K as in Kill(殺すのK)、III
「え……ナイフ(Knife)……? それって……ガチなやつじゃない」
瑛子の顔から血の気が引いていく。激情した妻が怒り狂っているだけ(それだけでも十分怖いが)かと思いきや、凶器が出てくるとは次元の違う話だ。
瑛子のスマホを握りしめる手に力がこもって、スマホケースがパキンと音を立てた。
「そうなんですっ! 私、おかしいと思ったんですよ。奥様、肩掛けのバッグを両手で抱きしめて、レッスン室のドアをキック(kick)していったんです。何で手を使わないんだろうって思ってたんですけど」
「中には、ナイフ(Knife)が入ってたのね……」
「はい。それで、『夫が浮気してるのは知ってるんだ。女とキス(kiss)してる写真が見つかったんだ。お前ら夫を隠してるんだろう。出せ』って喚き散らかして……」
「大変っ! というか……丹野先生って言った? あの、前にちょっとだけいた、丹野先生?」
「そうです」
紀子は即答する。
「何でうちの教室に?」
瑛子は首を傾げた。
丹野先生という先生は、確かに半年ほど前、瑛子の教室に在籍していた先生だ。だが、在籍期間はたったの三ヶ月。それだけで去って行った先生だ。それ以降、何の接点もない。
丹野先生はもともと遠くの地域の先生なのだが、その教室の入っている施設が全面改築になるので、「まあ講師を遊ばせとくのも何だし」と本部が瑛子の教室に寄越してきた人だ。常に人材不足である瑛子の教室としては、天からの恵みよ、とお迎えしたのだが。
「あのチャラ男、どうやらうちの教室を隠れ蓑にして、不倫相手とのお泊まりを繰り返してたらしいんですよ。で、今なんと、ワイハにいるらしいです」
紀子の声が低くなる。
「……は? 不倫相手と?」
瑛子はぽかんと口を開けた。
「そうです。敏夫先生が時々連絡取ってたみたいなんですけど。てかなんか、マウントちょくちょく取られてたみたいで。ほら、敏夫先生って押しが弱いじゃないですか。で、『今ワイハ(笑)』って、真っ青なビーチの写真が送られてきたんですって。ドヤ顔の丹野先生の顔つきで」
ワイハって今どき言う人いるんだ、と明後日な方向に思考を飛ばしながら、瑛子の頭はハワイ真っ青なビーチを思い描いた。
煌めく水面。
打ち寄せる白い波。
ビーチに並ぶカラフルなパラソル。
アロハな旗の立ったカラフルなカクテル。
……これを人は、現実逃避と呼ぶ。
夫の丹野先生がワイハでパリピをしている間に、奥さんは瑛子の教室に乗り込んできた、と。ナイフ(knife)をカバンにしのばせて。
この、格差。
くらりと眩暈がする。
「……とにかく、すぐに帰るから」
ズキズキと痛み始めた頭を揉みながら、瑛子はそう答えて通話を終えた。お守りがわりの頭痛薬(painkiller)は、ポーチに入っている。
ため息を押し殺して、瑛子は固唾を飲んで瑛子を見守っていた社員に向き合った。
「申し訳ありませんが、早退させていただきます」
何かわかったら教えてくださいと声がけをもらって、瑛子は急いで駅に向かった。
駅の売店(kiosk)でエナジードリンクを買う。いつもはエナドリなど飲まないが、今日は長い一日になる予感がする。
そしてその予感は、見事に的中した。
それからは大変だった。
教室の電話はひっきりなしなしに鳴り、教室のSNSは荒れに荒れた。
教室のテナントが入っているビルの入り口にはマスコミが押し寄せ、さらに一般人までスマホを掲げて動画撮影をし始める始末。
運営のほうにももちろん影響があり、キッズ(kids)クラスの生徒様は、ほぼ全滅。親御さんが辞めることを決めてしまわれた方が多かった。
それはしょうがないだろう。瑛子がもし自分の子どもをこの教室に通わせていたら、速攻で辞めさせるだろうから。
今回被害に遭われた生徒さんにはお一人づつ謝罪に回った。事件が起きた時間にレッスンを受けていたのはの大人の生徒さんたちだったため、さほど取り乱した様子はなかったが、それでも怖い思いをさせてしまったのは事実だ。
申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、優しい方が多く、逆にこちが心配されてしまった。「大変だったわね」、と。
「いやほんとに大変です」と思いはすれど、そう口に出すわけにもいかず、再度頭を下げてお暇をしたのだが。




