いいね!の数
朝、目が覚めた瞬間に、分かった。
今日は、何かが起きる。
理由はない。
根拠もない。
でも、その確信だけが、体の奥に沈んでいた。
スマホを見るのが怖くて、しばらく天井を眺めていた。
目を閉じても、あのハートの形が浮かぶ。
四つのいいね。
足りない、最後の一つ。
ようやく意を決して、画面を点ける。
通知は、来ていなかった。
SNSを開く。
指先が、わずかに震える。
例の投稿は、まだそこにあった。
「条件が、ほぼ揃った」
いいねの数は――
五。
一瞬、呼吸を忘れた。
誰が押したのか、分からない。
一覧を開こうとしたが、読み込みが終わらない。
ぐるぐると、回り続ける。
その下に、新しい投稿が追加されていた。
「確定」
それだけ。
いいねは、ついていない。
もう、必要ないみたいに。
スマホを握りしめたまま、私はベッドから起き上がった。
今日は、講義がある。
行かないという選択肢は、なぜか思い浮かばなかった。
キャンパスに向かう道は、いつも通りだった。
人もいる。
笑い声も聞こえる。
なのに、世界が薄い。
現実に、膜が一枚かかっているみたいな感覚。
講義棟に入ると、真琴の姿が見えた。
「おはよ」
いつもと同じ声。
いつもと同じ表情。
でも、どこか違う。
「昨日さ……」
真琴は、言いかけて、言葉を飲み込んだ。
「いや、やっぱいいや」
その視線が、一瞬だけ、階段の方へ向いたのを、私は見逃さなかった。
階段。
問題の、あそこ。
講義が終わり、人の流れに押されるようにして、私たちは階段へ向かった。
逃げ道は、ない。
一段目。
二段目。
心臓の音が、耳の奥でうるさい。
三段目。
足を置いた瞬間、
何かが「ずれた」感覚があった。
でも、転ばなかった。
何も、起きない。
そのまま、下まで降り切る。
「……?」
拍子抜けするくらい、普通だった。
周囲も、誰も騒いでいない。
誰も、私を見ていない。
私は、階段を降り切った先で、立ち止まった。
そのとき、スマホが震えた。
通知。
「@___が新しい投稿をしました」
画面を見る。
「転んだのは、あなたじゃない」
息が、詰まる。
続けて、もう一文。
「でも、助けなかった」
視界の端で、誰かが座り込むのが見えた。
少し離れた場所。
踊り場の影。
人が集まっていく。
小さなざわめき。
誰かが、階段で足を踏み外した。
大事ではなさそうだ。
立ち上がって、笑っている。
なのに。
私の胸の奥が、重く沈む。
私は、さっき。
確かに、見ていた。
その人が、足を滑らせる「直前」を。
なのに、声を出さなかった。
手も伸ばさなかった。
スマホの画面が、勝手に切り替わる。
いいねの一覧が、表示された。
五つ目のいいね。
そこにあったのは――
私のアカウントだった。
「……押してない」
呟いても、意味はない。
投稿の一番下に、最後の文章が追加されていた。
「覚えている限り、参加者」
私は、ゆっくりと周囲を見渡した。
誰もが、いつも通りに見える。
でも、その中の何人かは、
同じ投稿を、同じように覚えているはずだ。
事故は、終わった。
でも、ゲームは終わっていない。
画面の一番上に、見慣れない通知が表示される。
「あなたのフォロワーが、1人増えました」
フォロワー数は、2。
私と――
もう一人。
空白の名前が、私の現実に、完全に入り込んだ瞬間だった。




