沈黙の文字列(横文字の男)
彼は、横文字を多用する男だった。
エクセルの関数名。
チャットでの略語。
ビジネス会議でのフレーズ。
「アジェンダ」「コンセンサス」「KPI」「エビデンス」「ペンディング」——
正確で、スマートで、無駄のない言葉。
それが彼の武器だった。
だが、いつからか周囲は彼とあまり話さなくなった。
自分が話すたびに、空気がすっと冷えることがあるのを知っていた。
でも、相手が悪いのだと思っていた。
「理解力のないやつに合わせる必要はない」
彼はいつも、正しい言葉を選んできた。
——少なくとも、正しく“見える”言葉を。
***
ある日、会社の新人が小さな相談を持ちかけてきた。
言葉を選びながらも、必死に話そうとしていた。
けれど、彼はそれをさえぎって言った。
「それって、コミュニケーションエラーでしょ? 再整理してスプレッドに落として」
新人は「あ……はい」とだけ答えて去っていった。
言いたかったことは、伝わったのだろうか?
彼は気にしなかった。
そういうやり方で、これまでも回してきた。
そのとき——世界が、止まった。
周囲の音が消えた。
キーボードの打鍵音、エアコンの風、隣の誰かの声。
すべてが、凍りついた。
戸惑いながらも
彼は席を立ち、ふらふらとフロアを歩いた。
停止した時間の中でも、誰も彼に声をかけない。
会議室のホワイトボードに、彼の書いた文字列が残っていた。
「クイックウィンを目指してリード獲得を最適化する」
それは、誰にも届かなかった言葉。
フロアの片隅、停止したままの新人の机。
モニターには、送信されなかったチャットの下書きが表示されていた。
> 「……言葉の意味がわかりません。
バカですみません。
でもちゃんと、話したいのに。伝えられない。
怒られそうで、何も言えない。
今日も、本当はちょっと怖かったんです」
シンプルな言葉が、彼の胸に刺さる。
「……わかってなかったのは、俺の方だ」
言葉を操ることが上手くなったぶん、
誰かの不器用な声を聞き逃していた。
横文字で武装した自分は、
ただ相手の声を遮断していただけだった。
「わかりやすい言葉で、ちゃんと話そう」
胸の奥で、小さな誓いが芽生えた。
***
そうして
——世界が、動き出した。
エアコンの風が揺れ、誰かの咳払いが聞こえる。
彼は自席に戻り、さっきの新人の机をそっと見た。
そして、彼に、短く分かりやすくチャットを送った。
「さっきの件、ごめん。
もしよかったら、少し時間もらえる?
ちゃんと、聞かせてほしい」
すぐに既読がついた。
画面越しに、相手の息遣いが伝わった気がした。
言葉は、つなぐためにある。
飾るのでも、試すのでもない。
ようやくそれを、知った気がした。
——その日、世界は3分間だけ止まった。




