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いいね、の向こう側  作者: 櫻木サヱ
知らないアカウント

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5/5

いいね!の数

 朝、目が覚めた瞬間に、分かった。


 今日は、何かが起きる。


 理由はない。

 根拠もない。

 でも、その確信だけが、体の奥に沈んでいた。


 スマホを見るのが怖くて、しばらく天井を眺めていた。

 目を閉じても、あのハートの形が浮かぶ。


 四つのいいね。

 足りない、最後の一つ。


 ようやく意を決して、画面を点ける。


 通知は、来ていなかった。


 SNSを開く。

 指先が、わずかに震える。


 例の投稿は、まだそこにあった。


 「条件が、ほぼ揃った」


 いいねの数は――


 五。


 一瞬、呼吸を忘れた。


 誰が押したのか、分からない。

 一覧を開こうとしたが、読み込みが終わらない。

 ぐるぐると、回り続ける。


 その下に、新しい投稿が追加されていた。


 「確定」


 それだけ。


 いいねは、ついていない。

 もう、必要ないみたいに。


 スマホを握りしめたまま、私はベッドから起き上がった。

 今日は、講義がある。

 行かないという選択肢は、なぜか思い浮かばなかった。


 キャンパスに向かう道は、いつも通りだった。

 人もいる。

 笑い声も聞こえる。


 なのに、世界が薄い。


 現実に、膜が一枚かかっているみたいな感覚。


 講義棟に入ると、真琴の姿が見えた。


 「おはよ」


 いつもと同じ声。

 いつもと同じ表情。


 でも、どこか違う。


 「昨日さ……」


 真琴は、言いかけて、言葉を飲み込んだ。


 「いや、やっぱいいや」


 その視線が、一瞬だけ、階段の方へ向いたのを、私は見逃さなかった。


 階段。


 問題の、あそこ。


 講義が終わり、人の流れに押されるようにして、私たちは階段へ向かった。

 逃げ道は、ない。


 一段目。

 二段目。


 心臓の音が、耳の奥でうるさい。


 三段目。


 足を置いた瞬間、

 何かが「ずれた」感覚があった。


 でも、転ばなかった。


 何も、起きない。


 そのまま、下まで降り切る。


 「……?」


 拍子抜けするくらい、普通だった。


 周囲も、誰も騒いでいない。

 誰も、私を見ていない。


 私は、階段を降り切った先で、立ち止まった。


 そのとき、スマホが震えた。


 通知。


 「@___が新しい投稿をしました」


 画面を見る。


 「転んだのは、あなたじゃない」


 息が、詰まる。


 続けて、もう一文。


 「でも、助けなかった」


 視界の端で、誰かが座り込むのが見えた。


 少し離れた場所。

 踊り場の影。


 人が集まっていく。

 小さなざわめき。


 誰かが、階段で足を踏み外した。

 大事ではなさそうだ。

 立ち上がって、笑っている。


 なのに。


 私の胸の奥が、重く沈む。


 私は、さっき。

 確かに、見ていた。


 その人が、足を滑らせる「直前」を。


 なのに、声を出さなかった。

 手も伸ばさなかった。


 スマホの画面が、勝手に切り替わる。


 いいねの一覧が、表示された。


 五つ目のいいね。


 そこにあったのは――

 私のアカウントだった。


 「……押してない」


 呟いても、意味はない。


 投稿の一番下に、最後の文章が追加されていた。


 「覚えている限り、参加者」


 私は、ゆっくりと周囲を見渡した。


 誰もが、いつも通りに見える。

 でも、その中の何人かは、

 同じ投稿を、同じように覚えているはずだ。


 事故は、終わった。

 でも、ゲームは終わっていない。


 画面の一番上に、見慣れない通知が表示される。


 「あなたのフォロワーが、1人増えました」


 フォロワー数は、2。


 私と――

 もう一人。


 空白の名前が、私の現実に、完全に入り込んだ瞬間だった。

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