今日は普通の物
朝、リゼが店を開けようとすると、扉が開かなかった。
「……?」
押しても引いても動かない。少し考えて肩を当てたが、それでもびくともしなかった。
「壊れましたか」
昨日までは普通に開いていた。鍵は外れているし、蝶番にも異常はない。
もう一度力を込めたところで、通りを行く魚売りの女がちらりとこちらを見た。
リゼは何事もなかったように肩を離した。
王都南端、廃品置き場に近いこの辺りは朝が早い。
古道具屋はもう板戸を外し、鍛冶屋の煙突から細い煙が上がっている。少し離れた解体場から槌の音が響き、濡れた鉄と煤の匂いが流れてきた。
《壊れもの屋》も、本来ならそろそろ店を開ける時間だった。
「何してるの」
焼きたての丸パンを入れた紙袋を抱え、ミナがやってきた。まだ少し寝癖が残っている。
「扉が開きません」
「壊れた?」
「いえ。扉は動こうとしています」
「扉の気持ちみたいに言わないで」
ミナも押してみたが、やはり開かない。
「外に何かあるんじゃない?」
「確認します」
二人は裏口から店へ入り、内側から扉を押した。
木板の向こうで、硬いものが低く擦れる。
「人?」
「人の音ではありません」
「それ、余計怖いよ」
裏口へ戻り、店の角を回る。
二人は揃って足を止めた。
巨大な盾が、入口を完全に塞いでいた。
「……何これ」
「盾です」
「見れば分かる」
人の背丈ほどもある大盾だった。
厚い鉄板を何層にも重ねた古い型で、濃紺だったらしい塗装はほとんど剥げている。中央に刻まれた王都の古い紋章も、翼を広げた鷲の輪郭がかろうじて残る程度だった。
表面には刃傷や爪で抉られた跡、焼けたような黒ずみが刻まれている。中でも目立つのは中央の大きなへこみで、鉄板そのものが拳一つ分ほど内側へ沈んでいた。
綺麗な物ではない。
けれど革の持ち手には新しい補修跡があり、縁についた泥もまだ乾ききっていない。
つい最近まで使われていた盾だった。
リゼが少し目を細める。
「持ってきた」
盾の陰から声がした。
ミナが一歩下がる。
昨日、広場の端から店を眺めていた大男が座っていた。日に焼けた顔に無精髭を生やし、擦り切れた革鎧の胸から冒険者組合の銅札を下げている。
「朝早く悪いな」
「悪いと思うなら入口塞がないでよ」
「重いんだ。ここまで三回休んだ」
男が立ち上がった時、店の軒先で、ぎ、と音がした。
古い看板の留め具が外れる。
「あ」
落ちてきた看板を、男が片手で受け止めた。
「これ、外れかけてるぞ」
「……ありがと」
何事もなかったように看板を戻す。
ミナは男の太い腕を見た。
「冒険者?」
「ああ」
「名前は?」
「バルトだ」
「ミナ。こっちはリゼ」
親指で示されたリゼは、すでに盾を見ていた。
「リゼです」
「聞いてたんだ」
「はい」
返事をしながら、視線は盾から動かない。
バルトが笑った。
「昨日も店見てたよね」
「新しい店に大事な道具を預けるのは怖いだろ」
「今日はいいの?」
「どうせ捨てる物だからな」
その言葉に、リゼが顔を上げた。
ミナは盾の縁を指で叩く。
「随分古いね」
「十年以上使った」
「まだ現役なの?」
「俺はな。盾は三年前から倉庫だ」
リゼは盾の反対側へ回ってしゃがみ込み、下端から鉄板の縁へ指を這わせた。
「業物だと思う」
ミナの目が少し鋭くなる。
「今はこんな厚く作らないし、王都守備隊の払い下げかな」
「らしいな。昔、先輩から買った」
「いくらで?」
「酒込みだったから覚えてない」
「ああ。冒険者だ」
「どういう意味だ」
この辺りでは、冒険者が妙な物を運んでいること自体は珍しくない。
魔獣の角や巨大蜘蛛の殻、誰が買うのか分からない石像まで、廃品置き場の近くには色々な物が持ち込まれる。
大盾一枚なら、向かいの古物屋が一度こちらを覗いた程度だった。
「三年前」
リゼが呟いた。
「壊れたのが?」
「ああ。でかいオーガにやられた」
バルトが指したのは、中央の深く沈んだへこみだった。
リゼは少し離れた位置から傷を見る。
「隊商護衛の途中でな。馬車に足を挟んだ奴がいて、逃げるのが遅れた」
「置いていけって言われた?」
「言われた」
「置いてった?」
「置いていくわけないだろ」
即答だった。
ミナが少し笑う。
「だと思った」
「避けたら馬車ごと潰れる。だから受けた」
バルトは盾のへこみに親指を置き、右肩を軽く回した。
「三日、腕が上がらなかった」
「よく死ななかったね」
「コイツのおかげだろう」
バルトはそう言って笑った。
ミナが盾を見る。
「それで三年間、倉庫?」
「ああ。整理のたびに捨てろと言われてる」
「捨てる気なかったんじゃない」
「今回はある」
