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箱が先か

 店は、まだ凍っている。


 外板を厚い霜に覆われた保冷箱が、低い音を立てて回り続け、床の雑巾は張りついたまま、作業卓のカップの中では茶が斜めに固まっていた。魚売りは、まだ戻らない。売りに出たきり、市場のどこかにいる。


 その凍った店の真ん中で、リゼは箱の前にしゃがんだまま動かない。


「ねえ、そろそろ止めない?」


 ミナが両腕をさすりながら言った。


「まだです」


「もう十分冷えたでしょ。凍りすぎるくらい冷えた。私のお茶、氷になってる」


「水は、零度で凍ります」


「知ってる」


「凍った時点で、それ以上は分かりません」


「何が言いたいの」


「どこまで、奪えるのかと」


「奪える?」


「熱を」


 リゼは、凍った茶のカップを見た。それから、床に張りついた雑巾を見る。


「これは、零度で止まっています。もっと熱い物を入れれば」


「入れれば?」


「どこまで奪えるか、分かります」


 ミナは湯を注ぐのをやめて、リゼを見た。


「うちに、熱い物ないよ」


「はい」


「だから諦め――」


「鍛冶場に、あります」


 ミナは、凍ったカップを持ち上げようとしていた手を止めた。


 リゼが箱の音を止めると、低い回転音が消え、店がようやく静かになった。それでも外板を覆った霜は、すぐには溶けない。


 リゼは箱の両脇へ手を掛けた。


「何してるの」


「運びます」


「無理だよ」


 少し持ち上がった。


 すぐに戻った。


 どすん、と床が鳴る。


 リゼは箱を見た。


「重いです」


「知ってる」


「魚売りは、運びました」


「腕が死んだって言ってたでしょ」


 リゼは少し考え、店の裏へ向かった。


「どこ行くの」


「荷車を」


「行くのは決定なんだね」


 廃品を運ぶための手押し荷車へ箱を載せるだけで、二人は朝から一仕事した。


 南通りの外れに、古い鍛冶場がある。


 魚売りの荷車が通る道の、さらに一本奥。炉の煙が朝から真っ直ぐ立ち上り、金槌の音が路地の壁に反響していた。


 リゼは、箱を載せた手押し荷車を押している。自分の背より大きい箱を荷台に凍らせたまま、姿勢はまっすぐのまま。


 荷車の車輪が石畳の継ぎ目へ落ちるたび、箱ががたんと揺れた。そのたびにリゼが足を止め、霜の状態を確認するので、鍛冶場までの道はなかなか進まない。


「壊れないよ」


「確認しています」


「三つ角進む間に、四回確認したよ」


「次は違うかもしれません」


「箱ってそんな急に気が変わる?」


「ねえ」


「はい」


「まだ間に合うよ」


「何がですか」


「引き返すの」


「引き返しません」


「熱い物なら、お湯でよくない? お湯も熱いよ」


「お湯は、百度で終わります」


「終わってくれた方が助かるんだけど」


 鍛冶場の主は、腕の太い年寄りだった。


 炉の前で、真っ赤に焼けた鉄の棒を金床へ押し当てている。打つたびに橙色の火花が跳ね、足元の水桶がじゅっと鳴った。


 リゼは荷車を炉の脇へ寄せ、炉の中を覗き込んだ。


 赤い。


 炉の底で、鉄の塊がひとつ、白に近い赤で光っている。


「あれを」


「あん?」


 主が金槌を止めた。


「あの、赤いのを」


「これか。焼き入れ前の地金だ。嬢ちゃんに何の用だ」


「借ります」


「貸すもんじゃねえよ、これは」


 リゼは荷車の上で、箱の蓋の霜を手で払った。


 木と鉄で組まれた古い保冷箱。外板はまだ白く凍りつき、止めたばかりの中からは、うっすらと冷気が立っている。


 その蓋を、炉の横で、開けている。


 ミナが状況を理解した。


「待って」


「はい」


「待って待って待って」


「三回言いました」


「あの赤いのを、その箱に、入れる気?」


「はい」


「燃えるよ!?」


「冷やしますので」


「燃えてから冷やすの!?」


 主が二人を見比べ、金槌を肩に担いだ。


「嬢ちゃん、その箱は木と鉄の合わせ物だろう」


「はい」


「炉の地金を放り込んで、一気に冷やす気か」


「はい」


「木と鉄じゃ、縮む速さが違う。ただじゃ済まんぞ」


「冷却石が、三個入っています」


「三個?」


 主が眉を上げた。


「そんなちゃちな箱に、業務用でも一個だろう」


「三個です」


 リゼの返事が、少し早い。


 ミナがその横顔を見た。


「今の、ちょっと得意げだったよね」


「事実です」


「事実を言う時の顔じゃなかった」


 主はしばらく箱を眺め、それから炉の赤い塊を見た。


「まあ、貸すもんじゃねえが……壊れても知らんぞ」


 主が、そう言いかけた時には。


 リゼは、もう炉端に掛かっていた火挟みを手にしていた。


「おい、そいつは俺の――」


