沈黙の環状線(思い出の道)
男がいた。
かつて環状線を走り抜けた若者だった。
速くはなかったが、誰よりも環状を愛していた。
深夜、仲間のテールランプを追いかけ、
空気を裂いて風になる——あの頃の彼には翼があった。
「ずっと走っていたい。」
だが、時は流れた。
仲間は家庭を持ち、彼も同じ道を選んだ。
速さよりも安全を。翼よりも積載量を。
孤独よりも家族を。
誇りだったエンジン音は、赤ん坊の笑い声とガラガラの音に変わった。
妻と子に囲まれ、穏やかな日々を送った。
幸せだった。
ある日の営業帰り。
煙草を我慢できず、禁煙の営業車を路肩に寄せて一服した。
吐き出した煙の先に、解体屋があった。
何気なく覗いたその奥で、彼は息を呑んだ。
埃をかぶった愛おしい影。
助手席の焦げ跡、ダッシュボードに残る仲間の落書き。
それは紛れもなく、かつての愛車だった。
何人もの手を渡り、幾度も直され、まだ走り続けていた。
「……まだ、走ってたのか。」
たまらず店主に頭を下げた。
スーツに土をつけても構わなかった。
「お願いだ、解体は待ってくれ!」
帰宅して、テーブル越しの妻にも頭を下げた。
妻は黙って聞いてくれた後、笑って、呆れたように言った。
「……お小遣い、半分ね。」
彼は黙って頷いた。
昔の自分のためじゃない。
今の自分を、少しだけ取り戻すために必要だった。
数ヶ月後、愛車は帰ってきた。
彼の隣に。
自分も車も歳をとった。
そんなことを思った。
キーを捻ると、仲間の笑い声が蘇った。
「今日も上がろうか。」
誰かがそう言った気がした。
仲間はもう隣にいない。
けれど、ハンドルを握れば、隣でみんなが笑っている気がした。
深夜、家族が寝静まった頃。
そっとガレージを出て、環状線へ滑り込む。
街灯に照らされる路面。
窓を開ければ、あの頃の空気が戻ってくる。
「今日は暴れない。ルールを守るだけだ。」
心に誓って、アクセルを踏んだ。
しばらく走った頃、無理な車線変更をする大型トラックが視界を塞いだ。
「嘘だろ……!」
逃げ場はなかった。
その瞬間
——世界が止まった。
走馬灯のように思い出が駆け抜ける。
あの夜の笑い声。
仲間の背中。
真夜中の風。
共に、幾度も危険を乗り越えてきた愛車。
「もう一度だけ、守ってくれ……!」
愛車に願い、ハンドルを切った。
トラックをかわし、追い越す。
止まった車列を高速で縫い、止まった時間の中を駆け抜けた。
あの頃と同じだった。
テールランプを追いかける自分がいた。
「俺はまだ、生きている!」
思わず叫んだ声が、エンジン音に溶けた。
やがてインターチェンジが見えた。
出口を降りた瞬間、世界は音を取り戻した。
家族の寝顔が浮かんだ。
思い出の中
遠のいていく仲間の背中に、そっと手を振った。
「……ありがとうな。」
ウインカーを出し、ブレーキを踏む。
今度はゆっくりと家へ帰る。
速く走りたいわけじゃない。
守るものがあるからこそ、走れる場所がある。
でも、あの3分間だけ、彼は確かに青春の中にいた。
——その日、世界は3分間だけ止まった。




