N as in Name(名前のN)、I
「どうぞこちらにお座りください」
瑛子はカウンセリングルームのドアを開けて生徒さんをお通しすると、席をすすめた。今日は定期的に行っている生徒さんのカウンセリングの日だ。
「ありがとう」と笑って腰をかけた生徒さんは、御年七十歳。
髪の毛は綺麗な紫色に染め上げられ、ふんわりとパーマが当てられている。目元には黄金色に輝くチェーンのついた眼鏡。金メッキではない。おそらく十八金か、それ以上か。眼鏡の縁にキラリと光る赤い石は、ルビーだろうか。
ネックレス(necklace)はプラチナのもので、大粒のダイヤがついている。手元に目を下ろせば、左薬指には結婚指輪と、右手の中指には大きなサファイアの指輪をつけている。
穏やかに微笑む生徒さんは、まさにマダムといった雰囲気の方だ。服装もお上品で、バッグもブランドのロゴこそ見えていないが、おそらく瑛子の持っているものとは桁が一つか二つ違うものだろう。新品のような角が立ったものではない。昔から大事に使っているのだろうなと思う年季の入ったものだ。
この生徒さんは最近入会された方だ。
『学生時代に英語を学びたかったんだけれどもね、そういう時代じゃなくて。それからすぐに結婚して、出産して、子どもを育てて、なんてバタバタしているうちに、今になっちゃったのよ。でも、どうしてもやっぱりやってみたくてね』と入会の体験レッスンのときにおっしゃっていた。
「レッスンのほうはいかがですか? 何かお困りのことはありませんか?」
生徒さんの穏やかな雰囲気に釣られるように、瑛子も穏やかに微笑んだ。
「皆さんにとてもよくしていただいて。おかげさまで楽しく学んでいるわ。初めは緊張したし、こんなおばあちゃんが混じって申し訳ないとも思ったのよ。でも、やっぱり若い方と一緒に勉強できるって、やる気が出るものね」
「静枝さんはクラスのムードメーカーでいらっしゃいますから。静枝さんがいてくださると、レッスンの雰囲気も和やかになりますし、他の生徒さんもやる気が出てくれるので、私もとっても助かってます」
瑛子は頭を下げた。
おべっかではない。ムードメーカーの方がレッスンにいてくださると、助かるのは本当だからだ。話しやすい雰囲気のほうが、レッスンが盛り上がる。
逆を言うと、ぶすっと不機嫌な様子の生徒さんがいると、とても気を使う。とても、だ。
曲がりなりにも講師であるので、瑛子としてはクラスの雰囲気を良くするために精一杯のことをするように努めている。が、それでもやはり限界がある。「別に」と言わんばかりに、まるで思春期の子どものようにそっぽを向かれると、「助けてー」と遠い目をして白旗を揚げたくもなるというものだ。
『英会話レッスン』という形にならないものを提供している瑛子たち講師としては、生徒さんに満足感を感じていただけるのが一番だ。
そして何が一番満足感に繋がるかというと、目に見えて分かること(例えばTOEICの点数が上がったとか、英検に合格したとか)ももちろん重要ではあるが、「ああ、今日はレッスンですごくたくさん話せたな」という感覚なのだ。それが毎回積み重なってこそ、生徒さんは満足してくださる。
「ふふ。こんなおばあちゃんが必死に頭を使って頑張っているんですもんね。若い生徒さんも負けてられないわって思うわよね」
にこやかに、そして穏やかに、静枝さんは話す。
「ボキャブラリーもとても増えてきましたし、以前よりもずっとスムーズに文章を作ることができるようになってきましたね」
瑛子は手元の資料を見ながらそう伝えた。
カウンセリングの秘訣は、まず生徒さんの話を聞く。そして褒める。
褒めて、褒めて、最後の方にチラリと、今後の課題を示す。
厳しいフィードバックが欲しいという生徒さんにはもちろん実用的なアドバイスをするが、それでもダメ出しをするようなことはしない。そしてこの生徒さんのように趣味でこられている方には、英語が楽しくなるようなアドバイスをする。静枝さんは、英語を学びに来ているというよりも、英語を学ぶ雰囲気を楽しみに来ている方だと瑛子は思っている。
悪いことではまったくない。
テストのスコアを上げたい生徒さんにはその対策を。
会話を楽しみたい生徒さんには、会話を楽しめるような工夫を。
生徒さんに合わせたレッスンをするのが、講師の腕の見せどころだ。
さすがにレッスンの枠は決まっているから、すべての生徒さんにオーダーメイド並のニーズに合うレッスンを提供することはできないか、なるべく寄り添いたいとは思っている。




