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8/11

二歩でした

 翌朝の東街道を、三台の荷馬車がのんびりと東へ進んでいた。


 王都を出てしばらくは石畳が続く。


 それが土に変わるころには、荷台の木箱が轍のたびに軋み、昨夜の雨を吸った地面が車輪に鈍く貼りついた。


 バルトは、二台目の馬車の脇を歩いていた。


 背には、濃紺の大盾。


 三年ぶりに、倉庫から引っ張り出した盾だった。


 もっとも、引っ張り出したときの姿は、今とは似ても似つかなかったが。


「なあ、それ新調したのか」


 反対側を歩く男が、朝からもう三度目になる問いを投げた。


「いや」


「じゃあ何なんだよ、それ」


「直した」


「直したって、お前……盾はとっくに買い替えてただろ。倉庫で埃かぶってた、あのボロがあったじゃねえか」


「それだ」


「……は?」


 男は、まじまじと盾を見た。翼を広げた鷲、傷ひとつない濃紺。


 かつてオーガのへこみが深く刻まれていた、あの一枚とは、とても思えない。


「新品にしか見えんぞ」


「俺にも分からん」


「何が」


「何をされたのか」


 男が盾を見る。バルトも、つられて背中を気にした。


 自分の持ち物のはずが、他人の武器を預かっているような気分になってくる。


「修理屋に出したんだよな」


「ああ」


「……怖いこと言うなよ」


「俺が一番怖い」


 この会話が、今朝だけで何度目になるか、もう数えていなかった。


 王都の門でも、組合の受付でも、荷主にまで、同じ顔で同じことを訊かれた。


 三年前まで、十年以上も背負っていた盾だ。あのオーガのへこみを覚えている古株も多い。


 捨てる捨てると言い続けていた盾が、傷ひとつない姿で持ち主の背に戻っていれば、むしろ気づかれない方がどうかしている。


 バルトは、背の大盾を軽く揺すった。


 重さはある。


 だが、昔の重さではなかった。


 革帯を通って流れ込む魔力が、歩くたびに盾の重心を勝手に追いかけ、背筋のほうへ寄せてくる。


 この三年、代わりに使ってきた盾より、ひと回りは大きく、ずっと重いはずの鉄板だ。


 それが、担いでいることを忘れそうになるほど、身体に馴染んでいた。


 肩が軽い。


 息も、上がらない。


 思えば、この盾を手放したのも、重さのせいだった。


 受けるたびに腕を痺れさせ、最後にはオーガの一撃で、三日、右腕を殺した。そういう盾だったはずだ。それが今は、肩の一つも凝らせない。


「……楽だな」


「何が」


「何でもない」


 バルトは前を向いた。口元だけが、少し動いていた。


 東街道の左右には、腰の高さまで伸びた草地が続いている。


 春には薬草採りが入り、夏には牧場の家畜が放たれる、のどかな一帯だ。遠くの低い丘を越えれば、あとは麦畑がどこまでも広がっている。


 護衛の仕事としては、退屈なほど楽な道だった。


 だからこそ、草むらから鳥の群れが一斉に飛び立った瞬間、バルトの足はもう止まっていた。


「止まれ」


 短く言う。


 三台の馬車が、順に停止した。手綱を引かれた馬が、落ち着かなげに鼻を鳴らす。


「どうした」


「右だ」


 バルトは、背から大盾を下ろした。


 草が揺れている。風ではない。何かが、草を薙ぎ倒しながら、まっすぐこちらへ近づいてくる。


 隣の男が、剣の柄へ手をかけた。


「鎧角牛か」


「多分な」


「群れから逸れやがったか」


 言い終わる前に、草むらが割れた。


 黒褐色の巨体が飛び出す。


 肩の高さだけで人の胸を越え、頭には左右へ張り出した太い角。首から背を覆う分厚い皮が、朝の光を鈍く弾いた。


 鎧角牛。


 東部の草地に棲む魔獣で、気性が荒い。単独の個体は特に始末が悪く、荷馬車の車輪や馬の蹄の音に苛立って、見境なく突っ込んでくる。


 そして何より、重い。


「馬車を下げろ!」


 御者たちが慌てて手綱を引く。だが三台も連なった荷車は、そう簡単には動かない。


 鎧角牛が、前脚で地面を掻いた。低く頭を下げる。狙いを、馬車の腹へ定めていた。


「バルト!」


「分かってる」


 バルトは、馬車の前へ出た。


 大盾へ、左腕を通す。


 魔力が、流れ込んだ。


 肩へ。


 腰へ。


 脚へ。


 力を入れるより先に、入れるべき場所へ、力が満ちる。


「……本当に、動くんだな。これ」


 昨日、この鉄の塊を細い片腕でひょいと提げていた修理屋を、ふと思い出した。


 気づけば、鼻が小さく鳴っていた。


「おい、笑ってる場合か!」


「笑ってねえよ!」


 鎧角牛が、走り出した。


 地面が揺れる。一歩ごとに土が跳ね、太い角がまっすぐ大盾へ伸びてくる。


 バルトは、腰を落とした。


 昔なら、ここで右腕へ渾身の力を込めていた。肩を固め、奥歯を食いしばり、衝撃の来る一瞬だけ息を止める。そうやって受けても、腕の芯にはいつも鈍い痺れが残った。


 三年前は、それどころではなかった。


 あのときは、馬車に足を挟まれた仲間を庇って、避けるに避けられなかった。


 盾の中央でオーガの一撃を正面から受け、そこから腕へ叩き込まれた衝撃で、肩ごと千切れるかと思った。

 その痛みを、身体のほうが先に覚えている。


 だから今も、身体は勝手に身構えていた。来るぞ、と。


 角が、大盾の中央へ激突した。


 ぐ、と喉の奥が鳴る。


 衝撃は、確かに来た。


 だが、腕には来なかった。


 中央で受けた力が、鉄板の中を走っていく。八方へ。縁へ。盾の隅々へ。盾そのものが大きく身震いし、逃げ場を求めた力の一部が革帯を逆流して、崩れかけたバルトの腰を、内側から押し返した。


