第一章 第五話 奇跡の声
オーブリー学長は、入学式でのアルフォンスの新入生代表挨拶が忘れられなかった。
このル・ノートル貴族学校の教師として勤務すること三十年、副学長を経て学長となって七年目になるが、なんの変哲もない定型文の新入生代表挨拶にあれほど聞き惚れたことも感じ入ったことも過去には無かった。自分が入学した時や、在校生代表として新入生を迎えた時も数えれば、今、学内でもっとも回数多く、新入生代表挨拶を聞いたのは自分だ。過去の幾多の入学式において、若い頃には多少、気を張って聞いていたかもしれないが、ベテランと呼ばれた頃には義務感で聞いていただけだったり、老いてからは初々しさを微笑ましく思ったりしながら聞いていた。どの時も、今年のように感動なんてしなかったし、一言一句が脳内によみがえるなんて、今まで経験が無いことだった。アルフォンスの声だけが、奇妙なほどに脳裡に鮮やかに反響して止むことがない。
ひとつだけ、心当たりがある。
歴史に名を残す名政治家や演説家、名俳優などにいたとされる、奇跡の声。
ダイヤモンド・ヴォイス。
それはアルファ一万人にひとりと言われる、奇跡の声である。声で人を魅了する。氏素性のわからない流れ者が、声だけで一国の王の心を魅了した、などは可愛いもので、凶悪な殺人鬼を声だけで投降させた、或いは選挙戦で、劣勢であったはずの野党の候補者を助っ人演説でみごと当選させてしまったなど、ダイヤモンド・ヴォイスの摩訶不思議な力は歴史上に散見される。人だけではない、動物さえも魅了した例がいくつかある。人を襲おうとしていた猛獣を声だけで制止した、など、眉唾だが真実だとされている。
もしかしたら、アルフォンス・ヴェルディエは、ダイヤモンド・ヴォイスの持ち主なのではないだろうか。入学式の日に、暴走した馬車を難なく鎮めたと、マクロン辺境伯がやや興奮した様子で語っていたのを思い出す。あのおだやかなマクロン辺境伯が、だ。
思い立ったら、矢も盾もたまらなくなった。
オーブリー学長は模範朗読と銘打って、一番下のイレヴンスのクラスで、アルフォンスに教科書のとある小説を朗読させてみた。ダイヤモンド・ヴォイスの実証実験だとは誰にも、担任教師にも明かさずにだ。
すると、二回目の定期試験の時に如実な結果があった。
イレヴンスの生徒の点数が驚異的に上がって、実に半数がテンスに昇格したのだ。よく調べてみると、アルフォンスが朗読した小説に関する設問で、正答率がものすごく高くなっている。同じ設問で、他のクラスの正答率はとりたててどうということは無かった。
もう一度、今度はシクススのクラスで、アルフォンスにとある論文を模範朗読させた。アルフォンスに申し訳ないと思いつつ、内緒でちゃっかり録音もした。直後の三度目の定期試験の結果が、やはりアルフォンスの朗読した論文からの設問で、シクススの生徒だけが驚異的な正答率を出し、三分の一がフィフスに上がった。
「やはり、間違いない! ダイヤモンド・ヴォイスだ!」
よもや自分が学長の座にある時代に、奇跡の声のアルファが現れるとは・・・! と、オーブリーは感激にうち震えた。
収まりがつかないのが、二回目の定期試験でテンスからイレヴンスに落ちた生徒、三回目の定期試験でフィフスからシクススに落ちた生徒である。
ジョフロワは、テンスからイレヴンスに落ちた。もちろん生徒たちも教師たちも、アルフォンスのダイヤモンド・ヴォイスなんて知らないから、なんで一部の生徒がいきなり好成績をたたき出したのかわからない。
しかし、偶然で済ますには不自然だったと不審に思った者が、ゼロではなかった。
シクススのクラス担任である教師は若い頃に声楽家を志していたので、ダイヤモンド・ヴォイスについて知識があった。模範朗読を聞いて、アルフォンスがダイヤモンド・ヴォイスなのではないかとすぐに察知したが、ファーストクラスの授業を受け持っていないので、アルフォンスと接点が無い。
声楽家を志していたけれど、彼は音楽の教師ではなくて物理学の教師である。一度、疑問を抱いたら、解明しなければ気が済まない。
アルフォンスの声には、最初から惹かれた。入学式での新入生代表挨拶は、本当にすばらしかった。単なる定型文なのに、天使の声のように綺麗で、聞き惚れて陶然となった。なんの変哲もない、お決まりの挨拶文が、有名な詩人の詩の朗読のように感動的で、一言一句、忘れないほどだった。
ベータであるマクシミリアンは、アルファにもオメガにも、恋はしない。それなのにアルフォンスの声には、強く惹かれた。一度読んだ本は全部暗記しているという頭脳に驚き、けれど垢抜けなくて天然でポヤポヤなアルフォンスを、ガブリエルと一緒に構い倒すのが楽しくて、これなら八年間、楽しく過ごせそうだと思った。アルフォンスを貶めようと陰湿な嫌がらせをしてくるジョフロワとその仲間達からアルフォンスを護るのは、騎士道精神が高揚する。・・・当のアルフォンスはポヤポヤしているから嫌がらせをされてもよくわかってないみたいだし、マクシミリアンやガブリエルがさりげなくガードしているのも、わかってないようなのだが。
