よく冷えますね?
魚売りは結局、残った魚を売りに戻っていった。
「売り切ったら顔を出す。直ってたら、値の相談だ」
「直ってたらね」
「直ります」
「あんたはもう黙ってて」
ミナに追い払われるように、魚売りは空きかけの荷車を押して市場の方へ消えた。
戸口の喧騒が、少しだけ遠ざかる。
店には、腹を開かれた保冷箱と、その前にしゃがみ込んだリゼだけが残った。
リゼは詰まった導管へ指を添えた。
流れは見えている。三本の魔力が底で一つに集まり、内壁を巡って外板の裏へ上がる。
そこで、外へ抜ける直前の一点が潰れていた。行き場をなくした熱が、内側へ押し戻されている。
もう持ち主はいない。留め具には、ミナの掛けた木札も下がっている。
直せる。
「《廃式修復》」
指先から魔力が沈み込む。
潰れていた導管が、ゆっくりと形を取り戻した。狭まっていた道が開き、押し戻されていた流れが、一気に外板の奥へ走る。
リゼの目が、その一本を追った。
「通りました」
ミナが作業卓の椅子から身を乗り出す。
「直ったの?」
「これからです」
リゼは青白く光る三つの冷却石を順に見た。
古い石と、後から足された石、そのさらに奥には業務用の大きな石が収まっている。どれも、通り道さえ戻れば正しく働く。
この箱には、一つで十分だった。それが三つ、しかも全部、正常に動く。
「ミナ」
「何」
「この箱には、一つで足ります」
「じゃあ二つ抜こう」
「……」
リゼは三つの冷却石を見た。
「リゼ?」
「はい」
「抜こう」
「まだ、直したばかりです」
「うん」
「動作確認が、必要です」
「一個で?」
「三個、付いています」
「一個で足りるんでしょ」
「はい」
「リゼ」
「動作確認です」
返事だけが、妙に早かった。
「絶対、試したいだけじゃん」
「違います」
「鼻」
リゼが鼻を押さえた。
「押さえても遅いよ」
「動作確認です」
「二回言った」
リゼは整備板を元へ戻し、留め具を掛けた。
箱が、静かになる。
いや、静かになったのではなかった。
低い、細い音が、箱の底で回り始めている。
ミナが眉を寄せた。
「なんか、鳴ってる」
「回っています」
「さっきまで鳴ってた?」
「詰まっていましたので」
外板の霜が、みるみる厚くなっていく。
朝は薄く張っていただけの白が、見ている間に粒立ち、縁で氷の羽になった。底に残っていた生ぬるい水が、端から白く濁っていく。
こきり、と小さな音を立てて、水面が固まった。
ミナが、ふと足元を見る。
さっき床を拭いた雑巾が、箱の下で妙に平べったくなっていた。つまみ上げようとして、動かない。
「……リゼ」
「はい」
「雑巾、床にくっついてる」
「凍ったのでは」
「凍ったんだ」
「はい」
「軽く言うね」
箱から冷気が薄く這い出し、床を伝って広がっていく。
作業卓の上では、ミナの飲みかけの茶が、湯気を細く上げていた。
その湯気が、途中で止まる。カップの中で、茶の表面が、うっすらと膜を張った。
「私のお茶」
「冷めましたね」
「冷めるっていうか」
ミナがカップを傾ける。
中身は、傾かなかった。
「凍ってる」
「はい」
リゼは箱の正面へ屈み込み、留め具の隙間から漏れる冷気を確かめていた。
冷たい風が、正面から吹き上がる。
朝、生ぬるい風に持ち上がった前髪が、今度は白い冷気に押されて、また持ち上がった。そのまま、うっすらと霜を被って止まる。
ミナが見た。
「リゼ」
「何ですか」
「頭、また変」
「普通です」
「今度は凍ってるよ」
「……普通です」
前髪の先が、きらりと光っていた。
リゼは前髪を押さえようとして、手を止めた。
箱を、もう一度見る。
外板は完全に凍りつき、留め具は白く、底の水は氷の塊になっている。
朝、これは、生ぬるい箱だった。
リゼの鼻が、動いた。
いつもの、ほんの少しではなかった。二度、妙な方向へ動いて、止まる。
自分でも、それに気づいたらしい。片手で、鼻を押さえた。
ミナが横目で見る。
「今の鼻、何」
「わかりません」
「わからないんだ」
「はい」
珍しく、リゼの返事に間があった。
リゼは霜の張った整備板を、もう一度外した。
冷気が、開いた隙間から一気に噴き出す。
ミナが後ろへ下がった。
「うわ、寒っ」
リゼは動かない。
噴き出す冷気の中で、青白い光を確かめていく。
三つの石は、どれも割れておらず、ひびもなく、光にむらもなかった。
導管も、底で一つになった流れが内壁を巡り、今度はきちんと外板の奥まで伸びている。
途中で止まっていない。折れていない。固定枠にも、ずれはない。
熱は外へ抜け、冷気は中に満ちている。
全部、設計どおりに動いていた。
リゼの手が止まる。
「……壊れていません」
「どこも、壊れていません」
ミナが、凍った茶のカップを両手で持ったまま、リゼを見た。
「リゼ」
「はい」
「箱、凍ってるよ」
「はい」
「お茶も凍った」
「はい」
「雑巾も、床にくっついてる」
「はい」
リゼは、青白く光る三つの石を見た。どれも正しく回り、通り道は通っている。この箱は、ちゃんと直っていた。
リゼの鼻が、今度はいつもの動きをした。
ふす。
「冷却機構は、正常です」
ミナが天を仰いだ。
「そこ、誇るとこ?」
「正常ですので」
「冷えすぎてるでしょ」
「冷えすぎではありません」
「凍ってるってば」
「よく、冷えます」




