沈黙の酔客 (常連の男)
下町の飲み屋街の外れに、
マスターが一人でやっている小さなバーがあった。
マスターは若い頃、散々荒れて生きてきた。
酒も博打も喧嘩も、いろいろ味わった。
人に迷惑もかけたし、泣かせもした。
気づけば、手元に残ったのは酒と人の話だけだった。
それなら、と始めたのがこの店だった。
安くはないが、来た人みんなに居場所を作る。
笑い声が生まれ、帰る頃には少しだけ明日が楽になる。
そんな店にしたかった。
少しずつ増える常連。
その輪の中に、一際人懐っこい男がいた。
その男は不思議な奴だった。
店を開いて間もない頃から通い始め、
あっという間に顔役みたいになった。
一人でふらっと来ては、すぐ誰かの輪に溶ける。
初対面の客でも隣に座れば笑わせた。
時には違う女を連れてきては、
「今日はツケでいいだろ?」と茶目っ気を見せた。
憎めない奴だった。
だが、飲むときは荒れることもあった。
マスターは困っていた。
「可愛いが、いつか揉め事を起こすんじゃないか……」
そんな風に思っていた矢先のことだった。
ある平日の夜、閉め支度をしていると
男がフラフラと入ってきた。
すでに出来上がっていた。
頬が赤く、目がどこか泳いでいる。
他に客はいない。
静かな店内に、男の吐息がやけに響いた。
「今日はどうした」
マスターが問いかけても、男は要領を得ない。
何かを話そうとするが、言葉にならない。
笑ってごまかし、グラスをいじるだけだった。
棚にはラベルの印字を間違えた珍しい酒があった。
捨てるには惜しいが、売り物にはできない。
マスターはそれを二つのグラスに注いだ。
「これで、今日は店じまいだ。」
男は笑った。
少しだけ肩の力が抜けたように見えた。
二人だけのカウンターで、ぽつぽつと話す。
「俺ってさ……誰といても寂しいんすよ。」
「誰といても、誰も俺のことわかってくんない。」
マスターは黙って聞いていた。
グラスを傾けるうちに、
男はカウンターに突っ伏して眠った。
荷物が椅子から滑り落ちかけた、そのとき——
世界が止まった。
時計の針の音が消えた。
冷蔵庫の低い唸りも止まった。
マスターはそっと荷物を拾い上げた。
中には、ぼろぼろの手帳。
開くと、びっしりと文字があった。
誰かと飲んだ夜のこと。
誰かと笑った日のこと。
何度も何度も書き直された、同じ言葉。
『俺はここにいていいんだよな?』
ページをめくっても、似た言葉ばかりだった。
——誰といても、寂しいんだ。
酔客の笑顔の奥に、
「誰でもいいからここにいてほしい」という
どうしようもない孤独がぽっかりあった。
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マスターは手帳を閉じ、そっと荷物に戻した。
男の肩に自分の上着をかける。
「……お前は、ここにいていいさ。」
小さく呟いた。
氷が溶ける音が戻った。
男は眠ったまま、小さく笑った気がした。
マスターはグラスを空け、
カウンターをゆっくりと磨いた。
明日もこの席で、誰かが笑えばいい。
——その日、世界は3分間だけ止まった。




