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沈黙の座席(後部座席の女)



彼はタクシーの運転手だった。

夜の繁華街を流し、呼ばれた場所へ車を寄せる。

今日もまた、裏通りへ回れという無線が入った。


後部座席に乗り込んできたのは、濃い化粧に高いヒールを鳴らす女だった。

夜の蝶だろうか。

それはどうでもよかった。

客は客。ただそれだけだった。


けれど女は違った。

数歩あるけば大通りに出られるのに

わざわざ店の裏口へ呼びつけた。

そうして、ドアを叩き、荷物を投げつけ、開口一番に言った。


「お前は臭い、窓を開けろ。」


彼は黙って窓を開けた。

においは彼ではなく、街のほうだった。


車が走り出しても、女の口は止まらなかった。

わざとらしく座席を蹴り上げ、シートを拳で叩き、

「レビューに最低って書いてやるからな」と吐き捨てる。


彼はただ前を見た。

言い返す言葉はいくつも浮かんだ。

けれど飲み込んだ。

しかし人間だ。

胸の奥には小さな棘が刺さったままだった。


赤信号の手前で、女はさらに声を荒げた。

脅すように「この会社にクレームを入れてやる」と笑った。


彼の喉が動いた。

思わず、言葉を吐きかけたそのとき。


ーー世界が止まった。


女の声が途切れた。

街の音が消えた。

赤信号が滲んだまま固まった。


車内には、彼の呼吸だけが残った。


ハンドルに置いた手を見つめた。

アクセルを踏むと、タクシーだけが動いた。

止まった町をゆっくり進む。


バックミラーに、固まった女の姿が映る。

口を半開きにして、シートを蹴り上げる足を止めたまま。


彼は小さく息を吐いた。


行き先を少しだけ変えた。

遠回りをして、街の明かりを越えた先。

目的地より少しだけ不便な場所。


長い階段の下に車を止めた。


窓の外には、夜の街の明かりが滲んでいた。

この階段を登れば、女の目的地はすぐだ。

ほんの少しだけ、自分の足を使えば。

それだけでいい。


ドアを開け、固まったままの女をそっと降ろした。


もう一度、アクセルを踏む。


世界が動き出した。


バックミラーに、階段を睨む女の姿が一瞬だけ映った。

何が起きたのかもわからない顔で、夜の石段を見上げていた。


彼は誰にも届かない声でつぶやいた。


「お代は、結構です。」


窓の外に、夜風が流れ込んできた。

ハンドルに置いた手が、わずかに熱を帯びた。


止まった座席の奥で、

彼は小さな誇りを守った。


その日、世界は3分間だけ止まった。



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