝋。見覚えがある。


「公爵家より、当院にかつてのご令室が滞在していることへの懸念が示されました。率直に申し上げます。奥様の精神が不安定であるとの情報が、社交界に広まっているようです」


 ああ。またこれだ。


 被害者が声を上げると、加害者は周囲に「あの人は精神的に不安定だ」と先に吹聴する。信用を先に潰しておけば、何を訴えても「ほら、あの人はおかしいから」で片付けられる。二次加害。研修の第七章に詳しく書いてあった。


 書いてあったのだ。知っていたのだ。なのに自分の身に起きると防げなかった。「自分の場合は大丈夫」と、どこかで思っていた。支援者にありがちな油断だ。


「お気になさらず。事情は理解しています」


 修道院長の部屋を出て、廊下を歩いた。足が重い。壁の石が冷たい。


 知識があるということと、対処できるということは、同じではないのだ。マニュアルの内容を暗記していても、自分の足元が崩れる時の痺れるような無力感は予習できない。肩甲骨の間が強張っている。背中が板になったみたいだ。


 支援していた女性が「仕事を見つけたんです」と笑顔で報告してくれた翌週に、元夫が職場に押しかけて「あの女は頭がおかしい」と言いふらし、採用が取り消されたことがあった。あの時の彼女の顔を、今でも覚えている。


 結局、同じだ。世界が変わっても、加害者の手口は変わらない。


 修道院長の部屋を出る時、本棚が目に入った。整理されているようで実は年代順になっていない。分類を直したい衝動に駆られた。仕事柄の癖だ。ストレスがかかると整理を始めたくなる。前の世界の職場でも、辛い相談が続いた日は事務室の書類棚を片付けていた。


 療養所の自分の部屋に戻ろうとして、また道を間違えた。今度は洗い場に出てしまった。井戸端で修道女が一人、シーツを絞っている。冬の水は冷たいだろう。赤くなった手が痛々しい。


「イルゼ様」


 コンラートだった。療養所の入り口に立っている。今日は部下の面談の報告を聞きに来る日だった。


「……どうした」


 私の顔を見て、何かを察したらしい。


 事情を話した。正式雇用の保留。ヴェルナーの噂操作。社交界での信用の毀損。話しながら自分の声が平坦なことに気づいた。感情を排して事実だけを並べる声。他人の問題を説明する時の声。でも、他人の問題ではない。


 コンラートは黙って聞いていた。腕を組んで、壁にもたれて、一言も口を挟まなかった。


「ブラント公爵の影響力は、この修道院まで及ぶのか」


「修道院の後援者ですから」


「リンデン領には及ばない」


「……え?」


「俺の領地だ。辺境だ。ブラント家の手は届かない」


 コンラートが壁から背を起こした。


「リンデン領での活動を公認する。領主代理の権限でだ。部下の件で、あんたの力は必要だ。建前としては十分だろう」


 感情が乗っていない。事実と判断だけが並んでいる。でも、だからこそ信用できた。感情論ではなく制度と権限で動く人間が一番頼りになることは、知っている。


「……建前、とおっしゃいましたね」


「本音は違う」


「本音は?」


 コンラートが少し目を逸らした。報告書の角を親指で折り曲げている。無意識の癖らしい。


「部下が、あんたと話した後に飯を食えるようになった。夜叫ばなくなった奴もいる。それだけだ」


 それだけ、と言いながら早口になっている。この人は嘘がつけないのだ。


「ありがとうございます、コンラート殿」


「礼はいい。それより、部屋は分かるのか。さっき洗い場から出てきただろう」


「近道を」


「嘘をつくな。迷っただろう」


「……はい」


 返す言葉がなかった。コンラートは何も言わず、顎で正しい方向を示した。この人と会話するたびに、私の嘘のレパートリーが減っていく。



 夜。ブリギッテ修道女が部屋を訪ねてきた。薄荷茶の湯呑みを手に持っている。


「修道院長のお話は、聞きました」


「ええ」


「イルゼ様。私はね、若い頃、夫に殴られていたんですよ」


 ブリギッテの声は穏やかだった。でも、湯呑みを握る指が白い。


「殴られるのは私が悪いのだと思っていました。長いこと。名前がなかったんです。自分に起きていることに、名前が」


 薄荷茶の湯気が、蝋燭の灯りに揺れている。


「あなたが兵士たちに教えていることを、壁越しに聞いていました。心の傷。安全な場所。あの言葉を、三十年前の私に教えてあげたかった」


 三十年。この人は三十年間、その痛みに名前がないまま生きてきたのだ。私の三年間が、長いと思っていた。


 ブリギッテが私の手を取った。冷たい井戸水で荒れた手だ。ごつごつしていて、豆がある。でも力強かった。この手がどれだけの仕事をしてきたか、触れただけで分かる。


「この修道院に、あなたの部屋を用意します。正式な雇用はできなくても、客人として。必要な人に、あなたの知識を届けてください」


「ブリギッテ様」


「院長には私から話します。あの人も悪い人ではないのです。ただ、後援者の顔色を窺わないと修道院が立ちゆかない」


 分かる。福祉事務所も同じだった。予算を握っている側の意向に逆らえない。


 でも、制度の外にも道はある。


「ありがとうございます。正式な肩書きがなくても、私を頼ってくれる人がいるなら」


「います。もう何人も」


 薄荷茶を受け取った。一口飲んだ。土の匂い混じりの青い味。でも体の奥が少しだけ温まる。


 計画は崩れた。でも、崩れた場所から別の芽が出ている。完璧な計画なんてない。崩れた時に、別の道を探せばいい。


 正式な職員ではなく、個人の信頼だけを頼りに始める道。不安定だ。いつ途切れるか分からない。でもブラント邸の「安定」よりは、ずっとましだ。あの安定は、檻の安定だった。

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