E as in Experience (経験のE)、V
そういえば、随分と息子がおとなしい。
息子の気配を感じて振り向くと、息子はテーブルの上の蟻の行列に手を突っ込んでいる。
ご丁寧に、わざわざ自分の腕に果汁を塗りつけている。
蟻は息子の腕を登っていく。
息子は魅入られたように、それを口を開けて見つめている。
「やめなさい!」
瑛子は息子の腕を取ってキッチンのシンクに置いた。そのまま勢いよく水を流す。
「ああ! 蟻さんが!」
「蟻さんが、じゃないでしょうが!」
息子は唇をとんがらせながら、渋々瑛子に腕を洗われている。が、瑛子の方を向くと、「ね、ママ。この部屋、臭い」と言った。
「……そうね」
同意しかない。甘ったるい匂いにそろそろ嗅覚麻痺を起こしそうだ。
窓を開けるべきか? いや、そんなことしたら、さらに虫が入ってきてしまう。
「くさいー! くさいー! おねえのせいで、家がくさいー!」
息子は歌でも歌うようにリズムをつける。
「おねえのじっけん、しっぱい、くさいー!」
「うっさい!」
娘がキレた。自尊心(ego)が傷ついたらしい。
「くさくさおねえー、おねえはくさいー」
「あんたねっ!」
「やめなさい!」
喧嘩を始めようとする二人を瑛子は一喝する。が、息子はけろっとした顔をしている。
「ね、ママ。僕は電気(electricity)を作る実験がしたい」
おねえと同等(equal)でいたいらしい息子が、張り合うように言う。
「……電気を? どうやって?」
嫌な予感しかしないが、一応瑛子は聞いてみた。
「えっとね、水とね、塩とね、バッテリーとね、」
「やめてちょうだい」
瑛子は息子を遮った。水とバッテリーなんて、下手したら感電(electric shock)するではないか。
瑛子は息子に雑巾を渡した。
「床拭いて」
「やだ」
息子は腕を組んで雑巾を拒否する。
「なんでよ?」
「だって、これおねえがやったんじゃん。僕、なーんにも悪いことしてないよ」
「確かに」
……って納得してる場合じゃなくて。
「わかった。お手伝いしてくれたらお小遣いあげるから」
「僕、ばあばにこの前お小遣いもらったからいい」
そうだった。夫の実家に帰省したときに、結構な金額をいただいていたんだった。
でも全員でやらないと、大掃除は終わらない。
瑛子は説得を試みた。
「考えてみて。ちょっと床を拭くだけで、お金が稼げる(earn)のよ? ママはただ働きなのよ? お得だと思わない?」
うーん、と息子は首を傾げて考える。
「いちまんえんくれる?」
「あげるわけないでしょうが」
「じゃあ、ごせんえん?」
「百円。さらに! いっぱい頑張ってくれたら、パフェ食べに連れてってあげる」
じゃあやめると息子が言い出す前に、瑛子は畳み掛けた。
やれやれ、という仕草をしながら、息子は雑巾を取った。
この交渉力、将来的に吉と出るか、凶と出るか。
起業家(entrepreneur)にでもなったら、いいのかもしれない。敵(enemy)はあまり多く作ってくれるなよ、とは思うけど。
「とりあえず、掃除するわよ」
瑛子の鶴の一声で、一斉清掃が始まった。
家具から置物に至るまですべて(everything)を拭く。ベタつくものは二度拭き、三度拭きする。なんでこんなところまで、というようなところも拭く。
天井にまで(even on the ceiling)飛び散っている箇所は、夫に任せる。
夕方(evening)を越して、どっぷり夜になる頃、やっと掃除は終わった(end)。永久(eternal)に終わらないんじゃないかと思った虫排除も、ひと段落ついた。
瑛子は小姑のように部屋を評価した(evaluate)。
「もうこの辺りでいいでしょう」
瑛子の一声に、一同は安堵の息を漏らした。
まだまだ足りないが、このままやっていてもエンドレス(endless)だ。
「ああ、肩凝った。腰も痛い……」
瑛子は中腰で腰をさする。温泉効果はすっかり切れている。
デリバリーで頼んだ夕食を食べ、なんとか一息つく。
明日は仕事だ。休みたい気持ちでいっぱいだが、ただの一従業員(employee)である瑛子に決定権などない。
旅の土産にエッセンシャルオイル(essential oil)を買ったけれど、今はフルーティなものを見る気にもなれない。『バラから抽出(extract)された特別なオイル』とのことだけれど。
でも。この経験(experience)が、娘にとってプラスとなれば、親としては言うことなど何もない、のですよ。ええ。きっと、娘の視野はぐぅぅぅんと広がったでしょうから。ねえ? そうよねえ?
「これ、小論文(essay)に書くの?」
「書くわけないじゃん。恥ずかしい(embarassing)し」
「え、じゃあ宿題は?」
「普通に調べて書く」
最初からそうすればよかったんじゃ、という言葉が喉元まで迫り上がったが、なんとか飲み込む。
これも経験。きっと、素晴らしい(excellent)小論文ができあがることだろう。ねえ? ねぇぇぇ?
瑛子の無言の圧力に目を逸らして、娘は自室に篭った。もちろん、スマホ片手にだ。
瑛子は結局今日もバタバタだったなと思いながら、眠りについた。




