E as in Experience (経験のE)、II
家の中がカオスなのである。
いや、家がカオスなのはいつも通りなのだが、種類の違うカオスなのである。
どうカオスなのかというと、リビングとキッチンの壁やテーブル、戸棚、冷蔵庫、その他もろもろ、至る所(everywhere)に何やらやばいものがべっとりとくっついているのだ。
特に(especially)、テーブルの上の照明がやばい。
そのやばいものを追い求めるように、部屋の中をハエが興奮(excited)しながら飛び回り、蟻が行列を作っている。
どこから入ってきたのだろう? 一応、戸締りはすべてしてから家を出たはずなのに。
瑛子は目(eyes)を動かしながら部屋を見渡した。どこかに隙間があるのだろうか。窓枠を伝って行列をなす蟻は、家具の裏側に回っているようだ。
このカオスの元凶は、キッチンテーブルの上に転がっている、ガラスのボトルだ。そから液体が吹き出したのだろう。血痕のような跡ができている。
見るも無残な姿になった空(empty)のボトルは、犯罪の証拠(evidence)のようにテーブルの上に寝そべっている。
よく見ると、この血痕のようにまき散らされているものは、何かの果汁らしい。紫から赤へとグラデーションになっている液体には、種と皮が混じっている。そして、腐敗したような甘い匂い。
テーブルから滴り落ちる液体。
それを求めて蠢くハエ。
「なっ、何これ? どうしたの?」
瑛子はびっくりして、言葉もきちんと出ない。
瑛子たちは一泊二日の家族旅行から帰ってきたばかりだ。いつもは出不精なのに珍しく乗り気だった夫が、「東(eastに行くか、西に行くか、ダーツで決めよう」と謎のことを言い出した。それはさらっと却下して、子どもが遊んで楽しい、大人はビールを飲んで楽しい、温泉施設に行ってきたのだ。
美味しいものを食べ(eat)、渋滞に巻き込まれないうちに早く(early)帰ろうと戻ってきた。途中で夫が「車のエンジン(engine)が動かない」と騒ぎ出すハプニングはあったものの、夏のイベント(event)をエンジョイして――リラックスできたかどうかはまた別として――楽しかったなあと家に帰ってきたら、このカオスである。
ハエがぶうううんと音を立てて瑛子の横を通り過ぎる。瑛子は思わず耳(ear)を覆った。
十分(enough)という言葉を知らないらしい虫たちは、今もせっせと果汁に食いついている。
瑛子のお気に入りのエメラルド(emerald)色の花瓶にもアリがたかっていて、早くどうにかしなければと思うのに躊躇してしまう。ヨーロッパ(Europe)製のそのグラスは、瑛子が清水の舞台から飛び降りるつもりで買った物なのだけれど。
だって、最後にアリを触ったのなんていつ頃か。小学生(elementary school pupil)の頃じゃないだろうか。虫と戯れたい時期(era)なんてとっくに過ぎている。
「あああ! 私のワインが!」
娘がそう言いながら、ボトルに近づいていった。だが、手に取ろうとはしない。なぜなら、アリが行列を作っているからだ。
「ワインって何? どうしたの? 何したのよ?」
瑛子は動揺しながら娘に聞いた。ワインなんて家にあったっけ? と頭を捻るも、目の前の出来事がショックすぎて頭が働かない。
「ええっとぉ……」
娘は目(eyes)を左右に動かしながら、気まずげに話し出す。
どうやら、インターネットから調べた知識で、ブドウを細かくして置いておけば、ワインになるというのを知ったらしい。『ワイン作りというと難しい感じがしますが、意外と簡単(easy)なんですよ』という言葉を信じたそうだ。
そしてそれを実験(experiment)したらしい。
家の、キッチンで。
「何やってんの! アルコールって勝手に作っちゃいけないのよ」
「わかってるよ、ネットに書いてあったし。ちょっとぽこぽこって、ブドウが発酵するのを見てみたかっただけ。別に飲むつもりはなかったし、すぐに捨てるつもりだったんだってば」
言い訳(excuse)するように娘は言う。
「飲んだら危ないっていうのもあるけど、こうやって発酵するのが危険なのよ。ガラスが割れたらどうするの」
瑛子はガラスのボトルを指差しながら叱った。ちなみに瑛子もまだ触っていない。
ゴム手はどこにあっただろうか?
買い置きが確かキッチンにあったはずだけど。
「うちに腐りそうだったブドウがあったでしょ。ちょうどいいかなって思って」
発酵ってどうせ腐ることだし、と娘はけろりとしている。
「だからってなんでこんな旅行するタイミングで……」
「だからこそじゃん。どうせ食べなかったでしょ? あのブドウ。捨てたらもったいないし」
瑛子は頭を抱えた。
そういう問題じゃない……んだけど。
いや、そうなのだろうか。わからなくなってきた。




