第6話 一人、また一人、あの屋敷から人が消える
リンデン領の冬の朝は、顔が痛いほど冷たい。
修道院から歩いて半刻ほどの場所に、コンラートが「使え」と言って貸してくれた小さな石造りの建物がある。元は兵士の詰所だったらしい。壁は厚く、窓は小さく、暖炉だけはやたらと立派だ。ここを「心の相談所」として使い始めて二ヶ月になる。
今日の最初の来訪者は、コンラートの部下の若い兵士だった。名前はマティアス。二十歳。南部の戦線から戻ってきて以来、大きな音が聞こえると体が固まるという。
「昨日は、少し眠れました」
「そう。よかった」
「先生が教えてくれた、あの、息を数えるやつ。あれをやったら、途中で寝てました」
呼吸法。技法としては初歩の初歩だ。でもこの世界では、「心の傷を手当てする方法」という概念そのものが存在しない。体の傷なら治癒魔法で塞げるのに、心の傷は「根性で耐えろ」で片付けられる。
マティアスが帰った後、暖炉に薪を足した。乾いた樫の木がぱちぱちと爆ぜる音。この音は好きだ。別の世界のマンションにはなかった音だから。
午後、ヒルデが手紙を持ってきた。
「ブラント邸の台所番のグレーテからです」
短い文面だった。
『イルゼ様。お元気でしょうか。先月、庭師のフリッツが辞めました。今月に入って、洗濯番のアンナ、厨房助手のニコラスが辞めました。皆、同じことを言っています。「旦那様のお側にはもういられない」と。フリッツは奥様が剪定を褒めてくださったことを、辞める日まで話していました。私も、次の当てが見つかり次第、出るつもりです。奥様のお茶の時間が恋しいです。グレーテ』
手紙を読み終えて、しばらく手の中に持っていた。
使用人が辞めていく。イルゼがいなくなったブラント邸から。
予想はしていた。私がいた三年間、使用人たちの不満をヴェルナーの代わりに聞いていたのは私だ。給与の遅延には私が交渉し、病気になった者には私が見舞いに行き、新人の教育も私が担当した。ヴェルナーは使用人を道具としか見ていない。名前すらまともに覚えていなかった。
私がいなくなれば、緩衝材がなくなる。ヴェルナーの怒鳴り声が直接使用人に届く。辞めるのは当然だ。
フリッツの顔を思い出した。白髪交じりの無口な庭師で、薔薇の手入れにだけは饒舌になる人だった。剪定した枝を私に見せながら「この品種は朝に水をやるとよく咲くのです」と教えてくれた。あの人が辞めたなら、庭はもう誰も手入れしないだろう。ヴェルナーは花に興味がない。花は社交用の背景でしかない。
「イルゼ様。お辛いですか」
「いいえ。辛いのは、あの屋敷に残っている人たちよ」
嘘ではない。でも、胸の奥に静かな感情がある。名前をつけるなら、嬉しい、なのだと思う。三年間やってきたことは無駄ではなかった。フリッツが私の言葉を覚えていてくれた。それだけで。
鼻の奥がつんとした。でも泣かない。まだ仕事中だ。
◇
夕方、コンラートが来た。
相談所の入り口に立って、部下の報告書を読んでいる。几帳面な人で、部下の体調を毎日記録している。字はお世辞にもきれいとは言えないが、内容は正確だった。
「マティアスが笑ったそうだ」
「ええ。少しずつですが」
「あんたのやり方を見ていると不思議だ。特別なことをしているようには見えない。ただ話を聴いているだけだ」
「それが一番難しいことなんです、実は」
コンラートが首を傾げた。分からないことを分からないまま否定しない。分かるまで黙って考える。そういう人だ。
「これを」
コンラートが革の鞄から何かを取り出した。
薬草の束だった。乾燥させた薄荷と、甘草と、あと何か知らない葉っぱ。それが花束のように紐で束ねてある。
「相談所は冬だと冷えるだろう。煎じれば体が温まる」
「ありがとうございます。これは……花束、ですか?」
「薬草だ」
「薬草を花束のように束ねたんですね」
「役に立つものを渡しただけだ」
コンラートの視線が泳いだ。報告書の角を親指で折り曲げている。この人、好意を渡す時に必ず別のことに目をやる。嘘をつくたびに挙動が不審になるのだ。分かりやすい。
花瓶がないので、湯呑みに挿した。薬草を花のように飾るのはたぶん間違っているけれど、なんだか可笑しくて、口の端が上がった。
笑ったのは、いつぶりだろう。
ブラント邸にいた頃は、ヴェルナーの前で笑うと「何がおかしい」と言われることがあった。機嫌が悪い時に笑顔を見せると「俺を馬鹿にしているのか」と取られる。だから表情を消した。笑わなければ怒られない。笑わない方が安全。それが三年間の学習だった。
でも今、湯呑みに挿した薬草を見て笑っている。誰にも怒られない。
◇
翌日、ヒルデが少し慌てた様子で相談所にやってきた。
「イルゼ様。ブラント公爵が使者を送ってきたそうです」
「使者?」
「はい。修道院に。『妻に戻ってもらいたい』と」
手が止まった。薬草を煎じていた鍋の蓋が、かちゃんと音を立てた。
離縁は成立している。法的に、私はもうブラント公爵夫人ではない。それでも「戻れ」と言うのか。
支配対象を失った人間が、もう一度支配の関係を築こうとする行動だ。「体調を崩した」「お前がいないと困る」。典型的な手口。分かっている。
でも、分かることと、心が揺れないことは別だ。
三年間、あの屋敷で暮らした。辛いことばかりだったわけではない。グレーテの焼く胡桃入り黒パンの香り。朝のお茶の時間にヒルデと笑った、ほんの数分。フリッツが育てた冬薔薇。あの屋敷にも温かい場所はあった。
でも。温かい場所を作っていたのは私と使用人たちであって、ヴェルナーではなかった。ヴェルナーは温かさを壊す側の人間だった。それを取り違えてはいけない。
「使者には、お会いになりますか」
「いいえ。会わない。ヒルデ、院長に伝えて。『戻る意思はありません』と」
声は平らだった。でも、薬草を持っていた手が小さく震えていたことに、気づいていたのはヒルデだけだった。
暖炉の火が静かに燃えている。薬草を煎じた茶を飲んだ。甘草の甘みが舌に残る。コンラートが持ってきた薬草は、確かに体を温めてくれた。窓の外を、コンラートの馬が修道院の門を出ていくのが見えた。今日は報告だけで帰るらしい。
湯呑みの中の薬草が、花みたいに見えたのは、たぶん気のせいだ。たぶん。




