沈黙の嫌煙家 (振りかざした正義感)
嫌煙家の婦人がいた。
駅前の喫煙所、路地裏の灰皿、歩き煙草——
煙を見ると胸がざわついた。
黙っていられなかった。
「すぐに火を消しなさい。」
「人前でタバコを吸って何様よ、あなた。」
「健康が害されました。これは間接的な殺人です。」
誰が相手でも同じだった。
睨まれようと、舌打ちされようと。
正しいことを言って何が悪い——
その思いだけが、婦人の背を押していた。
日に日に度を越していく正義感だけが、
婦人のうちに残っていた。
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その夜も同じだった。
飲み屋街。
駅裏の細い路地に、灰皿と若い男たちがいた。
紫煙がゆらゆらと街灯に滲んでいる。
婦人は真っ直ぐ歩いた。
かかとの音が、濡れたアスファルトに小さく響く。
ためらいはない。
「ここで吸わないで。すぐに火を消しなさい。
家で吸えばいいでしょう? 迷惑よ。」
一人の男が煙を吐き、笑った。
「ここ、灰皿あるんだけど?」
「黙ってろババア。てめぇが帰れ。」
後ろの若者たちが嘲るように声を上げた。
それでも婦人は引かなかった。
胸の奥では、肥大した正義感が声を荒げている。
「警察に通報します。
あなたたちの顔、全部撮ります。覚悟しなさい。」
一人が足を踏み出した。
すぐ目の前に立つ。
酒と煙草と若い汗の匂いが、夜気に混じった。
「何様だよ、あんた。」
男たちの笑いが途切れた。
男の手が、婦人の肩を掴んだ。
その瞬間——
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世界が止まった。
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時間が凍りつき、
若者は怒りの形相を浮かべたまま固まった。
白い煙だけが、止まらずにゆっくり漂っている。
街灯の下で光る灰皿。
中には火が消えかけた吸い殻が、いくつも重なっている。
一つ一つが、静かに無言で黒く燃え尽きている。
婦人は掴まれた肩をそっと外した。
男の指先は動かない。
遠くで、電車の音が止まったままだった。
胸の奥に、冷たい夜風が流れ込む。
体は小さく震えて止まらない。
正義は正しい。
けれど、剣のように振り回せば、
いつか刃は自分に返ってくる。
思わず口をついて出た。
「……火は消せるけど、人の怒りは残るのね。」
答える者はいない。
止まった世界の中で、煙草の火だけが
じりじりと小さく赤く灯り続けていた。
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婦人は俯き、ひとつ息を吐いた。
光る灰皿を見つめ、若者の手をそっと外した。
掴まれた肩をさすり、小さく首を振った。
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次の瞬間——
街の音が戻った。
男の手は空を掴み、拍子抜けしたように離れた。
後ろの若者が笑いながら引っ張った。
「やめとけって。ほっとけよ。」
若者たちはタバコを投げ捨て、去っていった。
路上へ落とされた煙草は、湿った路地で
じゅっと音を立てた。
婦人は何も言わなかった。
小さく会釈だけして、その場を離れた。
冷たい風が頬を撫でた。
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翌日からも婦人は煙を見つければ声をかけた。
けれど、大きな声は出さなかった。
ただ必要な時に、静かに一言添えるだけになった。
正義を剣にしない。
正しさを、杖のように支えにするだけ。
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——その日、世界は3分間だけ止まった。




