第3話 それは心配ではなく支配です、旦那様
今日、私は初めて夫に嘘をつかない。
正確には、今日まで三年間ずっと嘘をついていた。「大丈夫です」「気にしていません」「旦那様の仰る通りです」。全部、嘘だった。嘘だと気づいていなかっただけで。
朝の支度をしながら、手順を確認する。ヒルデと打ち合わせた通り、白い結婚の証拠を整理した。侍女の勤務記録。寝室の使用状況。三年間、一度もヴェルナーが私の寝室を訪れていないという事実。紙に書き出すと、あまりにも明白で、なぜ今まで疑問に思わなかったのかが不思議だった。
でも、それがモラハラの構造だ。異常が日常になる。水の中にいる魚は水に気づかない。何百人に説明してきた喩えを、自分に使う日が来るとは思わなかった。
夕食の席で、それは起きた。
「来週のオルトハイム伯爵家の夜会だが」
ヴェルナーが胡桃入りの黒パンをちぎりながら言った。
「お前は行かなくていい。体調が優れないと伝えておく」
いつものことだった。社交の場から私を遠ざける。三年間、ずっとそうだった。「体調が悪い」「人見知りだから」「まだ社交界に慣れていない」。理由はいつも違ったけれど、結果はいつも同じだ。私は屋敷に残り、ヴェルナーは一人で出かけ、帰ってきて「お前がいなくて助かった」と言う。
以前の私なら「はい、旦那様」と答えていた。
「旦那様」
「何だ」
「それは心配ではなく支配です、旦那様」
食堂の空気が止まった。
ヴェルナーの手が、黒パンの上で停止している。噛みかけのパンが皿に落ちた。かさ、と乾いた音がした。
「……何だと?」
「私が社交の場に出ないことで、誰と話し、何を知り、どんな関係を築くかを、旦那様が管理できる状態を維持している。それは心配ではありません」
声は震えなかった。相談室で使っていた声だ。穏やかで、明瞭で、感情を挟まない。事実を述べているだけ、という声。
ヴェルナーの目が見開かれている。この三年間で、この表情は初めて見た。
「お前、おかしくなったのか」
「いいえ。ようやくまともになったのだと思います」
ヴェルナーの顔が赤くなった。こめかみに血管が浮いている。声が大きくなる。立ち上がる。テーブルを叩く。パターン通りだ。
「俺がどれだけお前のためにしてきたと」
「お前のためだ、と旦那様は仰います」
私は声を上げない。座ったまま、姿勢を変えない。
「でも旦那様。お前のためだ、と言いながら私の行動を制限し、交友を断ち、功績を奪い、怒鳴り、無視し、それでも従順でいることを求めるのは」
一呼吸。
「愛情ではなく、管理です」
ヴェルナーの唇が動いた。何か言おうとした。でも言葉にならなかった。唇だけが何度か開閉して、金魚みたいだった。失礼な喩えだけれど、そう見えたのだから仕方がない。
食堂の隅で控えていた給仕の少年が、おろおろと視線を泳がせているのが見えた。トビアスという名前の、十四歳の新人だ。大人の夫婦の間で息を殺している。申し訳ないと思う。でも、ここで引くわけにはいかない。
ヴェルナーが何かを言いかけて、止まった。口が開いたまま、言葉が出てこない。社交の場では誰よりも弁が立つ人なのに。中身を問われた時に返す言葉を、この人は持っていない。
五秒。
それから、ヴェルナーは椅子を蹴るようにして立ち上がった。
「お前は最近おかしい。……疲れているんだ。早く休め」
食堂を出ていく背中は大きかった。でも、初めて「大きく見えるだけだ」と思えた。権力と声の大きさで膨張しているだけで、中身はずっと小さい。
研修動画で見た加害者のインタビューを思い出した。あの中年男性も言っていた。「妻のためを思ってやったことだ」と。カメラの前で。本気の顔で。
お前のためだ、と。本気で信じていたのか、この人は。
ぞっとした。舌の付け根が苦い。嘘をついていたのなら、まだ救いがある。でも本気で信じているなら、この人は自分が何をしているか永遠に分からない。
食堂に一人残されて、私は自分の両手を見た。
さっきまで冷静だった。「相談員の声」で話すことができた。でも今、ヴェルナーがいなくなった途端、体が正直に反応している。奥歯を噛みしめていたらしく、顎が痛い。指の関節が白い。拳を握っていたことに気づかなかった。
言えた。
でも怖い。
怖いけれど、後悔はしていない。
むしろ不思議だった。三年間、言えなかった言葉がこんなにも簡単に口から出たこと。言い終わった後の、この妙な静けさ。嵐が通り過ぎた後に似ている。空気がきれいになった気がする。実際には何も変わっていないのに。
テーブルの上に、噛みかけの黒パンが残されていた。ヴェルナーの取り皿。私はそれを片付けながら、ヒルデに声をかけた。
「ヒルデ、旦那様は今、書斎に?」
「はい。……それと奥様、旦那様が先ほど、手紙をお書きになるよう使いの者に命じておいででした」
「誰宛て?」
「ケステル子爵令嬢。マリアンネ様です」
マリアンネ。ヴェルナーの幼馴染。社交の場で「イルゼさまはお体が弱くて」と周囲に説明し、私の不在を自然に見せかけてくれていた人。加害者には必ず「協力者」がいる。本人に悪意があるとは限らないが、結果として被害者の孤立を助長する。
ヴェルナーは今頃、マリアンネに何を書いているのだろう。「妻が変なことを言い出した」とでも書くのだろうか。あるいは「最近おかしい」と。先手を打たれるかもしれない。被害者が声を上げると加害者が「あの人は精神的に不安定だ」と吹聴するケースは珍しくない。
「そう。……ありがとう、ヒルデ」
夜。寝室で灯りを消す前に、窓から外を見た。
ブラント邸の庭は月明かりで青白い。剪定されたばかりの薔薇の枝が、骨のように空を指している。
ブローチを外して、枕元に置いた。銀貨二枚の安物。でも、ヴェルナーに「もっと良いものを買ってやる」と言われた時に断った、唯一の品。あの時の私にも、小さな「自分の意思」はあったのだ。三年かけてほとんど磨り減ったけれど、完全にはなくならなかった。
指先でブローチの冷たい縁をなぞった。
明日からは、もっと具体的に動く。静かに。確実に。相談者たちに教えてきたのと同じやり方で。壊れた蛇口は止められない。でも、水の流れる先を変えることはできる。
蝋燭を吹き消した。