 右足が、下がる。


 一歩。


 だが、鎧角牛は止まらない。


 角を盾へ押しつけたまま、四本の脚で地を蹴り、全身の重みを預けてくる。


 一度ぶつかって終わる衝撃槌とは、そこが違った。押し込まれる。


 二歩目。


 バルトの足が、じり、と土を削った。


 そして、止まった。


 鎧角牛は、まだ押している。土を掻き、鼻息を荒らげ、体重のすべてを角の一点へ乗せている。


 それでも、盾は動かない。


 バルトの腕は、痛くなかった。肩は上がる。腰も、まだ立っている。


 来るはずの痛みが、いつまで待っても、来ない。


 身体のほうが、戸惑っていた。


「……は?」


 大盾の陰で、間の抜けた声が漏れた。


「バルト、何やってんだ!」


「す、すまん!」


 我に返り、バルトは盾をわずかに傾けた。


 正面から逸れた角が、鉄の面を滑る。たたらを踏んで横へ流れた巨体へ、待ち構えていた仲間たちが、左右から声と魔術を浴びせかけた。


 鎧角牛は一度だけ振り返ったが、馬車より騒がしい相手が増えたと踏んだらしい。太い鼻を鳴らし、草地の奥へ土煙を上げて走り去っていった。


 あとには、薄い土埃だけが残った。


 バルトは、しばらく盾を構えたまま動かなかった。


「……おい」


 隣の男が、恐る恐る近づいてくる。


「お前、今、あれを押し返してなかったか」


「押し返しちゃいない」


 バルトは、ようやく盾を下ろした。


「止めただけだ」


「『だけ』で済む話か!」


 バルトは、右腕を上げてみた。


 回す。


 問題ない。


 もう一度、回した。やはり、どこも痛まない。


「……上がるな」


「そりゃ上がるだろ、腕なんだから」


「ああ、そう、だよな」


「何の話だよ」


「こっちの話だ」


 バルトは、大盾の中央を見た。


 傷ひとつない。


 翼を広げた鷲は、昨日、試験場で最大出力を受けたときと、まるで同じ顔をしていた。


「二歩」


「あ?」


「いや」


 バルトは、盾を背負い直す。


「……覚えとくだけだ」



 昼を少し過ぎたころ、《壊れもの屋》の扉が開いた。


 作業台で小さな金具を磨いていたリゼが、顔を上げる。


 濃紺の大盾が、持ち主より先に店へ入ってきた。


「壊れましたか」


「第一声がそれか」


 バルトが盾を下ろしたときには、リゼはもう作業台を離れていた。


 中央。


 縁。


 革帯。


 水色の視線が、順に盾を撫でていく。


「壊れていません」


「俺もそう思う」


「では、何がありましたか」


「鎧角牛が突っ込んできた」


 リゼの顔が、上がった。


「走っていましたか」


「そこを最初に訊くのか」


「走っていましたか」


「……ああ。全速力だ」


 水色の瞳が、わずかに明るくなった。ような気がした。バルトには、その判断がつかない。


 リゼの視線が、また盾へ戻る。


 バルトは、先に言うことにした。


「二歩だ」


 リゼの手が、止まった。


「二歩」


「押された。二歩で、止まった」


「その後は」


「その後?」


「押し続けましたか。それとも、当たった一度きりですか」


「……しばらく押し続けてたな。四本足で、体重ぜんぶ乗せて」


 リゼは、大盾の中央へ手を置いた。


 傷はない。魔力の流れにも、乱れひとつない。


