♰♰♰ 倉庫室にて ♰♰♰
箱の中から一本のマッチ棒を取り出すと、箱の側面にマッチ棒を擦り付け、カッと心地良い音と共にマッチの先端に小さな灯火が宿った。なんとなく火を自分の顔に近づけてみると小さな炎は黒川の顔を茜色に染まらせ温ませてくれた。ゾンビが出てくるまでいつの間にか忘れていた暖かさを久方ぶりに取り戻した気がした。
灯火を消さないように手を風よけにして火を机の上に置いてあるアルコールランプの先端の紐へと近づかせて紐に火が灯ると生まれた時は小さかった火がいっきに中指ほどまでに成長した。要らなくなったマッチ棒を流し場の中へ放り込み、アルコールランプを三脚台の下に移動させると神宮西が三脚台の上に金網を乗せ、さらにその上に水が入ったビーカーを乗せて水の中には神宮西が持っていた白いハンカチが入っていた。
神宮西は黒川の隣に座って頬杖をついた。お互いにそこで会話が止まってしまい、しばらくは現れては消えていく泡に踊らされ続けている白いクラゲのダンスをお互いにじっと見つめていた。ビーカー底に現れて上昇しては消えていく儚い泡に踊らされている白いクラゲのハンカチがまるで自分達のように見えた。
この狭い部屋に神宮西と黒川しかいない。まるで二人で世界を共有しているかのようだ。神宮西と一緒にいると時が長く感じる。ランプについている灯火が近いせいなのか体が妙に熱く、脈が早くなった。なんだか恥ずかしく感じてきた黒川はこの抑えきれない不思議な感情を紛らわそうと神宮西に話を振ろうとしたが、神宮西に先を越されてしまった。
「なんだか不思議。今朝、学校来た時にあんた達がいつもするくだらない戯言がどうせ明日もこれからもずぅーと続くのだろうなとうんざりしていたのだけど、今は遠い昔の出来事のように感じる。」
「ああ、そうだな。もうあいつらとも二度とくだらない話ができなくなった。」
神宮西はうつむいて何やら深く考え込み初めた。沸騰が収まってきた頃のビーカーの中のハンカチはまるで金魚のヒレのように水の中を軽やかに美しく舞っていた。
「さて、そろそろ布を取り出してもいい頃ね。」
神宮西はガラス棒を使ってビーカーの中にあるハンカチを取り出し、熱が冷めるまでしばらく布を皿の上に置いたままにした。ハンカチからは白い湯気が上昇していた。
「んじゃ、これから消毒をするから手を洗っといて。」
黒川は言われた通りに蛇口をひねって傷ついた手を洗った。
「ところでさ、神宮西って手当の仕方とかわかるの?」
「大丈夫!海外ドラマで見たから。」
「ドラマかよ・・・・」
黒川は不安になってきた。そして神宮西は消毒液の代わりに使うアルコールランプに入っているアルコール液を黒川の傷口にそのまま中身を全部ぶっかけた。黒川の傷ついた手からやけどをするような痛みが襲った。
「いってっ!こういう時は普通、ガーゼとかに染み込ませて傷口につけないかっ!?」
「ドラマではそうだったのっ!」
「どういうドラマだよ・・・」
神宮西は冷えてきたハンカチを手に取るとハンカチを洗面台の上で絞り出して黒川の傷ついた手にハンカチを巻きつけ始めた。神宮西のハンカチを巻き付け方は大雑把で黒川でさえ不器用に感じるが雑ながらも懸命に手当をしてくれているのはわかった。
神宮西の顔をちらっと覗いて見ると、まだ火がついたままのアルコールランプの火に顔が照らされて神宮西の顔がぽっと明るく火照って暖かみを感じる顔になっていた。こうして見ると今まで知っていた神宮西の顔とはまるで違う。神宮西の悪い噂をよく耳に入っていたから噂のイメージ通りに受け取っていたけど噂通りの人間には思えない。
元々、神宮西に偏見と憶測だけで勝手な悪いイメージを植え付けていたのは俺達の方だ。話した事もないのに俺達は神宮西に弁解するチャンスも与えないまま神宮西の事を知ろうともしないまま、自分達がそれで面白いからという理由だけで噂を真実にしていた。神宮西に関する噂は本当なのかもしれない。でも、そんな事はどうだっていい。黒川にとって真実は今、目の前にいる不器用でも温かみがある神宮西こそ真実だ。
「何?」
自分の顔をまじまじ見つめられていた事に気づいた神宮西が黒川に尋ねた。
「ありがとう。」
「え?」
「何から何まで神宮西に世話になりっぱなしでさ。傷の手当までしてもらったし、神宮西がいなければ俺達は今頃、高畑の餌になっていた。」
「私一人の力だけでここまで逃げ切れたわけじゃない。」
「そうだな。上社にコウちゃんに・・・あと一人うるさいのがいたっけ。まぁ、全員の力でなんとか理科室まで逃げ切れたけどさ、神宮西や皆と比べて俺なんてここにいても頼りないよなーいつも本山や東山にいじわるされるし、堀田や名城にはやられっぱなしだし、さっきもかっこつけても結局、名城に助けられたワケだしさ、俺ってホント情けねぇ負け犬だよな・・・・」
自虐を狙って笑いを取ろうとしただけであった。
「あんたはまったく情けなくない。」
神宮西に真剣に否定されたからそんなつもりはなかった黒川は驚いた。神宮西の突き刺すような眼差しを黒川は受けていた。
「黒川、本当の負け犬と言うのはね。何もしなかった人の事を言うの。痛みや恥を描くのを嫌がって人の不幸を見て見ぬフリをして何もしなかった奴らの方がよっぽど負け犬。私もその内の一人だからよくわかる。そういう人達に比べたら堀田達にやられっぱなしだろうが丸之内をいつも助けに立ち向かってきたあんたは立派な勝ち組だよ。」
なぜそう言える?なぜそう確信できる?今まで勝った試しなんてない黒川にとってはいまいち神宮西が言っている勝ち組の実感が得られずに信じられなかった。
「本当にそう思えるか?」
「うん。」
誰かに同意してもらうと黒川はなんだか肩の荷が取れたように楽になった。今ままでして来た事は無駄じゃないのかと疑ってきた気持ちに霧が晴れたように報われた。
「有難う。お世辞でもうれしいよ。」
はしゃぎたい所を神宮西に悟られないよう感情を抑えようとしているのに顔に抑えきれずに笑みがこぼれていた。この世で一人でも自分を評価してくれる人がいる。こんな嬉しい事はない。




