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あなたの声が怖くなった朝に、転生前の私が目を覚ました  作者: 九葉(くずは)


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4/10

第4話 門を出た日、空がこんなに広いと知った

 馬車の窓から見える景色が変わった。


 ブラント邸の整えられた並木道を抜けると、街道沿いの麦畑が広がっている。刈り入れ前の穂が風に揺れて、さわさわと音を立てていた。別の世界で田舎に行った時に見た風景に少し似ている。あの時は電車の窓だったけれど。


 隣に座るヒルデは、膝の上で手を組んだまま黙っている。その隣には若い侍女のエルザと、料理番のクラウスがいる。三人とも、自分の意思でついてきた。


 離縁は、あっけないほど簡単に成立した。


 白い結婚の証拠を揃え、王室認可局に申し立てを行った。ヴェルナーは最後まで怒鳴っていた。「狂ったのか」「恩知らずが」「俺なしでやっていけると思うのか」。研修マニュアルに載っていた台詞を、一語も違えずに並べてくれた。


 認可官が淡々と書類を確認し、「三年間の婚姻実態の不在」を認定した。ヴェルナーは認可官にも怒鳴りかけたが、王室の役人に声を荒げるのはさすがにまずいと思ったのか、拳を握って黙った。


 署名した。それだけのことだった。


 ヴェルナーの顔を最後に見た。怒りではなく、困惑が浮かんでいた。「何が起きているのか分からない」という顔。三年間、妻を支配し続けてきた人間が、その妻に「いらない」と言われた時の顔。あの顔は、しばらく忘れないだろう。


 ブラント邸を出る朝、嫁入り道具のほとんどを置いていった。持ち出したのは数着の服と、法律書の写し数枚と、鉄のブローチだけだ。ヴェルナーが買い与えた宝石類は一つも持たなかった。


「奥様、いえ、イルゼ様。もう公爵夫人ではございませんね」


 ヒルデが小さく言った。


「ええ。もう奥様でもないわ」


「では、何とお呼びすれば」


「イルゼでいい」


「それはさすがに」


「……じゃあ好きに呼んで」


 ヒルデは少し考えて、「イルゼ様、で」と答えた。律儀な人だ。


 馬車が揺れる。街道の石畳が途切れて、土の道に変わった。車輪が轍にはまるたびに荷物ががたがたと鳴る。快適とは言いがたい。でも、ブラント邸のふかふかの椅子に座っていた時より、ずっと呼吸が楽だ。


 空が、広い。


 馬鹿みたいな感想だと自分でも思う。空の広さは変わらない。変わったのは、私が上を向けるようになったことだ。ブラント邸にいた三年間、空を見上げたことがあっただろうか。いつも足元を見ていた。靴音を聞いて、顔色を窺って、俯いて。



 聖カタリナ修道院は、ブラント領とリンデン領の境界に近い丘の上にあった。


 石壁の建物が三棟。庭には銀柳が植えられていて、冬の風に細い枝を揺らしている。療養所は一番奥の建物で、石造りの壁が苔で緑がかっていた。


 出迎えてくれたのは年配の修道女だった。


「ブリギッテと申します。院長から伺っております。しばらくこちらでお過ごしくださいませ」


 穏やかな声だった。でも目に力がある。人の苦しみを見てきた人の目だ。福祉事務所にもこういう目をした先輩がいた。


 あてがわれた部屋は小さかった。ブラント邸の寝室の四分の一もない。簡素な寝台と、樫材の机と、蜜蝋の蝋燭が一本。窓からは修道院の庭と、遠くの麦畑が見える。


「質素で申し訳ございません」


「いいえ。十分です」


 十分だ、と本心から思った。自分の意思で選んだ場所だから。壁の石が冷たい。蜜蝋の蝋燭の匂いが甘い。ドイツパン屋の匂いを思い出した。あの店のプレッツェルは美味しかった。この世界にプレッツェルはないけれど、修道院の黒パンも悪くなさそうだ。


 荷物を片付けていると、廊下から低い声が聞こえた。


「だから、何度も申し上げている。部下の様子がおかしいのだ。戦から戻って以来、夜眠れないと言い、突然叫び出す者もいる」


 廊下に出ると、修道女と話している男がいた。


 背が高い。軍服を着ている。黒い髪を短く刈り込んで、顎に無精髭がある。眉間に深い皺。愛想というものが顔面から完全に撤去されている。


「治癒師には診せた。体に異常はないと言われた。だが明らかにおかしい」


 PTSD。戦闘後のストレス障害。体に傷がなくても心に残る傷。この世界では治癒魔法が体の傷を塞げても、心の傷には対処法がない。


「あの」


 声をかけていた。自分でも驚くくらい自然に。


 男が振り向いた。鋭い目が私を見る。


「……誰だ」


「イルゼと申します。今日からこちらにお世話になる者です。兵士の方たちの症状について、お力になれることがあるかもしれません」


「あんたが?」


 失礼な言い方だった。でも、嘘がない。思ったことをそのまま口に出すタイプだ。ヴェルナーとは正反対。


「心の傷について、少し知識があります」


「心の傷? 体に傷はないと言った」


「ええ。でも、体に傷がなくても、心が傷つくことはあります」


 男は眉間の皺をさらに深くした。聞いたことのない概念を咀嚼しようとしている顔だ。


「リンデン伯爵領の領主代理、コンラート・ヴィーラントだ」


「部下のことで困っている。話を聞いてもらえるのか」


「聞くことしかできませんが。それでよければ」


「聞くだけで何が変わる」


「変わることもあります」


 コンラートは数秒、私の顔を見ていた。それから、短く頷いた。


「明後日、部下を連れてくる」


 それだけ言って、廊下を歩いていった。革のブーツが石の床を踏む音が、ヴェルナーの革靴とは全然違う響きだった。重くて、まっすぐで、裏表がない音。


 怖い顔の人だな。でも、怒鳴らなかった。不機嫌を他人にぶつけることはしなかった。


 それだけで肩の力が少し抜けた自分に気づいて、三年間でどれだけ基準が狂ったのかを思い知った。「怒鳴らない」というだけで安心するなんて。


 部屋に戻ろうとして、廊下を曲がった。


 あれ。


 曲がったはずの角が、来た時と違う。左に行けば自分の部屋のはずなのに、目の前にあるのは大きな鍋と竈。石壁に吊るされた銅の柄杓。天井から干した薬草の束がぶら下がっている。


 厨房だった。


「……ここは厨房だが」


 背後から声がした。コンラートだ。帰ったのではなかったのか。


「分かっています。近道をしたんです」


「遠回りしている」


 返す言葉がない。


 コンラートは何も言わず、顎で廊下の反対側を示した。必要最低限の情報だけを渡す人なのだ。


「ありがとうございます」


 小さく頭を下げて、正しい方向に歩き出した。背中にコンラートの視線がある。呆れているのだろうか。


 まあ、いい。人の心は読み解けるのに、建物の中で迷うくらい大した問題ではない。たぶん。

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