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N as in Name(名前のN)、III

「レッスンに来られる生徒さんは、いろいろなものを求めてらっしゃいますから。会話を楽しみたいとか、知らない人と話したいとか、趣味が欲しいとか、そんな理由でも、全然大丈夫だと私は思っています」


 そういう生徒さんの方が、コスパを求めて、『こんなに金を費やしたのに、なんで自分は英語ができるようにならないんだ』みたいな理不尽なことを言ってこないから助かる、というのも講師としての本音ではある。

『英語イコール勉強』などと、誰が決めたのだろうか。好きなものを好きに学んで何が悪い。いい点を取るだけが英語の楽しみだと瑛子は生徒さんに思ってほしくないと思っている。


 ただ、成果を求める方はそれだけ真剣だ、というのもまた事実。静枝さんのような趣味勢の方は、ふらっと来て、満足するとさらっとやめてしまう確率が高い。


 だから、教室としてどちらの方がいいかと言われると、微妙なところではある。


 ああ、お茶をお出しすればよかった。そうしたら、二人でほっこりとお茶をすすりながら話ができたのに。

 瑛子は腕時計をチラリと見ながら考えた。まだ次のレッスンまでは時間がある。


「私ね、名前(name)を呼んでもらいに来てるのよ」

 静枝さんはにこりと笑った。

「名前(name)を、ですか?」

 瑛子は首を傾げた。


「そうなの。私の人生で名前(name)を言われたことって、本当に少ししかないのよ。小さい頃は、私は長女だったから、『お姉ちゃん』、『お姉ちゃん』って呼ばれたわ。学校では名字でしょう? お友だちもね、名前(name)で呼んでくれる子もいたけど、名字で呼ばれることの方が多くてね。成人したら、すぐに結婚したでしょう。そうしたら、夫には『おい』とか『お前』とか呼ばれて。子どもができたら『お母さん』になるでしょう? 近所の人には『前田さんの奥さん』って言われるし、子どものお友だちには、『おばちゃん』と呼ばれちゃう。

 そんなこんなで忙しくしてたら、もう『おばあちゃん』としか呼ばれない歳になっちゃってね。夫が亡くなってから、考えちゃったのよ。ああ、私はあとどれくらい、人に名前(name)を呼んでもらえるのかしら、って。それで、思いついたのよ。そうだ、英会話教室に通おうってね。ちょうどテレビで特集をしていたのね。自分よりうんと年下の方に名前(name)で呼ばれるなんて、ワクワクしちゃうって。ここはいいわ。ここでは、名前(name)を呼んでもらえるから。『静枝さん』って。もう嬉しくて、嬉しくて。しょうがなくてね」

 静枝さんは嬉しそうに言った。


 レッスン中は基本的には下の名前(name)、つまりファーストネーム(first name)で呼び合うのが基本だ。なぜなら、英語圏がそのような文化だからだ。ただし、これも例外は多くあるので、『必ずしも(necessarily)』ファーストネーム(first name)で呼ぶとは限らない。欧米人だからといって、すべての人がファーストネーム(first name)で呼ばれたいというわけではない。


 それはこの教室でも同様だ。生徒さんによっていろいろこだわりがあるので、それに合わせるようにしている。学生さんだったら初めからファーストネーム(first name)で呼ぶことが多いが、年上の生徒さんの場合は、初めのレッスンの時点で、「なんとお呼びしましょうか?」と聞く。

 大抵の方はややびっくりしながらも(日本語での会話でそのようなことを聞かれることもないから、当然と言えば当然だが)、「ファーストネーム(first name)でいいです」と言ってくださる。が、たまに名字を希望される方もいる。そういう方には名字(family name)呼びか、もしくはそれに敬称をつけて「Mr. Okano」や「Ms. Edano」と呼ぶ。


 静枝さんは、初めからファーストネーム(first name)で呼ばれることを希望していた。


「そうですね。わかります。私も家では『ママ』だし、外では『おばちゃん』ですからね。名前(name)を呼ばれるなんて、この教室の中くらいですね」

 よく考えたら、結構特殊な環境にいるのではないかと瑛子は思った。成人になって、しかも結婚して子どももいる中年が、ここまで普段から名前(name)を呼ばれる職場環境もそうそうないだろう。


「瑛子先生は羨ましいわね。毎日、何回も自分の名前(name)を呼んでもらえるんだもの」

 静枝さんは頬に手を当てて息を漏らした。

「そうですね、英会話講師の特権かもしれないです」

 瑛子はふふっと笑った。


 名前(name)を呼んでもらいたいという生徒さんは、実は結構多い。


 静枝さんのように、成長するたびに自分の役割がコロコロと変わり、それに合わせて呼び方も変わっていき、いつの間にか名前(name)を呼ばれる機会なんてなくなっていた、という人は結構多いものだ。

 瑛子だって、英会話講師ではなくて事務職のOLさんでもしていたら、名前(name)で呼ばれる機会なんて一年のうちに数回あるかどうか、となっていただろう。新卒の頃なら同期と学生時代の友人感覚で名前(name)で呼び合っていたとしても、後輩が入ってくれば先輩呼びになるし、そのうちに結婚した女性は夫の名字(family name)で呼ばれるようになる。


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