番外編◆暑いと「暑い」と言ってしまう現象に名前をつけるなら、前
季節はやや遡って、真夏のお話です。
「暑い……」
瑛子は炎天下の駅ホームで呟いた。
地下鉄ではない在来線は、ホームも当然のことながら屋外にある。
幸か不幸か、まだかろうじて午前中なので、気温上昇のピークではない。が、その分、日差しは斜めに差し込んでおり、ホームの屋根にできる影は少ない。
少しづつ移動する影を追って、なんとか影のほうに身を寄せようとしても、瑛子の前にも後ろにも、ダメ出しとばかりに左右にも、人がみっちりと詰まっている。
少しずつ片腕を侵食していく日差しに、じりじりと焼かれつつある。皮膚が痒い。これではいかんと、瑛子はそっと腕の上にハンカチを置いた。だが、それすら暑くてうっとうしい。
日差しに焼かれるか、それともハンカチに蒸し焼きにされるか。
究極の選択だ。
諦めたように緩く首を振って前を向くと、線路の向かい側の木々からは、蝉の力強い鳴き声が聞こえてくる。蝉は時たまホームに飛んできて、狂ったように鳴く。こんなに小さな体にどうやったらそんなエネルギーが蓄えられているのかと思うほど、その鳴き声は大きい。そのうちの一匹が力尽きたように瑛子の足元にパタリと落ちてきた。そのまま静かになる。
命が燃え尽きたか。そう思って目を伏せると、蝉は癇癪を起こした子どものように、いきなり動き出した。「みぃぃぃぃん!」と鳴いて、飛び立って行く。
びくりとして、瑛子は横に飛び退いた。が、隣にいたサラリーマンにぶつかってしまった。汗で湿った腕と腕が密着して、なんともいやあな気分になる。
すいませんと頭を下げるも、リーマンに舌打ちされて、瑛子は撃沈した。
目玉焼きも焼けるに違いないと思うほど熱くなったコンクリートと、天から容赦なく降り注ぐ日差しにサンドイッチされて、そろそろ瑛子はホットサンドになってしまうのではないかと思い始めている。
チーズが溶けるように、トロリととろける瑛子。
ベーコンのように、こんがりと焼き色の付いた瑛子。
加熱したレタスのように、へんなりとした瑛子。
……いやだ。そんなホットサンド、食べたくない。
「暑い……」
もはや、汗を拭う気にもならない。ペットボトルの水はすでに飲み干してしまった。自販機に行くべきか。
瑛子はホーム中央にある自販機の方をチラリと向いた。だが、すぐに思い直したように前を向いた。
いや、行くべきかっていうか、脱水症状になったら困るから行くべきなんだけど。正直なところ、動くのも億劫である。
それに、今この列から抜けたら、次に来た電車には確実に乗れない。ホームには、すでに電車待ちの乗客でごった返しているからだ。
「――繰り返しお知らせいたします。ただいま、信号の故障により――」
すでにバックミュージックとなって久しいアナウンスが流れる。
この暑い中、路線のどこかの信号が故障したらしいのだ。復旧の目処は立っていない。
信号が変わらなければ、列車は発車できない。
故に、電車はストップしている。
となると、乗客は電車に乗れないわけで。
「暑い……」
いい加減しつこいと思いながら、瑛子は再び口を開く。開くといっても、開きっぱなしの口がモゴモゴと音を出す程度だが。
なぜ暑いと、こうも口が開きっぱなしになってしまうのか。
体の温度調節機能のためか。
それとも、口を閉じるほどの気力さえも、ないからか。
そして何より、なぜ人は、暑いと「暑い」と言ってしまうのか。言ったところで涼しくなるわけでもないし、誰かが救いの手を差し伸べてくれるわけでもない。
それでも言ってしまいたくなるのが、この「暑い」という台詞。
英語にするなら、「Hot」だ。
もうちょっとちゃんとした文章にしたかったら、「It’s hot.」である。
ここで注意したいのが、主語はあくまで「it (それ)」であって、「I (私)」ではない、ということ。
なんで? 暑いのは自分でしょ? そしたら主語は「I (私)」じゃないの? となるが、あくまで熱いのはその場の空気であり、空気は人でも自分でもないので、it (それ)になる。
ここで目のいい人ならピンとあれ? っと思ったかもしれない。
瑛子は今、「あくまで熱いのは」と言った。『暑い』、ではない。
日本語の『熱い』は、空気や飲料などの物質の熱を表す時に使う。
一方で、人が感じる熱には、『暑い』を使う。
だが、この二つの『あつい』、英語だと両方とも、「hot」でOKなのだ。というか、hotにはこれ以上にも、もっとたくさんの意味があるので、ぜひ辞書で調べてみてほしい。
It’s hot. といえば、それは熱が高いことを示す。
またこれは、他の物質にも使えるので、例えばこんなシチュエーションでも使える。
カフェでコーヒーをオーダーした。サーブされたコーヒーを一口啜ったら、「めっちゃ熱いじゃねえか!」という時。
「Gosh, it’s hot!」
もしくは、熱々の焼き芋にくらいついたら、思っていた以上に熱かったとき。
「It’s hot! I burned myself! (あっつい! 火傷した!)」
その他にも、温泉に入ろうとしたらお湯が熱かったとか、寒いからとヒーターに近づきすぎたら熱かったとか、炎天下に車を駐車していたら、ハンドルが熱々になっていたとか。
みんな、「It’s hot.」でいけるのだ。なんて便利な。
……ああ、なんでこの暑い中、熱いことを想像しているんだ。
瑛子はぼけっとした頭で考える。やめればいいのに、外部からの刺激がない(だって電車動かないし)と、人は延々と同じことを考えてしまう生き物だ。
では、「I’m hot.」とは言わないのか? というと、文法的には間違いではないし、この言い方も存在する。だが、これは温度としての『熱い』とは別の意味になる。
Hotには多くの意味がある。そのうちの一つが、スラングの「イケてる」だ。魅力的なとか、かっこいい、という意味である。が、これを人を対象として使うと、セックスアピールのある魅力、という意味合いが強い。
つまり、恋愛や性欲を含めた「イケてる」人、という意味なのだ。
ゆえに、これを自ら名乗るということは(I’m hot!)、「私(もしくは俺)は、セクシーだよ!」と言っているようなものなのだ。




