N as in Name(名前のN)、IV
特に女性の場合は、小さい頃から「名字(family name)は結婚したら変わるもの」と周りに言われてきて、自分でもそうだと思って過ごす人が多い。瑛子もそう思っていた一人だ。片や、男の子は「将来自分の名字(family name)が変わる」という発想はなかなか思いつかないだろう。よく考えたらこれは重要な問題だと瑛子は思うのだ。自分という個人を示す上半分(つまり名字)は将来変わる可能性がある、と思って多感な時期を過ごすというのは、その人の人生にどのような影響を及ぼすのだろうか。
結婚してもしなくても、名字(family name)は変わらない男性。
未婚か既婚かによって、名字(family name)が変わる女性。
結婚というのは昔は家と家との繋がりのために行われていたものだ。が、今ではプライベートな領域とされている。それなのに、名字(family name)が変わるか否かで結婚の状態(未婚、既婚、離婚、再婚)が世間一般に公開されなければいけない、というのは結構しんどいものだ。
「だから私はこれからも、名前(name)を呼ばれるために来ますね」
静枝さんはにこりと微笑んだ。
「はい、いつでもお待ちしてます」
瑛子も微笑み返した。
◆◇◆◇
「『Say my name.』 (名前を呼んで)、ね」
静枝さんが帰られた後、瑛子はぽつりと呟いた。
名前(name)というものは、その人のアイデンティティに深く関わっている。なにせ、生まれたときから死ぬまでずっと付き合っていくものだ。事情によって名字(family name)は変わることはあるかもしれないが、名前が(name)変わることはめったにない。
だから人は、自分の名前(name)を間違って呼ばれると怒る。そこまでいかなくても、訂正を促すだろう。自分の名前(name)は自分そのものなのだ。
幼い子どもは自分のことを、「れいくんね」とか、「まさみちゃんね」などと名前(name)呼びする。それは、周りの大人がその子にそう言って接している、というのが大きな理由ではあるが、自らをそう呼ぶことは、名前(name)とは自分が自分であるという証である、ということを無意識のうちに知っているからだ。
自分のことを名前(name)で呼ぶことで、自分を確認する。それは実は大人になってからも変わらない。さすがに成人してから自分のことを名前(name)呼びをする人は少数派だろうが、心の中では名前(name)で呼ばれることを求めているのだ。
これは対人関係にも当てはまる。友人や家族などの親しい人、もしくは好きな人の名前(name)は、知らず知らずのうちに頻繁に呼んでいるものだ。
「晶、これ食べない?」とか、「早苗、明日遊びに行こうよ」など。特に必要がないのに名前(name)を呼ぶことは、それだけ心理的な距離が近いことを示すのだ。
逆に、好きではない人の名前(name)は、極力呼びたくないものだ。「あの、ちょっとどいてもらえます?」とか、「すいませんこれサインをお願いします」など、主語を抜かすこともあれば、「係長、これにサインをお願いしたいんですけど」と、名前ではなく役職名を前面に出すこともある。
人は大抵の場合、自分の名前(name)を呼ばれると嬉しく感じる。相手が自分のことを覚えているということは、自分が個人の人間だと認識されているということで。つまり、相手にとってそれだけ大事な存在なのだと感じるからだ。
逆に、名前(name)を呼んでもらえないと悲しくなる。自分がその他大勢の一人であると言われているも同然なので、よそ者扱いされていると感じるからだ。
この心理をうまく利用しているのが、何を隠そう、他でもない英会話講師だ。
新人研修のときには、必ず、「生徒様のお名前(name)はなるべく頻繁に呼ぶように」という指導が入る。
「いいですか? 生徒様のお名前(name)をお呼びするんですよ。『you』などと言って、その方を指で指すなんて真似は、絶対にしてはいけませんよ」とも言われる。
「はあ、わかりました」と新人は曖昧に頷づいて研修を終えるわけだが、これが意外にハードルが高いのだと実感するのは、教室に配属された後だ。
なぜなら、そもそも人の名前(name)を覚えるのは難しい。しかも、一度に数十人も覚えなければいけない。
自分とは普段接触のないタイプの人は皆等しく同じように見えるため、区別がつきにくいというのもある。特に新卒だと、それまで同年代の若者としか接してこない子が多いため、スーツを着ていたら皆同じ顔のサラリーマンに見えるし、OLさんもまた然り。中年は中年のくくりだし、ざっくり「おばさん」か「おじさん」としかその人を表す言葉がなかったりする。さらに、まだ結婚もしていない若者に、キッズ、ましてやベイビーの区別などつくわけがない。




