沈黙の山間道 (鉄の馬を降りる)
男がいた。
山間の道を走り続けた走り屋だった。
大型のバイクに跨り、誰よりも速く峠を下った。
伝説と言われる走りも、
本当は尾ひれのついた、ただの噂だったのかもしれない。
それでも誰も、彼を追い越せなかった。
若さは過ぎた。
仲間は消え、群れも解けた。
それでも男だけは、峠を降りなかった。
誰がなんと言おうと構わなかった。
「まだ走るのか」
「いつまでバカやってる」
笑われてもいい。
速さだけが、誇りだった。
その日も同じだった。
山間道を、走り抜ける。
前を遮るものなど、なにも無い——
はずだった。
——だが、いた。
カーブの向こうで、一頭の鹿が飛び出した。
咄嗟にハンドルを切る。
避けた瞬間、
身体は空を舞った。
鉄の馬は壁に向かって走り続ける。
彼だけが放り出され——
——世界が止まった。
時間が凍り、虫の声は消え、
夜の山は静かだった。
男は、乾いた枝の群れに突っ込んだ。
ライダースーツが擦れ、枝が弾ける音が、無音の世界に吸い込まれた。
痛い。——でも、生きていた。
男はゆっくりと立ち上がった。
止まった世界の中で、荒い息が自分を叱るように響いた。
壁に突き刺さる寸前で止まった鉄の馬に近づく。
指先が触れると、冷たい金属の匂いが鼻を突いた。
割れたカウル、飛び石の跡、擦れたステップ。
どれもこれも、大切な記憶のかけらだった。
「……ごめんな。」
小さく呟いた声が、自分の耳だけに届く。
最後に一度だけ、跨る。
傷だらけのシートが、背中に昔の風を運んだ。
アクセルをひねるフリをする。
エンジンはもう動かない。
それでも、走り出せそうな気がした。
「……ありがとう。」
声が震えた。
ゆっくりと足を地面につける。
両手を離し、鉄の馬を置いていく。
その瞬間——
世界は音を取り戻した。
愛車は壁に当たり、
二度と走れなくなった。
男はヘルメットを脱いだ。
冷たい夜気が、火照った頬を撫でていった。
あれから彼は、二度とバイクには跨がらなかった。
あのバイクが、最後の相棒だった。
あの日の夜風を、最後にしたかった。
時折、誰もいないガレージに立ち、
オイルの匂いを思い出す。
それだけで十分だった。
もう速さはいらない。
あの山間道だけが、永遠に彼の居場所だった。
——その日、世界は3分間だけ止まった。




