沈黙の芳香 (香る女)
鼻をつく香水の匂い。
彼女はいつも香りをまとっていた。
強烈に。強すぎるほどに。
すれ違った人が顔をしかめる。
しかし、本人は気づかない。
強すぎるその香りが、周囲の空気を塗りつぶしていることを。
彼女はいつも濃い化粧をしていた。
強く生きているように見せて、実は少しだけ怯えていた。
誰にも近づかせたくないのに、誰かに見つけてほしい。
そんな矛盾を、香りで隠していた。
***
駅の階段をのぼっていたときだった。
——世界が、止まった。
風が止み、雑踏の音が消えた。
周囲の人々は、まるで彫像のように静止した。
彼女は戸惑い、辺りを見回した。
とたんに、鼻をつく匂い。
自分自身の香りだった。
風も、人も、流れもないこの世界で
香りだけが、空気の中に滞留していた。
むせかえるような、強い香り。
「……くさい」
思わず口にして、彼女は鼻をおさえた。
自分のために纏っていたつもりが
誰かの顔をしかめさせていたことに、初めて気づいた。
***
ふいに思い出す。
中学の頃、部活をしていた。
強豪チームで、厳しい上下関係。
毎日、走って、怒鳴られて、耐える日々。
つらくても「大丈夫」と言いながら帰ってきた。
けれど、電車の中でこみあげる涙をこらえきれず
制服の袖でごしごし拭いた日もあった。
あの頃の自分は、汗くさくて、疲れていて、ボロボロで。
でも——
帰宅して玄関の扉を開けた瞬間、
ふわっと漂ってきた。
洗いたてのシーツの匂い。
部屋ある畳まれた洗濯物の匂い。
夕飯を作っている母の、あたたかい匂い。
「おかえり」
たったそれだけの言葉と、香りに
心がほどけた。
強い香りじゃなかった。
でも、自分が「ちゃんと帰ってきていい」と思える場所のにおいだった。
「……あれが、ほんとの安心だったんだ」
彼女は小さくつぶやいた。
***
——世界が、動き出した。
ざわめきが戻り、階段をのぼる足音が響きはじめた。
だが彼女は、すこし呼吸が楽になった気がした。
翌日から、彼女の香りは変わった。
清潔な石鹸のような、微かに花のにおいが混じったもの。
誰も気づかないほどに控えめな、それでいて、ほっとする匂い。
強さじゃなくて、温かさで思い出される人間になりたい。
そんなふうに思ったのかもしれない。
その3分間、彼女はただの女の子だった。
誰にも見せなかった、素顔のままの——。
——その日、世界は3分間だけ止まった。




