I as in I(私のI)、VII
◆◇◆◇
「……英語のテストが、赤点……?」
瑛子はこめかみを引き攣らせながら、娘のテストスコアを凝視した。どの教科も平均点よりやや下の点数が並び、唯一飛び抜けているのは科学。なんでも、ヤマが当たったらしい。「私、けっこう持ってるかも! なんかラッキーな気がしたんだよね、その日。次からもこの戦法でいこうかな」とギャンブラーを匂わせる発言をした娘を嗜めつつ、まあ点数が高いことは良いことだと誉めたのだが。
「……英語のテストが、赤点……?」
瑛子はもう一度繰り返した。娘は気まずそうにそっぽを向いて腕を組んでいる。
一日働いて帰宅したと思ったら、これだ。
「しょうがないじゃん! 私その日、お腹痛かったし!」
瑛子の圧を感じたのか、娘が投げやりに言う。
「そうかもしれないけど。テストの度にその言い訳が通用するとでも?」
瑛子は娘に詰め寄った。
「……多分私、英語アレルギーなんだと思う。英語見ると具合悪く(ill)なるんだよね」
深刻な顔をして娘が言う。
「そんなものないわよ」
瑛子は呆れたように首を振った。
「わかんないじゃん! 私が世界で初めての発症者かもしれないじゃん!」
娘が瑛子をキッと睨む。
「そうね。そうかもしれないわね。そしたら世界初の発症者として研究所に収容されて、年を取って死んだら検体に出されるかもね」
瑛子は見かけだけ穏やかに微笑む。
「何それ、ママひどい!」
地団駄を踏む娘の隣をすり抜けて、瑛子は冷蔵庫を開けた。落ち着くために、アイスコーヒー(iced coffee)でも飲もうと思ったのだ。コーヒーに手を伸ばしかけて、躊躇する。今カフェインを摂ったら夜に眠れなくなるかもしれない。一度で不眠症(insomnia)になるわけでもないが、眠れるときはしっかり眠っておかないと。
代わりに(instead)、作り置きしておいた麦茶をグラスに注ぎ、ついでに氷(ice cubes)も入れる。カランと涼しげな音に少しだけ癒される。
ちなみに、アイスコーヒーは
iced coffee であり、
ice coffee ではない。
冷やされた(iced)コーヒー(coffee )というのが本来の意味だからだ。
ダイニングテーブルの椅子に座り、瑛子は軽く頭を振った。
アイビーリーグ(Ivy League:米国北東部の名門大学の総称)に行けとは言わないが、せめてもう少しなんとかならないものか。
「ママ、ママ。おねえは『たいぎはんせんがた』なんだよ」
息子が慰めるように瑛子の手を握って言う。
『たいぎはんせんがた』……?
瑛子は首を傾げた。
「『大器晩成型』な」
すかさず娘が突っ込む。
「ああ、『大器晩成型』。よくそんな難しい言葉知ってるわね」
息子には洞察力(insight)があるのかもしれない、と瑛子は息子の頭を撫でた。
「うん! なんかね、できない人にはとりあえずそう言っておけば良いって、学童の受付のおばちゃんがね、他の人に言ってた!」
息子は顔を輝かせた。
「ちょっと……」
瑛子は額に手を当てた。まあ一理ある、と思ってしまったのは心に秘めておく。
「とにかく! 私に英語は無理。ママだって嫌いな教科くらいあったでしょう?」
娘が胸を張って宣言する。
数学を早々と諦めた瑛子は、そこを突かれると痛い。
が、それでもそのままにしておくわけにもいかない、というのが親の立場というものだ。
「うちの教室通う?」
「ぜったいにイヤ。ママの知り合いに教わるなんて恥ずかしすぎる」
「じゃあさ、系列店の方は?」
「それもイヤ。ってかね、そもそも私は人前で話すのが嫌なの。英語を話すのなんて恥ずかしすぎる。英語っぽく発音するのがもう、ムリ」
「そんなこと言ったって――」
何度も。何度もこの会話を繰り返しているのだ。が、落とし所が見つからない。
「ママー! お腹空いた! はんぐ、はんげ、ばんがーだよ!」
息子が腕を広げながら訴える。
この辺りが潮時か。一時休戦とするしかない。でも、終わりじゃないからね、と目線で娘に釘を刺して、瑛子は話題を変えた。
「hungryね。もう今夜はデリバリーにしましょう。何が食べたい?」
収入(income)がそれほど多いわけではないから、デリバリーばかりしていては赤字(red ink )になってしまう。でも、たまの楽しみだと思えば気も楽になるというもの。
「インドカレー(Indian curry)とチーズナンか、イタリアン(Italian)のラザニアとティラミス」
さきほどまで拗ねていたことをすっかり忘れて、娘が即答する。
「うーんと、うーんとね、あ! 僕、いいアイデア(idea)があるよ! アイスクリーム(ice cream)! バケツサイズ!」
息子がおねえちゃんに対抗するように飛び跳ねる。
「……わかった。間を取ってフライドチキンにしましょう」
面倒になった瑛子は、そう言ってスマホのアプリを立ち上げる。象徴的な(iconic)存在の白髪のおじさんが笑顔でスクリーンいっぱいに映って、瑛子を迎えてくれた。
「私の意見は!?」
「僕の意見も!」
子ども二人が瑛子に詰め寄る。
「はいはい」
瑛子は適当に返事をする。
まあ少なくとも、『私』と『僕』である、『I』の主張はしっかりとできているのだから。独自性(identity)はしっかりと育っているということだ。
個人(individual)として生きること。これが巣立つということなのであれば。
親が子どもにしてあげられることなんて、煮詰めてみれば、ここに落ち着くのかもしれない。
両脇からやいのやいの言ってくる子ども二人の意見に耳を傾けつつ、瑛子は美味しそうだと思ったものを、カートに放り込んでいく。
だって、食べたいものを食べたいじゃない。
母であり、妻であり、娘であり、講師であっても。
瑛子もまた、『I』が主語である、一人の人間なのだから。




