沈黙の朝(幸せの帰り道)
夜を飲み込んだトラックの運転席で、男は息を吐く。
街灯をすり抜け、たどり着いた営業所。
ひとつ、またひとつ、荷を降ろすたびに夜がほどけていく。
あとは家に帰るだけ。
ハンドルを握り続けた両手が、微かに痺れている。
手のひらの熱だけが、夜の仕事を思い出させる。
家までの帰り道が好きだった。
エンジンを止め、眠りかけた身体を無理に起こして、自転車にまたがる。
ペダルを踏み込むたびに、夜勤明けの倦怠が冷たい空気に溶けていく。
息子が起きる前に帰りたい。
玄関のドアを開けて「おはよう」
そう声をかけたい。
ランドセルを背負う小さな背中を、見送る時間は、生活のご褒美だった。
それがあるから、また夜に走れる。
それだけのことが、ずっと支えだった。
遠くに踏切の音が聞こえたはずだった。
けれど、今は聞こえない。
遮断機が降りかけたまま、音を立てずに止まっている。
気づけば、世界が止まっていた。
車も、人も、信号も。
止まった世界にひとり。
誰も動かない朝に取り残されて、男は少しだけ戸惑う。
——越えていいのか。
胸の奥で、ささやかな罪悪感が芽生える。
いつもなら、絶対に越えない。
けれど、もうすぐ息子が起きる時間だ。
早く帰りたい。
ペダルを踏み込む。
降りかけの踏切を越え、赤い信号を通り抜ける。
止まった町をすり抜けた。
誰も咎めない世界で、少しだけ速度を上げた。
家の角を曲がったとき、止まった世界が息を吹き返した。
時計の針が進むように、町の音が戻ってくる。
止まった世界のおかげで、ずいぶん早く家にたどり着いた。
玄関先に、小さな影が立っていた。
「おかえり」
ランドセルを揺らしながら、息子が笑う。
いつもより、ほんの少しだけ長い朝。
息子の手には、グローブが握られていた。
眠気で重たい腕を持ち上げる。
キャッチボールをする父と子の間に、やわらかい朝の光が差し込む。
ボールを受け止めるたび、胸の奥で何かがほどけていく。
たわいない一球が、どこかにしまい込んだ疲れを溶かしてくれる。
たった3分、世界が止まった。
あの時間がなければ、この時間はなかったかもしれない。
だから男は思う。
明日からも信号を守ろう。
踏切では止まろう。
安全に働こう。
小さな幸せを守るために。
ゆっくりと息を吐き、止まった世界を胸の奥にしまい込む。
幸せは、帰り道にある。
その日、世界は3分間だけ止まった。




