沈黙の狭間(朝と昼の間)
寝て、目を覚ますのはいつも11時すぎだった。
目を開けた瞬間、静まり返った部屋が胸の奥を冷たくする。
家には誰もいない。
家族がいても、もう長いこと口をきいていない。
朝の食卓の匂いも、誰かが立てる食器の音も、遠い昔のことになった。
自分だけが、この家の時間に取り残されている気がした。
腹が減った。
眠気と倦怠感だけが体を支配している。
布団を蹴飛ばし、重たい体を引きずって階段を降りる。
何もない。
食卓の上にも、冷蔵庫の中にも、何ひとつ残っていない。
前はパンや弁当の残り物が置かれていたのに。
もう何もない。
わざとだ。
働かない自分を、家族が憎んでいるのだと、わかっている。
冷蔵庫のドアを閉めたとき、小さく笑った。
情けなくて、声にもならない笑いだった。
仕方がない。
家の中を這うように探し回り、棚の奥や古い財布から小銭をかき集めた。
指先に残る埃と、湿った汗の感触だけが、今の自分のすべてだった。
外に出ると、昼前の光が目にしみた。
何かに晒されているような気がして、すぐに顔を伏せる。
誰かと目が合うのが怖かった。
知らない誰かの視線に、自分の惨めさを映されるのが怖かった。
足早に歩く。
早くスーパーにたどり着きたい。
早く誰の目にも触れない場所に逃げ込みたい。
看板が見えたとき、わずかに胸がほぐれた。
店に入ったその時——
世界が止まった。
声が途切れた。
音が消えた。
カートを押していた主婦の腕も、駐車場を横切る車も、空気の中で凍りついたように動かない。
戸惑った。
辺りを見回しても、自分だけが取り残されていた。
まるで、今の自分のようだった。
何が起きたのかもわからないまま、男は目の前の商品棚を見つめていた。
弁当、パン、カップ麺、総菜。
誰もいない。
何でも取れる。
誰にも咎められない。
財布の中の小銭を気にしなくていい。
一歩、踏み出しかけた。
ポケットの中で握った硬貨の冷たさが、掌に刺さった。
欲しかったのは、これか。
何を失ってでも、腹を満たすことか。
こんなことをして、何になる。
盗んだところで、誰も見ていないのに、誰かに叱られる気がした。
止まった人々の顔を見た。
子どもの手を引いた母親。
レジに並んだままの青年。
どこか遠くを見ている老人。
息を吐いた。
誰も動かないのに、胸の奥だけがざわついて止まらなかった。
——もっとまともに、生きたい。
どこからか、そんな声が漏れた。
ずっと言えなかった言葉だった。
指先から力が抜けた。
ポケットの小銭が、鈍い音を立てた。
止まった世界が動き出したとき、店内に音が戻った。
子どもの声、ビニール袋の音、小銭を数える音。
男は弁当を一つだけ手に取った。
列の一番後ろに並んだ。
まだ腹は空いているのに、レジに向かう足取りは、少しだけ軽かった。
止まった世界の中で、ひとつだけ希望を拾った。
その日、世界は3分間だけ止まった。




