F as in Fluent (ペラペラのF)、III
幸子先生は留学していたわけでもなく、インターナショナルスクールに通っていたわけでもない。自力で英語をモノにした先生だ。
今よりもっと教材などなかった時代だ。英語のラジオを聴いたり、お金を貯めて洋書を買って、擦り切れるまで読んだりしたとのこと。
結婚して出産してからも、睡眠時間を削って時間を見つけ(find)、毎日単語を暗記していたらしい。
今の学習のように、『楽しく(fun)英語を学びましょう』というような生優しいものではなく、ガチのファイター(fighter)の気概で英語に取り組んだそうだ。
幸子先生がそこまで英語に集中(focus)したのは、二十代前半で結婚して、舅姑と夫に「仕事なんて辞めろ」と圧力をかけられたからだ。
「周りの子はそうやって仕事を辞めて専業主婦になったけど、私は絶対に嫌だったの。だって、働く楽しさ(fun)を知ってしまったんだもの。それに、自分の収入がなければ離婚もできないじゃない」
自由(freedom)を自ら手放すなんて馬鹿よ、と笑う幸子先生は最強だ。
業績低迷の煽りを受けて夫が首になり(got fired)、仕事もせずに家でゴロゴロしていたことに見切りをつけて、先生は離婚した。
子育てと仕事を両立させ、なおかつストイックに英語を学ぶ幸子先生は、今でも忘れて(foeget)しまった単語があると「百回は呪文みたいに唱える」のだそうだ。
「人によっては私の生き方は窮屈かもしれないけど。英語は私が切れた唯一の自由(freedom)を手に入れるためのカードだったの。英語に出会えたことが、私の人生で一番の幸運(fortune)だったわ。それに、日本のメディアだけ見てたら視野が狭くなるわよ」
というのが幸子先生の生き方。
「たかが半年で英語なんてマスターできるわけないじゃない。そういうのは半世紀くらいやってから言いなさいよ」
先生は呆れたように肩をすくめる。幸子先生が言うんだ。誰も反論などできない。
「女性(female)を責めるのは僕の主義に反しますのでカウンセラーさんには怒りませんが、あなたはマネージャーですよね! どう責任取るおつもりですか!?」
隣の部屋では生徒さんは早口で話している(talk fast)。
「いや、それは……」
マネージャーは言葉を濁した。明らかに、生徒さんのペースについていけていない。
この生徒さんは弁が立つ。なんでも、営業マンでありながら、有名(famous)な動画発信者らしい。『論破』という言葉を好んで使いそうな話しぶりの方のようだ。
雄弁な人というのは、普段話すことに苦労しないため、思い通りに話せないことにより多くストレスを感じる(feel)のだろう。
気持ちは分かるが、成長期を過ぎてからの第二言語学習なんて、ネイティブ言語より話せなくて当たり前。そんなものだとさっさと割り切ることができる人のほうが上達するものだ。
それから、生徒さんは過去にあったあれこれについてのクレームを続けていく。壁がビリビリと揺れる。瑛子は無言で壁を見つめた。
「そんなに昔のことをくどくどと忘れ(forget)ない頭があるなら、文法でも覚えればいいのにねえ」
幸子先生は隣のピリつき感などないように、ゆったりと茶を啜った。瑛子も心を落ち着かせるため、それに倣う。
「ね。私、今度、パリに行こうと思うんだけど、瑛子先生は行ったことある?」
ぱっと顔を輝かせて、幸子先生が瑛子に聞く。
どうやら生徒さんのことは無視することに決めたらしい。これ以上話を盗み聞きしても精神安定上よろしくなさそうだと悟った瑛子も、先生の話に乗ることにした。
「パリはないですね。トランジットで着陸したことはありますけど」
「直行便がなかなかなくて、フライト(flight)が限られてきちゃうのよね。でも飛ぶ(fly)なら最短距離で行きたいじゃない?」
「そうですね。乗り継ぎは体力的にキツイですからね」
「でしょう? 私、frequent flyer のカード持ってるのよ」
「あ、じゃあアップグレードとかできるんじゃないですか?」
しばらくフランス(France)の食べ物(food)やファッション(fashion)の話題で盛り上がる。
「――どうしてパリに行こうと思ったんですか?」
「本当は新婚旅行で行きたかったのよ。でも、そんなの夢のまた夢の時代だったからね。でも、この前中華料理店でね、フォーチュンクッキー(fortune cookie)をもらったの。中に入っていた紙にね、『長年の夢を叶える時が来た』って書いてあって。十代の頃に初めて(first time)見た外国のハガキがパリで、憧れていたことをその時に思い出したの」
だから、まあ死ぬ前に行っとこうと思って、と先生はブラックジョーク混じりに言う。




