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沈黙の灰皿 (消えゆく火種)



小さな喫茶店があった。

駅から少し外れた路地裏、

人通りは多くないが、暖色の明かりが夜道にじんわりと滲む。


マスターはこの店を四十年やってきた。

若い頃は喫茶店なんて似合わない男だった。

酒も煙草も女も喧嘩も、あれこれ一通り味わった。

人に迷惑もかけたし、泣かせもした。

気づけば、手元に残ったのは

この小さな店と、

カウンターの向こうで誰かと煙をくゆらせる時間だけだった。


時代を重ね、彼も落ち着きと貫禄を手に入れた。

ようやく喫茶店が似合うようになった。


何度も時代は変わった。

駅前に大きなチェーンのカフェができ、

若い客はそちらへ流れた。

保健所の指導も年々厳しくなった。


「マスター、まだ吸えるのがありがたいよ」

そんな声を背中に受けながら、

自分の店だけは、紫煙の逃げ場であり続けた。


しかし、ついに役所から言い渡された。

「明日から完全禁煙です」

壁に貼りっぱなしの「喫煙可」の札を、

マスターは黙って剥がした。

周りのヤニ汚れの中で、札の裏だけがぽつんと真新しい白さを残していた。



---


最後の夜。

閉店時間はとっくに過ぎた。

カウンターに残ったのは、一人の古い常連だけ。


「変わっちまうなあ」

男が呟いた。


マスターは小さく笑った。

「時代さ」


棚の奥から、古いマッチ箱を出した。

店を始めたばかりの頃、景気づけに名前を刷って作ったやつだ。

もう湿気て火がつかないかと思ったが、

カチッと擦ると、まだ小さな炎が生きていた。


二人でタバコに火をつける。

ゆっくり煙を吐き出す。

たちのぼる白い線が、店の裸電球の下でゆらめいた。



---


灰皿はガラス製だ。

長い年月で縁が欠け、焦げ跡が幾重にも刻まれている。

誰かの愚痴を、誰かの恋の話を、

誰かの嘘泣きを、いつも黙って受け止めてくれた。

マスターも何度ここに、

自分の後悔を灰にして置いてきただろう。


煙の向こうに、常連の顔が滲んだ。

最初にこの店に来た日、

失恋して泣きながら、コーヒーとタバコを吸っていた。

隣に座った見知らぬ客が火を貸していた。

あの火種がなければ、彼は今ここにいなかったかもしれない。


マスターはふっと目を閉じた。

そのとき——

世界が止まった。



---


音が消えた。

天井のファンも、冷蔵庫の微かな唸りも、

街の遠いクラクションさえも。

紫煙だけが、ゆらゆらと止まらず揺れている。


マスターは戸惑った。

タバコを灰皿へ置き、時計を見る。

秒針すら止まっていた。

常連の顔も、まばたき一つしない。


ひとまず落ち着こうと

マスターはタバコをくわえ直し、深く吸い込んだ。

肺の奥が熱を帯びる。

もう何十年も、この苦い煙に助けられてきた。


止まった常連の顔を見つめた。

笑っている。

きっと、次に来ても「吸えなくなったんだな」と笑うだけだろう。


火のついたタバコを、ゆっくりと灰皿に置く。

赤い火種が小さく脈打ち、

じりじりと音もなく灰に変わっていく。


思い出していた。

店を開いた頃、初めてできた常連と肩を並べて吸った煙草の味。

恋人にフラれて、壁に拳を叩きつけ、血だらけの手で吸った煙草の味。

子供が生まれたと知らせを聞いて、店の裏で一人で吸った煙草の味。

どれもこれも、灰皿に消えた火種だった。


そうして、灰皿を手に取り改めて眺める。

焦げ跡が幾重にも刻まれた古いガラスの皿。

何百人もの言葉が、ここに灰として消えた。


「お前は、いつも話を聞いてくれてたな」

独りごとのように呟き、最後の一口を吸う。

フィルターを灰皿に置くと、火種は小さく光を残し、

ゆっくりと消えていった。


止まった世界で、もう煙は立たなかった。

残るのは、わずかな香りと、灰に紛れた誰かの声の残り香。


マスターは立ち上がり、灰皿をそっと棚にしまった。

二度と使わないその皿を、宝物のように。


その瞬間——

世界は音を取り戻した。


常連が一言、何も知らない顔で笑った。

「マスター、また来るわな」

「おう。明日からはタバコお断りだけどな」


外の空気はひんやりとして、

春の夜風が煙の匂いを遠くに連れ去った。


——その日、世界は3分間だけ止まった。



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