キンキン……です!
朝の市場が本格的に騒がしくなり始めた頃、《壊れもの屋》の前に魚売りが大きな箱を抱えて現れた。
「開いてるな。よし」
確認というより独り言だった。
男は返事を待たずに戸口をくぐると、木と鉄で組まれた箱を床へ下ろした。どすん、と重い音がして、棚の小瓶が揺れる。
作業卓に向かっていたリゼが手を伸ばし、落ちかけた一本を受け止めた。
「危ないです」
「悪かったよ。朝からこいつ抱えて南通りを半分歩いてきたんだ。腕がもう言うことを聞かん」
魚売りは額の汗を拭い、箱を恨めしそうに見下ろした。
大人が両腕で抱えるほどの古い保冷箱だった。外板には白い霜が薄く張り、鉄の留め具まで冷えている。それなのに底からは絶えず水が染み出し、濡れた長靴の跡と混じりながら床へ広がっていく。
「床!」
ミナが雑巾を掴んで駆け寄った。
「悪いな」
「悪いと思ってる人は、もう少し端に置くんだよ」
「置いた後に言われても遅い」
「こっちの台詞!」
魚売りは肩を揺らして笑い、親指で店の外を示した。
開け放した戸の向こうには荷車が止まっている。魚籠の上には砕いた氷が厚く敷かれ、その隙間から銀色の尾が覗いていた。
通りでは朝の値を張り上げる声が飛び交い、天秤の皿が忙しなく鳴っている。少し離れた氷屋の前には既に列ができていた。
魚売りはそちらを一度見て、露骨に顔をしかめた。
「こいつ、何か部品になるか」
「部品?」
ミナが雑巾を箱の下へ押し込む。
「廃品置き場へ持ってく途中だったんだ。三軒回ったが、もう寿命だとよ。鉄でも石でも、使えるなら置いていく」
リゼが顔を上げた。
「捨てますか」
「ああ」
「もう使いませんか」
「使えないから朝っぱらから氷屋に並んだんだよ」
魚売りは外の荷車を顎で示す。
「今日一日で銀貨が何枚飛ぶと思ってる。魚より氷の値段を気にする生活は、さすがに終わりにしたい」
「分かりました」
リゼの返事は早かった。
「引き取ります」
「助かる。廃品置き場まで、あと三つ角を曲がらずに済んだ」
男は本当にそれだけのつもりだったらしい。箱から離れると、凝った肩を大きく回し始めた。
ミナは濡れた雑巾を絞ってから、棚の端に重ねていた木札を一枚取った。紐を保冷箱の留め具へ通すと、木札が霜の張った外板へ当たり、こつ、と小さく鳴る。
それを待っていたように、リゼの指先が箱へ伸びた。
「これで見られます」
魚売りが肩を回すのをやめた。
「ずいぶん律儀だな」
「うち、一応廃品回収屋だしね」
ミナは雑巾を広げ、まだ濡れている床へ戻した。
「まだ使うつもりの物を勝手にいじって、直りませんでしたって言われても困るでしょ」
「なるほどな。直す店にも面倒があるわけだ」
「廃品を直す店」
「そこ大事か」
「最近、大事になったの」
ミナが言うと、魚売りは何かを察したようにリゼを見た。
当の本人はもう聞いていない。
保冷箱の前へしゃがみ込み、霜の張った外板へ手を当てていた。
手のひらの熱で白い霜がほどけ、指先を濡らしていく。
「冷えています」
「外はな」
魚売りは疲れた声で応じた。
「中はぬるい。氷を突っ込んでも昼には水だ。昨日なんか魚を出した後の箱の方が、外の石畳より暖かかったぞ」
リゼは留め具へ指を掛け、蓋を持ち上げた。
冷気は来なかった。
むわりと生ぬるい空気が吹き出し、正面にいたリゼの前髪をふわりと持ち上げる。
そのまま変な位置で止まった。
リゼは箱の中を見る。
ミナはリゼを見る。
「……リゼ」
「何ですか」
「頭」
リゼは箱から目を離さないまま、片手で前髪を押さえた。
「普通です」
「まだ見てないよね」
「普通だと思います」
「急に弱気になった」
魚売りが吹き出した。
「嬢ちゃん、面白いな」
「それで、どうなのよ」
リゼはもう片方の手を箱の中へ入れていた。
底には溶けた氷の水が残り、内壁もほんのり温かい。手を抜いて外板へ触れると冷たく、また中へ戻せば温い。
もう一度。
外。
中。
今度は底。
四度目で、ミナが見かねて口を開いた。
「まだ触るの?」
「確認しています」
「三回くらい前から結果は同じだよ」
「次は違うかもしれません」
「箱ってそんな急に気が変わる?」
リゼは答えず、底へ押し当てた手のひらを少しずらした。
やはり温い。
そこで初めて顔を上げる。
「冷却石は替えましたか」
「替えた。最初の工房でな」
「強い物に?」
「そう言われた。冷えないのは石が弱ってるせいだって」
魚売りは腕を組み、記憶を辿るように天井を見た。
「それで駄目。次のところでは、箱が古いから一個じゃ足りんと言われて、もう一つ入れた」
リゼの手が止まる。