答えるまでに、少しだけ間があった。
リゼはもう二人の会話から外れていた。
盾の裏へ回り、革の持ち手から腕を固定する金具、その内側に埋め込まれた古い魔力導管へ順に触れていく。
「リゼ、聞いてる?」
「二回り大きいオーガです」
「聞いてた」
リゼは盾を見たまま訊いた。
「工房には持っていきましたか」
「三つ回った」
そこで初めて顔を上げる。
「どこへ」
「北通りのブラウ工房、鍛冶街のゲルド。あと金冠工房だ」
最後の名前にもリゼの顔は動かなかった。ミナだけがちらりと彼女を見る。
「全部駄目だった。修復不能、部品もない。直す金で新品を買えってな」
「開けましたか」
「何を」
「盾を」
バルトが黙った。
「……開くのか?」
「はい」
リゼの眉がほんの少し寄る。
「工房では?」
「奥へ持っていかれたから知らん」
「そうですか」
リゼは盾の下端へ指を掛け、持ち上げようとした。
「……ふっ」
動かない。
「重いぞ」
リゼは反対側へ回り込んだ。
「裏返します」
「三人でやろう」
ミナは紙袋を窓辺へ置き、三人で盾を持ち上げた。
「せーの」
「重っ……!」
鉄の塊が地面を離れた途端、ミナの声が裏返った。
「これ普段どうしてたの!」
「背負ってた」
「化け物か!」
三人はどうにか店へ運び込み、盾を作業台へ載せた。
どん、と床が震え、棚の小瓶が跳ねる。
リゼが素早く受け止めた。
「危ない」
「盾に言って」
息を切らしたミナが椅子へ座る。
リゼだけは作業台の前を離れなかった。
表面の傷から裏側の金具へ視線を移し、縁を辿って中央のへこみを確かめる。さらに内側へ戻ると、古い魔力導管を指先でなぞった。
「朝ご飯」
「後で食べます」
「ああ、もう駄目だ」
「盾が?」
「リゼが」
本人は聞いていなかった。
作業台の端から小槌を取り、盾の縁を軽く叩く。
カン。
少し位置をずらす。
カン。
三度目だけ、音が変わった。
コン。
リゼの手が止まる。
同じ場所をもう一度叩き、それから音を追うように小槌を動かしていく。
カン、コン、カン。
「何してるんだ」
「聞いています」
「何を?」
「盾を」
バルトが黙る。
「何か分かった?」
ミナが訊いた。
「まだです。でも違います」
「何が?」
「まだ分かりません」
「分からないのに?」
「はい」
真顔で答えるリゼを見て、ミナがバルトへ顔を向けた。
「こういう子」
「なるほど」
「何がなるほどなんですか」
リゼは小槌を置くと、中央のへこみに手を触れた。
「これ、いつ壊れました?」
「三年前だ」
「それは、このへこみが出来た日ですよね」
「何が言いたい?」
リゼが見ているのは、大きなへこみでも、無数の傷でもなかった。
「この盾は、おそらくもっと前から、製造時から壊れています」
店の中が静かになった。
外では解体場の槌が、変わらない間隔で鳴っている。
「待て」
バルトが口を開いた。
「俺はこれを十年以上使ったぞ。魔獣にも何度も突っ込まれたし、オーガまで受けた」
「はい」
「三日、腕が上がらなかった」
「聞きました」
バルトは傷だらけの太い腕を見下ろした。
「……よく生きてたな、俺」
「あなたが丈夫だったのでは」
「俺が?」
「はい」
ミナが横を向いた。
「笑っていいですよ」
「我慢してるのに言わないで」
バルトは何とも言えない顔で盾を見る。
「本当に直るのか」
「直ります」
「三つの工房が無理だと言ったんだぞ」
「捨てられた物であれば」
迷いはなかった。
ミナが木札を持ってくる。
「一応確認するけど、直らなかったら盾はうちで引き取る。部品か鉄にするかもしれない」
バルトは中央のへこみに親指を置いた。
「未練あるなら持って帰る?」
「……長く使ったからな」
少し黙り、盾を一度叩く。
「でも、このままじゃ使わん。頼む」
「了解」
ミナが木札を下げた。
盾は条件を満たした。
バルトもミナも、その意味には気づいていない。
リゼはすでに盾の裏を覗き込んでいた。
「リゼ。料金」
「銀貨三枚ですか」
「それ脚立の値段」
「違うのですか」
「見れば分かるでしょ!」
リゼは大盾を眺めた。
「では、後で決めてください」
「急に雑!」
二人のやり取りをよそに、リゼは盾の内側へ顔を寄せていた。
一本だけ向きの違う魔力導管。
その奥にある鉄板の継ぎ目。
小槌で軽く叩く。
コン。
リゼの鼻が、ほんの少し動いた。
ミナが気づく。
「あ。今、ちょっと嬉しいでしょ」
「嬉しくありません」
「鼻」
リゼが鼻を押さえた。
「普通です」
「絶対嬉しいじゃん」
「今日は普通の物です」
そう言いながら、もう一度盾を叩く。
コン。
水色の瞳が揺れた。
「……やはり」
リゼは小さく呟いた。
「逆です」