 衝撃槌とは違う。あれは、一度ぶつかって終わりだった。今度は、相手が自分の脚で、休みなく押し続けた。全体重を、真正面から。


 それでも、二歩。


 リゼは、しばらく盾を見つめていた。


「ふす」


 鼻が、小さく鳴る。


「……今、なんで満足そうなんだ」


「普通です」


「腕もな、上がるんだぞ」


 バルトが、右腕を大きく回してみせた。


「はい」


「三年前は、三日上がらなかったんだ」


「聞きました」


「……もう少し、驚いてくれてもいいだろ」


 リゼは、大盾へ目を戻した。


「正常です」


「そうだろうな」


 バルトは、もうその返事にも慣れ始めていた。慣れてきた自分が、少しだけ情けなくもあった。


 カウンターの奥で帳簿を開いていたミナが、伝票を一枚、すっと抜いた。


「じゃ、修理代ね。銀貨十二枚」


 バルトが財布へ手を伸ばし、その手を、途中で止めた。


「……十二枚で、いいのか」


「私も、安いと思ってる」


「おい」


「でも、リゼに値段を訊くと、銀貨三枚になるから」


「三枚では、駄目ですか」


「駄目」


 ミナの即答だった。


 バルトが、こらえきれずに噴き出す。


「脚立と同じか」


「覚えてたんだ」


「忘れられるか、あんな話」


 銀貨が十二枚、カウンターへ並んだ。ミナは一枚ずつ指で確かめ、帳簿へ数字を書き込む。


「毎度ありがとうございます」


「こっちの台詞だ」


 バルトは大盾を背負い、扉へ向かった。


 が、その手前で一度、足を止めて振り返る。


「組合じゃ、会う奴会う奴に訊かれたよ」


「何をですか」


「その盾、どこで直したんだ、ってな」


「ここです」


 リゼが、即座に答えた。


「……いや、俺に答えてどうする」


 バルトが、片手で顔をこすった。


「名前は、もう出しておいた。そのうち、ここへ客が来るぞ」


「そうなのですか」


「そうなの」


 ミナが、横から答えた。


 バルトは、声を上げて笑いながら店を出ていった。


 濃紺の大盾が、昼下がりの通りを遠ざかっていく。


 昨日までは、倉庫で埃をかぶっていた盾だ。今日は、持ち主の背に担がれて、日の下を歩いている。


 リゼは、それが見えなくなるまで、扉のところに立っていた。


「満足した?」


 ミナが、帳簿を閉じながら訊く。


「はい」


「本当に?」


 リゼは、少し考えた。


「鎧角牛より、重いものは」


「探さなくていいからね」


 即答だった。


 その時、店の前で、車輪の音がぴたりと止まった。


 二人が、揃って顔を向ける。


 小さな荷車が一台、入口へ横づけされていた。荷台には、白い霜をびっしりと張りつかせた、大きな木箱。


 その箱の底から、ぽたり、ぽたりと、水が滴り続けている。


 御者台から降りてきたのは、今朝、街で見かけた魚売りの女だった。朝よりも、ずっと困り果てた顔をしている。


「ここ……壊れた物を、直してくれる店だよね」


 リゼの視線が、木箱へ向かった。


 板の隙間から、ぬるい風が、ゆるゆると漏れ出している。


 冷えているべきものが、冷えていない。


「はい」


 リゼは、立ち上がった。


「壊れています」

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