「足した?」
「ああ。その時は俺も納得したんだよ。古い物は力が落ちる。だったら増やせばいいってな」
「増やした」
「増やした。で、冷えない」
魚売りの口元が苦く歪む。
「昨日の三軒目じゃ、石がまだ弱いと言われた。業務用を入れれば朝から夕方まで持つって話だったから、残ってた銀貨を出した」
開いた戸の向こうを、氷屋の荷車が通っていった。
積まれた氷が朝日に光る。
魚売りはそれを目で追い、深く息を吐いた。
「結果、今朝もあそこへ並んだ」
「もっと強い石を」
「入れたよ」
リゼは箱へ向き直った。
それまでと同じ無表情だったが、手だけが少し速い。
外板の縁へ指を滑らせ、木枠との継ぎ目を探る。霜を拭うと、小さな整備板が現れた。
「工具を」
「はいはい」
ミナから細い鉄具を受け取り、留め具を外す。
整備板を持ち上げた途端、奥から青白い光が漏れた。
「……三つ」
リゼが呟く。
冷却石が三個、狭い内部へ押し込まれるように並んでいた。
古い物。
後から足されたらしい新しい物。
そして一番奥には、その二つより明らかに大きな冷却石が、強い光を放っている。
リゼは端から順に見た。少し間を置き、また最初へ戻る。
ミナが横から覗き込んだ。
「三つだよ」
「はい」
リゼはもう一度見た。
「三つです」
「だから知ってるって」
魚売りが後ろから覗き込み、顔をしかめた。
「そんな風になってんのか。俺は一個ずつ金を払っただけだから、中を見たのは初めてだ」
リゼは冷却石から伸びる魔力導管を追った。
三本の細い流れは箱の底で一つに集まり、内壁を巡って側面へ上がっている。そのまま外板の奥へ潜り込んでいたが、途中から流れが急に鈍くなっていた。
整備板の横を指で叩く。
こつ。
少し下へずらす。
こつ。
さらに横。
こん。
リゼの手が止まった。
もう一度。
こん。
「そこか?」
魚売りが訊いた。
「多分」
「多分か」
「もう少し見ます」
リゼは小槌を取り、音の変わった場所を中心に確かめていった。導管が曲がる位置で、やはり音が鈍る。
魔力の流れも、そこで止まっていた。
「ここです」
「何がある」
「出口が」
「出口」
「はい」
リゼは導管へ指を当て、箱の内側から外板へ向けてなぞった。
「熱が、こう行きます」
「おう」
「ここまで」
「おう」
指が止まる。
「……行ってません」
魚売りも黙った。
リゼは箱の中へ手を入れる。
「こっちは、ぬるいです」
「それは朝から知ってる」
今度は外板へ触れる。
白い霜へ手のひらを当て、少し考えた。
「こっちは、キンキンです」
一拍置いて、魚売りがミナを見た。
「俺が分かってないのか?」
「大丈夫。私も今ちょっと不安になった」
「キンッキン!……です」
リゼが言い直す。
「そこを強く言われてもな」
リゼは内側と外板を交互に指した。
「熱が、外へ行くはずです。でも、行ってません。なので、戻って……ぬるいです」
魚売りは箱を見た。
外板の霜。
中に溜まった生ぬるい水。
三つの冷却石。
しばらく無言で眺めたあと、顔を覆う。
「……俺、出口が詰まった箱に、冷やす石だけ三つ突っ込んだのか」
「はい」
「三軒回って」
「はい」
「三回、金払って」
リゼは一番大きな冷却石を見た。
「かなり悪化しています」
「最後だけ急に分かりやすいな!」
魚売りの声が店に響き、戸口近くまで寄ってきていた鴎が驚いて飛び去った。
ミナは腹を抱えて笑っている。
「笑い事じゃねえよ。今朝の氷代まで入れたら、魚何匹売れば戻ると思ってる」
「氷屋はとっても喜ぶと思うけどね」
「もう考えた! 負けた気がしてやめた!」
リゼは聞いていなかった。
三つの冷却石を見ている。
どれも壊れていない。
詰まった場所さえ戻れば、全部動く。
一個でも、この箱には十分だ。
三個なら。
リゼの鼻が、ほんの少し動いた。
ミナが笑うのをやめた。
「リゼ」
「何ですか」
「今、何考えた?」
「特にありません」
「鼻」
リゼが鼻を押さえた。
魚売りが怪訝そうに二人を見る。
「鼻がどうした」
「嫌な予感がするの」
「これ以上まだ何かあるのかよ!?」
ミナは青白く光る三つの冷却石を見た。
それから、鼻を押さえたまま同じ場所から目を離さないリゼを見る。
「店、閉めてきたの?」
「いや、人に任せてきただけだが」
「じゃあ早めに閉めてきて」
「まだ魚が残ってるから無理だ」
「じゃあ、昼までに売り切れ」
「なんでだよ」
ミナは少し、言葉を考えた。
「多分、戻ってきた頃には」
保冷箱の前で、リゼが袖を肘までまくり始める。
「あんたの知ってる箱じゃなくなってるから」




