沈黙の段差(つまづく日)
公園のベンチに座り、不安そうにする女がいた。
公園デビューを終え、一人で歩き回れるようになった男の子の小さな背中を、母親はベンチから見守っていた。
息子は最近、何にでも触れたがった。
花壇の花びらをむしったり、砂を口に入れそうになったり、
アリを追いかけて転んだことも一度や二度じゃない。
母親は何度も止めた。
でも、全部を止めることはできなかった。
この子の小さな手が、世界に触れたがっているのが分かったから。
少し前まで、母親の足元にしがみついて離れなかったのに。
今は振り向いて「ママ!」と呼んで笑い、すぐにまた走り出す。
その後ろ姿を、母親はどこか誇らしく思っていた。
だから今日も、付かず離れずの距離で見守っていた。
息子がまた走る。
花壇の脇を抜け、芝生の切れ目を飛び越えようとする。
——あぶない。
小さな段差があった。
母親の心臓がきゅっと鳴った。
息子の足がコンクリートにひっかかる。
小さな靴のつま先が、砂埃を蹴り上げる。
その瞬間——
——世界が止まった。
つんのめったままの息子の体が、空中で止まっている。
散った砂が宙を舞っている。
公園の遠くの親子も止まり、風の音も途切れた。
母親は思わず立ち上がった。
駆け寄って抱きとめたい衝動が走った。
頭の中で声がした。
——助けてあげて。
でも、同時にもう一つの声がささやいた。
——この子は、また走るよ。
転んだら泣くだろう。
膝を擦りむいて、しばらくは怖がるかもしれない。
それでも、また好奇心を抱いて、段差を越えようとするだろう。
それでいい。
それがいい。
母親はゆっくりと息を吐いた。
助けない。
この子の小さな世界に、転んで知る痛みを残してやりたい。
それは怖さじゃなく、強さになるはずだから。
つま先が冷えた。
でも胸の奥は、少しだけ熱かった。
母親は手を下ろした。
そうして
ーー世界が動き出した。
とん、と手のひらが地面に当たる音。
膝を打つ小さな音。
そして泣き声が、公園に響いた。
息子が振り返る。
泣きながら母親を探す。
母親は歩き出した。
駆け寄って抱きしめた。
背中をさすりながら、小さな声で言った。
「大丈夫。大丈夫。」
泣いてもいい。
転んでもいい。
また走れ。
息子の涙で濡れたほっぺを、自分の手でそっと拭った。
遠くで、子どもたちの笑い声がした。
止まった時間などなかったかのように
流れ始めていた。
泣き声の奥で、母親は小さく思った。
——この子は、きっと大丈夫だ。
その日、世界は3分間だけ止まった。




