沈黙の酔客(延長の葛藤)
「延長に決まってんだろ!」
呂律の回らない声が、狭い店内に響く。
飲んだくれの男がいた。
給料のほとんどを酒に変え、
安居酒屋で飲み始めては、気が大きくなると
キャバクラへハシゴする。
楽しい時間が終わるのが、ただ怖かった。
だからいつも、チェックの合図が出るたびに叫んだ。
「延長だ、延長に決まってんだろ!」
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男は独身だった。
誰も止める者はいない。
かつての友人は、酔いが回った男のワガママに辟易し、離れていった。
悩めば酒に逃げた。
酒場の女の子に笑ってもらい、
肯定してもらえれば、それだけで救われた気がした。
——今日も同じだった。
いつもの店、いつもの女の子。
もうすぐチェックの時間だ。
延長か、帰るか。
迷うふりをして、いつも通りに叫ぶだけ。
「延長に……決まってんだろ……」
その時——
世界が止まった。
音が消えた。
周囲のざわめきは消え、
照明の瞬きすら止まって見えた。
笑っていたキャストの口も、形のまま凍りついている。
最初は笑った。
「そんなバカな」と思った。
手元のグラスを飲み干す。
アルコールの苦味だけが、現実を確かめさせた。
誰も見ていない世界で、
高い酒を勝手に注ぎ、女の肩に手を伸ばす。
何をしても許される気がした。
けれど、止まった女の顔を近くで見て、ふと気づいた。
そこにあったのは「笑顔」ではなく、
ただの「笑顔の仮面」だった。
動かない黒服たち。
緩んだ顔で笑う他の客たち。
すべてが仮面に見えた。
この店も、グラスも、歌声も——
何もかもが舞台の書割だった。
自分がここで飲んでいたものは、何だったのか。
延長して得ていたものは、何だったのか。
思い出した。
酒を持ち寄って公園で飲んだ。
友人の家で安い酒を開けた。
歩きながら飲むだけでも楽しかった。
バカを言えば笑い声が返ってきた。
酔いすぎれば誰かが叱ってくれた。
どれだけ安い酒だろうが、
そこには中身の詰まった味があった。
今はどうだ。
隣にいるのは仮面の笑顔だけだ。
ただの延長に金を払い、空虚を埋めたフリをしていた。
男はゆっくりと席を立つ。
延長の伝票がテーブルに置かれていた。
それを手に取り、胸元でくしゃりと握りつぶした。
「……もう、いいよ。」
自分の耳にだけ届く声だった。
その瞬間——
世界が動き出した。
「延長、どうされますか?」
黒服が問いかける。
男は小さく首を横に振った。
初めての言葉が口をついて出た。
「……帰るよ。」
キャストが少し驚いて笑った。
その笑顔も、最後まで仮面だった。
店を出ると、夜風が火照った頬を撫でた。
胸の奥が、すっと冷えていく。
次の日から、酒は家で飲んだ。
話したくなれば、久しぶりに友人に連絡を入れた。
誰もいなければ、本を読み、音楽を聴きながら
缶ビールをひとつ空けた。
それで十分だった。
あの止まった時間が教えてくれた。
「誰かと過ごす時間は、延長するものじゃない。繋ぐものなんだ。」
——その日、世界は3分間だけ止まった。