 返事はなかった。


 リゼは火挟みで炉の地金を掴み、引き出す。空気が揺れ、赤い塊の熱で頬がひりついた。ミナが一歩下がる。


 リゼは、下がらなかった。


 まっすぐ荷車へ戻り、開いた箱の口へ、白熱した地金を落とし込む。


 じゅう、と底が鳴った。


「待っ……」


 ミナの三回目が終わる前に、リゼが蓋を閉じ、留め具を掛けていた。


「……入れた」


「入れました」


 主が火挟みを取り返そうと伸ばした手が、宙で止まる。もう、遅い。


「回します」


「本気!?」


 リゼの指が、整備板の脇へ触れた。


 低い、細い音が、箱の底で回り始める。


 さっき店で聞いたのと、同じ音。


 ただし今は、中に真っ赤な鉄が入っている。


 最初は、何も起きなかった。


 箱は、静かに音を立てているだけ。外板の霜も、まだ薄い。


「……意外と、平気じゃない?」


 ミナがそう言いかけた時だった。


 箱の中で、ぱき、と乾いた音がした。


「今の何」


「鉄です」


「鉄が鳴った?」


「急に冷えると、鳴ります」


 ぱき。


 ぱきり。


 音が増えていく。真っ赤だった鉄が、内側から一気に熱を奪われ、縮んでいく音だった。


 同時に、外板の霜が、さっきの倍の速さで厚くなる。


 留め具が、ぎ、と軋んだ。


 ミナが箱から距離を取った。


「リゼ」


「はい」


「箱、変な音してる」


「木です」


「木も鳴るの!?」


「鉄が縮んで、箱が冷えて、両方が別々に縮んでいますので」


「それ大丈夫なやつ!?」


 リゼは箱の正面へしゃがみ、留め具の隙間へ耳を寄せた。


 中は、見えない。白い霜に覆われた蓋の向こうで、鉄が縮む音だけが、間隔を詰めて続いている。どこまで冷えたのかは、外からは分からない。


 リゼの鼻が、動いた。


 木枠が、みし、と鳴る。


 鉄板の継ぎ目が、ぎちぎちと悲鳴を上げ始めた。


「箱が先か」


 リゼが呟いた。


 ミナが振り返る。


「何が?」


「鉄が冷えるのが先か」


「賭けにしないで!」


 ぱきん、と一際大きく鉄が鳴った。


 留め具の一つが、耐えかねて、ぱちりと外れて跳ねる。


 ミナが悲鳴を上げ、主が「おお」と声を漏らした。


 リゼだけが、動かない。


 外れた留め具の飛んだ先を、目で追っただけだった。


 箱が、大きく一度、身震いするように鳴る。


 木枠の角に、細い亀裂が走った。


 そして――


 音が、止んだ。


 箱の底で、低い音だけが静かに回り続けている。


 リゼが留め具の隙間へ手を入れ、火挟みで中の鉄を挟んで、そっと引き出した。


 赤みは、完全に消えていた。


 黒い。


 ついさっきまで炉で白く光っていた地金が、灰色がかった黒の塊になって、うっすらと霜まで被っている。


 主が近づき、手袋越しにそれへ触れた。


「……冷てえ」


 火挟みで軽く弾く。


 澄んだ音が返った。


「芯まで、冷えてやがる。こんな早さは見たことがねえ」


 リゼは、その黒い塊を見た。


 芯まで、抜けている。


 どこまで熱を奪えるか――炉の地金でも、奪いきった。


 リゼの鼻が、ふす、と鳴りかけて。


 箱が、みしり、と鳴った。


 ふすが、止まる。


---


 リゼは箱へ向き直った。


 外れた留め具。木枠の角に走った亀裂。継ぎ目の緩んだ鉄板。


 整備板を外して、中を確かめる。


 三つの冷却石は、割れていない。ひびもない。光にむらもない。導管も、固定枠も、正常に働いている。


 冷却機構は、無傷だった。


 壊れたのは、箱の方だった。


「……壊れていません」


「壊れてるよ、そこ」


 ミナが亀裂を指す。


「石は、壊れていません」


「箱が壊れてる」


「はい」


「はいじゃなくて」


 リゼは、無傷の三つの石と、ひび割れた木枠を、交互に見た。


 冷却機構は、三個同時でも耐えた。


 箱本体が、耐えなかった。


「二つ、抜きます」


 ミナが動きを止めた。


「……やっと?」


「箱が先に壊れますので」


「うん」


「一つで足ります」


「朝も言ってた」


「一つで足りると、確認できました」


「その確認に、真っ赤な鉄が必要だった?」


 リゼは、黒く冷えた地金を見た。


 それから、ひび割れた箱を見る。


「……早かったです」


「鉄の話?」


「芯まで、奪いました」


「早さの話じゃない!」


 主が、炉の縁に腰を下ろして笑っていた。


「嬢ちゃん、面白いな」


「リゼです」


 ミナが訂正する。


「リゼ、また地金が余ったら、持ってきていいか」


 リゼが顔を上げた。


 ミナが、その鼻より早く口を開く。


「持ってこないで!」

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