沈黙の座席(幼い乗客)
彼はバスの運転手だった。
長い間、毎日、子どもたちを安全に運び続けてきた。
朝の集合場所で待つ小さな背中。
まだ眠そうな顔、遠慮がちな笑い声。
誰よりも先にその表情を見れる事が、彼の幸せだった。
運転席に座るとき、背筋を伸ばす。
前を向き、信号を確かめ、慎重にブレーキを踏む。
それが当たり前であり、彼の誇りだった。
後ろから聞こえる声。
笑い声、小さな歌声、帰り道のかすかな寝息。
そのすべてが、このバスを走らせていた。
けれど、その日、彼は少しだけ疲れていた。
季節の変わり目で、熱のようなだるさが残っていた。
何年も同じ道を走り、どこかで少しだけ慣れもあった。
前を向くことが、ただの習慣になりかけていた。
大きな交差点で信号待ちをしていたとき、
世界が止まった。
エンジンの振動が途切れた。
外の車も、人の流れも、後ろの声も、すべてが息をひそめた。
初めて、運転席で深く息をついた。
ハンドルに添えた手をそっと離し、ゆっくりと後ろを振り返る。
いつも背中にあったはずの景色が、初めて目の前にあった。
窓の外を見つめる子。
ハンドルを持つ真似をする子。
友だちの肩に頭をあずけて眠る子。
眠る子の頬に当たる光が、あまりにもやわらかかった。
胸の奥が、少し熱くなった。
何年も前から、この座席はいつも満席だった。
小さな心が揺れながら、夢を積んで運ばれていた。
彼はそれを、ただ安全に送り届けるだけだと思っていた。
視線を戻すと、窓の外に並ぶ市バスがあった。
運転席のすぐ後ろに、制服姿の若者が立っていた。
信号が青になるのを、運転手の隣でじっと見ていた。
見覚えがあった。
このバスに乗っていた子だ。
いつも一番前の座席を争っていた子だ。
運転席を覗き込み、「大きくなったら運転手になる」と笑っていた顔を思い出した。
あれから、どれくらい経っただろう。
彼の背中を見て育った誰かが、今度は新しい誰かを運ぶ。
教育の場に立ったことはない。
教科書も黒板もない。
それでも、自分の背中は何かを伝えられたのかもしれない。
小さく息を吐く。
胸の奥に、かすかな熱が灯る。
もう一度、ハンドルを握った。
前を向く。
習慣ではなく、もう一度、自分の意思で。
止まった世界が動き出した。
エンジンが震え、子どもたちの声が戻る。
信号が青に変わり、バスが静かに動き出す。
止まった座席の向こうで、
彼は小さな夢を、確かに拾いなおした。
その日、世界は3分間だけ止まった。




