第4話 門を出た日、空がこんなに広いと知った
馬車の窓から見える景色が変わった。
ブラント邸の整えられた並木道を抜けると、街道沿いの麦畑が広がっている。刈り入れ前の穂が風に揺れて、さわさわと音を立てていた。別の世界で田舎に行った時に見た風景に少し似ている。あの時は電車の窓だったけれど。
隣に座るヒルデは、膝の上で手を組んだまま黙っている。その隣には若い侍女のエルザと、料理番のクラウスがいる。三人とも、自分の意思でついてきた。
離縁は、あっけないほど簡単に成立した。
白い結婚の証拠を揃え、王室認可局に申し立てを行った。ヴェルナーは最後まで怒鳴っていた。「狂ったのか」「恩知らずが」「俺なしでやっていけると思うのか」。研修マニュアルに載っていた台詞を、一語も違えずに並べてくれた。
認可官が淡々と書類を確認し、「三年間の婚姻実態の不在」を認定した。ヴェルナーは認可官にも怒鳴りかけたが、王室の役人に声を荒げるのはさすがにまずいと思ったのか、拳を握って黙った。
署名した。それだけのことだった。
ヴェルナーの顔を最後に見た。怒りではなく、困惑が浮かんでいた。「何が起きているのか分からない」という顔。三年間、妻を支配し続けてきた人間が、その妻に「いらない」と言われた時の顔。あの顔は、しばらく忘れないだろう。
ブラント邸を出る朝、嫁入り道具のほとんどを置いていった。持ち出したのは数着の服と、法律書の写し数枚と、鉄のブローチだけだ。ヴェルナーが買い与えた宝石類は一つも持たなかった。
「奥様、いえ、イルゼ様。もう公爵夫人ではございませんね」
ヒルデが小さく言った。
「ええ。もう奥様でもないわ」
「では、何とお呼びすれば」
「イルゼでいい」
「それはさすがに」
「……じゃあ好きに呼んで」
ヒルデは少し考えて、「イルゼ様、で」と答えた。律儀な人だ。
馬車が揺れる。街道の石畳が途切れて、土の道に変わった。車輪が轍にはまるたびに荷物ががたがたと鳴る。快適とは言いがたい。でも、ブラント邸のふかふかの椅子に座っていた時より、ずっと呼吸が楽だ。
空が、広い。
馬鹿みたいな感想だと自分でも思う。空の広さは変わらない。変わったのは、私が上を向けるようになったことだ。ブラント邸にいた三年間、空を見上げたことがあっただろうか。いつも足元を見ていた。靴音を聞いて、顔色を窺って、俯いて。
◇
聖カタリナ修道院は、ブラント領とリンデン領の境界に近い丘の上にあった。
石壁の建物が三棟。庭には銀柳が植えられていて、冬の風に細い枝を揺らしている。療養所は一番奥の建物で、石造りの壁が苔で緑がかっていた。
出迎えてくれたのは年配の修道女だった。
「ブリギッテと申します。院長から伺っております。しばらくこちらでお過ごしくださいませ」
穏やかな声だった。でも目に力がある。人の苦しみを見てきた人の目だ。福祉事務所にもこういう目をした先輩がいた。
あてがわれた部屋は小さかった。ブラント邸の寝室の四分の一もない。簡素な寝台と、樫材の机と、蜜蝋の蝋燭が一本。窓からは修道院の庭と、遠くの麦畑が見える。
「質素で申し訳ございません」
「いいえ。十分です」
十分だ、と本心から思った。自分の意思で選んだ場所だから。壁の石が冷たい。蜜蝋の蝋燭の匂いが甘い。ドイツパン屋の匂いを思い出した。あの店のプレッツェルは美味しかった。この世界にプレッツェルはないけれど、修道院の黒パンも悪くなさそうだ。
荷物を片付けていると、廊下から低い声が聞こえた。
「だから、何度も申し上げている。部下の様子がおかしいのだ。戦から戻って以来、夜眠れないと言い、突然叫び出す者もいる」
廊下に出ると、修道女と話している男がいた。
背が高い。軍服を着ている。黒い髪を短く刈り込んで、顎に無精髭がある。眉間に深い皺。愛想というものが顔面から完全に撤去されている。
「治癒師には診せた。体に異常はないと言われた。だが明らかにおかしい」
PTSD。戦闘後のストレス障害。体に傷がなくても心に残る傷。この世界では治癒魔法が体の傷を塞げても、心の傷には対処法がない。
「あの」
声をかけていた。自分でも驚くくらい自然に。
男が振り向いた。鋭い目が私を見る。
「……誰だ」
「イルゼと申します。今日からこちらにお世話になる者です。兵士の方たちの症状について、お力になれることがあるかもしれません」
「あんたが?」
失礼な言い方だった。でも、嘘がない。思ったことをそのまま口に出すタイプだ。ヴェルナーとは正反対。
「心の傷について、少し知識があります」
「心の傷? 体に傷はないと言った」
「ええ。でも、体に傷がなくても、心が傷つくことはあります」
男は眉間の皺をさらに深くした。聞いたことのない概念を咀嚼しようとしている顔だ。
「リンデン伯爵領の領主代理、コンラート・ヴィーラントだ」
「部下のことで困っている。話を聞いてもらえるのか」
「聞くことしかできませんが。それでよければ」
「聞くだけで何が変わる」
「変わることもあります」
コンラートは数秒、私の顔を見ていた。それから、短く頷いた。
「明後日、部下を連れてくる」
それだけ言って、廊下を歩いていった。革のブーツが石の床を踏む音が、ヴェルナーの革靴とは全然違う響きだった。重くて、まっすぐで、裏表がない音。
怖い顔の人だな。でも、怒鳴らなかった。不機嫌を他人にぶつけることはしなかった。
それだけで肩の力が少し抜けた自分に気づいて、三年間でどれだけ基準が狂ったのかを思い知った。「怒鳴らない」というだけで安心するなんて。
部屋に戻ろうとして、廊下を曲がった。
あれ。
曲がったはずの角が、来た時と違う。左に行けば自分の部屋のはずなのに、目の前にあるのは大きな鍋と竈。石壁に吊るされた銅の柄杓。天井から干した薬草の束がぶら下がっている。
厨房だった。
「……ここは厨房だが」
背後から声がした。コンラートだ。帰ったのではなかったのか。
「分かっています。近道をしたんです」
「遠回りしている」
返す言葉がない。
コンラートは何も言わず、顎で廊下の反対側を示した。必要最低限の情報だけを渡す人なのだ。
「ありがとうございます」
小さく頭を下げて、正しい方向に歩き出した。背中にコンラートの視線がある。呆れているのだろうか。
まあ、いい。人の心は読み解けるのに、建物の中で迷うくらい大した問題ではない。たぶん。




