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N as in Name(名前のN)、II

「現在形と過去形が時々混ざるのは、今後の課題ですね」

「そうなのよ。過去形がなかなか出てこなくてね。と言うよりもう、この歳になると、今(now)のことと昔のことって、ごちゃごちゃっと混ざっちゃってるのよねえ」

 静枝さんはコロコロと笑った。


 分かります、と瑛子は頷いた。瑛子もすでに、去年のことも今年のことも区別が付かない。二十年前のことでも、去年のことくらいの気持ちで話せる。それに、「それは二十年前のことじゃなくて、十九(nineteen)年前のことですよ」など指摘されても、「え? あんまり変わんなくない?」とも思う。すでに年単位ではなく、五年や十年単位で一まとまりとして物事を捉えているのだ。

 数字(number)など、もはや概念に過ぎない。


「まあ、おいおいやっていくわ」

 あまり困ってなさそうなにこやかな声で静枝さんは続けた。

 楽しそうならそれが何よりだ、と瑛子はにこりと笑った。


「何か質問などはありますか?」

「そうね、特にないわね。毎回楽しくレッスンに通わせていただいてます。いつもありがとう」

「こちらこそありがとうございます」


 おっとりとした生徒さんの雰囲気に感化されるように、瑛子も肩の力が抜けてくる。レッスン中は、テンションを上げていかなきゃいけないし、バックオフィスに戻ったら、それはそれで書類仕事に忙殺される。


 こんなほっこりと息をつける時間などなかなかない。そして時々気づくのだ。あ、私、今、息を詰めていたな、と。きっと無意識のうちに奥歯を噛み締めていることも多いのだろう。昔より歯軋りに悩む女性が増えてきた、と先日、歯科衛生士さんも言っていた。


 緊張している(nervous)、とまではいかないが、それでも仕事中は気を引き締めていないといけない。こういう状態が続くのは、「あんまり歯の健康には良くないんですよねえ」と歯科衛生士さん。それだけストレスがかかっているんですよ、女性は、とお話したばかりだ。


『緊張する』、は英語で

 I’m nervous.

 と言う。神経がピリピリしている感じの緊張状態を表す表現だ。元は『神経』の『nerve』からきている。

『nerve』は、身体機能としての『神経』としても使えるし、比喩的な意味での『神経』としても使える。


『hit a nerve』で『痛いところを突く』とか、『神経に障る』という意味になる。

 むき出しの神経を殴る状況をイメージするとわかりやすい。いかにも痛そうでしょう? そこから転じて、比喩的に『心を傷つける』、という意味となった表現だ。


 You hit a nerve with me! (めっちゃ痛いところ突かれた!)


 といったふうに使う。


 これは日本語の『地雷を踏む/踏まれた』に近い表現なのではと瑛子は思う。

 人の心には多くの地雷が埋め込まれている。それをうっかり踏んでしまった――といった文脈で使われることが多い、この『地雷を踏む/踏まれた』という表現。

 結局どういうことなのかと言うと、人に言われたくない、もしくは指摘されたくないことを他人に無神経に言われた、ということだろう。


 人間誰しも、突かれたくないところというものは存在する。そしてそこを突かれれば、怒りもするだろう。


 それと同じように、人の心には神経(nerve)がむき出しになっているところが多くある。それを触ってしまった、もしくは故意的に殴った、というのがこの『hit a nerve』という表現だ。


 個人的には、『地雷を踏む/踏まれた』や『飯テロ』など、戦争や争いごとに関連する言葉は、日常生活で気軽に使うべきではないと瑛子は考える。世界には、実際に地雷やテロで命を亡くしている人が大勢いるからだ。「ちょっとした洒落のつもりで」と、平和な国に住む人々がこれらの言葉をカジュアルに使っていると知ったら、現実的な恐怖として地雷やテロに苦しむ人々はどう思うだろうか、と考えてしまうからだ。


 とは言え、こんなお堅いことをわざわざ人に言ったりはしない。言葉とどう付き合うかは、個人が決めることだからだ。他人が強制すべきことではないとも思う。


「ふふふ。あのね、瑛子先生だからお話ししちゃいますけど、私ね、英語にはさほど興味がないんですよ」

 静枝さんは内緒話を打ち明けるように言った。


「そうなんですね」

 やっぱり。そうだと思った、と瑛子は頷いた。


「あら、怒らないのかしら。先生がこんなに一生懸命教えてくださるのに、どうでもいいなんて言って」

 静枝さんは面白そうに眉を上げながら瑛子を見る。


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