押してはいけない
五つ目のいいねが、まだ私じゃない。
その事実だけを、私は必死に握りしめていた。
まるで、崖の縁に引っかかった指みたいに。
でも同時に、分かってもいた。
その指は、いつか離れる。
夜になっても、スマホを手放せなかった。
通知が来るたびに、心臓が跳ねる。
例のアカウントは、静かだった。
投稿は増えない。
DMも来ない。
その沈黙が、逆に不安を煽る。
私は、真琴とのトーク画面を開いては閉じ、また開いた。
昼に来たメッセージには、結局返信できていない。
「転ぶの、あなただった気がする」
その一文が、何度も頭の中で再生される。
もし、私が「いいね」を押したら。
もし、それで未来が確定するなら。
押さなければ、何も起きないんじゃないか。
そう思いたいのに、別の考えが浮かぶ。
押さなくても、
誰かが代わりに押すんじゃないか。
実際、いいねはもう四つある。
覚えている人は、増えている。
私は、例のアカウントのプロフィールを開いた。
投稿一覧。
短い文章が、縦に並んでいる。
「明日、階段で転ぶ」
「転んだあと、誰も助けない」
「今日は、まだ転ばない」
「覚えている人が、四人になった」
「条件が、ほぼ揃った」
その下に、見覚えのない投稿が一つ増えていた。
「最後は、本人が選ぶ」
喉が、ひくりと鳴る。
選ぶ。
何を?
答えは、画面の下にあった。
いいねボタンが、やけにくっきりと見える。
まるで、そこだけ浮き上がっているみたいに。
私は、スマホを置いて立ち上がった。
このままじゃだめだ。
確認しなきゃいけない。
本当に、現実に影響があるのか。
私は、わざと階段を使うことにした。
講義棟じゃない、寮の階段。
一段目。
二段目。
三段目。
何も起きない。
四段目、五段目。
心臓の音だけが、やけに大きい。
結局、部屋まで無事に戻れた。
「……ほら」
思わず、笑いそうになる。
何も起きないじゃないか。
全部、偶然。
SNSのホラーごっこ。
部屋に戻り、スマホを手に取る。
その瞬間、通知が一気に並んだ。
真琴。
先輩。
知らない名前。
全員、同じ内容だった。
「さっき、階段のこと思い出した」
息が、止まる。
「三段目」
「踊り場」
「誰もいなかった」
断片が、揃い始めている。
そして最後に、例のアカウントからの通知。
「いいねが、足りない」
画面を見つめたまま、私は動けなくなった。
このまま、誰かが押すのを待つ?
それとも、自分で――。
親指が、画面の上に浮かぶ。
押したら、何が起きるのか。
押さなければ、本当に逃げられるのか。
考えている間にも、いいねの数は変わらない。
四のまま。
でも、時間の問題だという確信だけが、胸に溜まっていく。
私は、ふと気づいた。
いいねを押しているのは、
「覚えている人」だけだ。
つまり。
覚えていなければ、押せない。
覚えている限り、逃げられない。
スマホの画面に、私の顔が映り込む。
青白くて、どこか他人みたいだった。
そのとき、DMが届く。
「あなたが押さなくても、
代わりは、いる」
指先が、冷たくなる。
「でも、自分で選んだ方が、
後悔は少ない」
後悔。
転ぶことよりも、
助けられないことよりも。
その言葉が、一番怖かった。
私は、いいねボタンの上に、指を置いたまま、動けずにいた。




