表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
42/94

沈黙の香り(嗅ぐ男)



男は匂いに囚われていた。


それはもう、「好き」の領域を越えていた。

紙袋の匂い、ガソリンの匂い、ゴム、インク、土。

乾いた本の束に顔を近づけ、

風の通らない地下道で鼻を利かせる。

周囲が避けても、彼は気にしなかった。


彼にとって匂いとは、

「人が忘れていくもの」の痕跡だった。

言葉よりも先に残り、

記憶よりも深く沁みるもの。


そして、どこかで思っていた。

「匂いは、真実だ」と。


その夜も、彼は放課後の学校に忍び込んだ。

誰もいない玄関。

躊躇いはあったが、

下駄箱から上履きを手に取った。


香りが、した。

汗と布と、時間の混ざった匂い。

少女が毎日、歩いてきた道のり。

それを、体が欲していた。


だが、その瞬間だった。

——世界が、止まった。


空気が凍る。

時計の針が止まり、風も虫の音も消える。


男はただ、無音の空間に取り残された。


そして、匂いだけが残った。

風が動かないこの空間では、

香りは逃げずに、すべてがそこに留まっていた。


むせかえるような生々しい匂い。

だが、その匂いの奥には

「暮らし」が、「日常」があった。


朝の寝起き、部活での汗、雨に濡れた足元。

それでも翌朝には乾いて、また歩き出す。

そんな生活の匂い。


それを、自分は……盗もうとしていた。


彼の胸に、冷たいものが落ちた。


「……俺は何をしてるんだ?」


香りに救われた日々があった。

不安なとき、安心できたのは石鹸の香りだった。

孤独な夜、母が干してくれたシャツの匂いに泣いたこともある。


けれど、

その香りを「奪う側」になってしまった自分。


手にしていた上履きを見つめる。

そこにあるのは、人間の時間だった。


「この匂いを、汚しちゃいけない」


静かに下駄箱に戻す。

鼻を近づけない。

ただ、整えるように置いた。


そして、自分のポケットから取り出したのは

無臭のハンカチだった。


なんの匂いもついていない。

でも、それは自分のもので、自分の時間が染みている。


男は、ぎゅっとそれを握った。


***


——世界が、動き出した。


窓の外で虫が鳴く。

警備員の足音が遠くで響いてくる。


男はそっと、学校を後にした。

香りの痕跡を残さないように。


今でも、匂いを嗅ぎたいという衝動は残っている。

けれど、あの3分間が教えてくれた。


「香りとは、誰かが生きた証だ」

それを勝手に奪ってはいけない。


その夜、彼は帰り道に立ち寄ったコンビニで

ふと棚に並ぶ柔軟剤を手に取った。


パッケージに書かれた言葉。

——「清潔感」「やさしさ」「そっと寄り添う香り」


彼は、かすかに笑った。


香りでつながる方法は、ちゃんとあるのだ。


——その日、世界は3分間だけ止まった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