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沈黙の本性 (失敗した男)

男を気に入ったのですが、今までの短編とは毛色が違うのではないかと

少々、不安になってきました。



鋭い目つきに整ったスーツ姿。

落ち着いた声色。

誰もが頼りにする「冷静な人」。

——その男は、今日もいつものバーにいた。


グラスの氷がカランと音を立てる。

仕事帰りの、数少ない息抜きの時間。


カウンターに腰掛け、ウイスキーを少しずつ舐める。

肩の力を抜ける唯一の場所。


そんなときだった。

隣に座った女が、そっと声をかけた。


「お仕事帰りですか?」


軽い会話の端々から、何度も視線が送られる。

男の手元、鋭い目つき、落ち着いた低音の声。

まるで獲物を見定めるように。


「お一人ですか?」


「ええ。」


短い返答。

女の瞳がわずかに潤んだ。


隣でグラスを拭くマスターが、小さく笑う。


男は無言でグラスを傾ける。


女は次の一杯を頼み

脚を組み替え体を寄せた。


「今夜、このあと……どうされるんですか?」


艶やかな声。軽く香るアルコール。


——そのときだった。


——世界が止まった。


バーの音楽も、氷の音も、吐息も。

男の肩がわずかに震えた。


男は周囲を確認して呟いた。


「……おいおいおい……」


小さく吐き出し、背筋を伸ばす。

指で髪を撫でつけ、スーツの襟を直し、ネクタイを引き締める。


「こんなチャンス、二度と来ないかもしれない……」

「何年ぶりだよ……!」


止まった女の顔を見つめる。

距離の近さに、思わず喉が鳴る。


「いける……いけるぞ……」

「紳士すぎてもダメだ。ちょっと強引くらいが……」


鏡を見て髪を整え、口臭を気にして息を吐く。

ポケットから小さなガムを取り出し、急いで咀嚼する。

冷静な仮面の元では絶対にできないことだった。


「問題ない……問題ない……」


何度も呟き、深呼吸。

女の手に、自分の手をそっと重ねる。


そうして

——世界が動き出した。


重ねられた手に気づいた女が

伏し目がちに言葉を続けた。


「どこか、連れて行ってくれませんか?」


男は静かに答えた。


「問題ない。」


だが沈黙が流れる。

男はどこへ行くべきか、答えが分からなかった。


女は無言の空気に深読みを始める。

自分では、この男につり合いが取れていないのではないかと。


そうして

軽率に声をかけてしまった自分の愚かさに気づく。


「軽率でした……すみません」


そう言って、立ち上がり、店を出て行った。


カウンターには、男とマスターだけが残った。


氷が小さく鳴る。


マスターが小さく呟く。


「やっぱり、あの程度ではなびきませんでしたか。あなたは。」


男はグラスに目を落とし、何も言わない。


心の奥では、そっと叫んでいた。


——おい、帰るなよ……!

——せめて、たまには……!

——くそ……!


グラスを一口含む。


「……問題ない。」


小さく呟き、氷の溶ける音に耳を澄ませた。


その日、世界は三分間だけ止まった

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