ただ、ガブリエルが自分の身を挺してアルフォンスを護るのは、やめてほしいと思った。ガブリエルはオメガで、小柄で華奢だ。アルフォンスはアルファなのだから、本来ならガブリエルを護るべきなのに、ガブリエルに護られるなんて恥ずかしくないのかと、ちょっとだけ思う。まだ発現していないから、わかってないのかもしれないけれど。
アルフォンスがいない時にそれを指摘するとガブリエルは笑った。
「あっちが身分を笠に着てアルフォンスを害そうとしているなら、こっちも身分を使うよ。マクロン辺境伯子息である僕を害したら王都の物流が止まるって、わからないはずないよね?」
ましてやガブリエルはオメガで、貴族のアルファだったら絶対に、貴族のオメガを傷つけるなんてするはずがない。
しかし、ジョフロワやその仲間はベータなのだ。アルファのようにノブレス・オブリージュをきちんと理解している可能性は低いと、マクシミリアンは思う。
マクシミリアンは秘かに身体を鍛え始めた。自分はベータだけれど、アルフォンスだけではなくてガブリエルも護りたい。マクロン辺境伯の恩に報いるために。
二回でじゅうぶんだと思った。これ以上やったら、いくら何でもおかしいと思われるだろうと、オーブリーは思っていた。
しかし、シクススのクラス担任である物理学の教師が執拗に迫った。
三度目の模範朗読は、ナインスのクラスで行われた。
「またですか?」
とため息をつくアルフォンスは、顔色が悪く、なんだか具合が悪そうだった。
しかしその直後の試験結果にあまり変化が無かった。オーブリーはなにが違ったのだろうかと、こっそり録音保存しておいたアルフォンスの朗読を聞き比べてみた。その結果、試験結果に著しい変化があった時の朗読に比べて声に張りが無く、元気が無い気がした。
ダイヤモンド・ヴォイスに関する研究論文の中にあった一文を思い出す。ダイヤモンド・ヴォイスは、当事者が自分の声の威力を自覚していない場合、ある程度しっかり声を張って朗々と発音しなければ、その威力を発揮しない。当事者が自分の声の威力をきちんと理解して意図的に使う場合は、睦言や囁くような小声でも、その威力を発揮する。
アルフォンスは自身がダイヤモンド・ヴォイスであることを、自覚していないらしいのは、一目瞭然である。が、今回はそれだけが理由ではないだろう。アルフォンスの健康状態が悪かったのが、結果を左右したのだと思った。
アルフォンスは痩せていて、顔色が悪い。入学式の時はそんなにでもなかったと思うのだが、なんだかどんどん痩せて、やつれてしまったように見える。地方の出身だから、王都の喧噪に疲れてしまっているのだろうかと、オーブリーは心配した。
そんなある日。
一年ファーストクラスで、悲鳴があがった。
アルフォンスが倒れたという。救護室に運ばれたアルフォンスを、軽すぎる、痩せすぎだと、お姫様抱っこで運んできた教師は言った。
オーブリーは偶々手が空いていたので、自分がアルフォンスを病院に連れて行こうと申し出た。馬車を手配するように言いつけ、自分は病院から直帰するかもしれないからと手早く荷物をまとめた。
普通、もう老年の域にあるオーブリーが十二歳の少年を抱き上げるのは腰を痛める可能性があるかもしれない。しかしアルフォンスは、オーブリーでも抱き上げることができるほどに軽かった。この痩せ方は尋常ではない。案の定、病院では栄養失調、低血糖、貧血と言われ、すぐに点滴が始まった。
オーブリーはその夜、病院に泊まり込んだ。貴族学校学長ともあろう御方が、と病院側は驚いていたが、意に介さなかった。自宅から執事を呼んでくれるようにとだけ頼んで、アルフォンスの枕頭に座って動かず、汗を拭いてやったり掛け布団を直してやったりして世話を焼いていた。
三回目の模範朗読の時、具合が悪そうだった。あの時に無理をさせず、対処していればと、いたたまれない気持ちになった。慚愧に、身体が引き絞られるように感じた。
夜半、アルフォンスが目を覚ました。
「ここは・・・?」
「病院だよ。心配しなくていい、ゆっくり休むんだよ」
「・・・学長先生・・・?」
声は弱々しいけれど、意識ははっきりしてきているらしいので、訊いてみた。
「あの時・・・、三回目の模範朗読の時は、体調が悪かったのかい?」
「そういうわけではないのですが・・・」
アルフォンスは口ごもったけれど、辛抱強く促すオーブリー学長に、ついに口を割った。ペタン侯爵邸で無理な労働をさせられ、食事を与えられないこと。まともな食事は学校でのランチ一食であること。
「なんと・・・」
オーブリー学長は絶句した。その様子を見て、アルフォンスのほうが慌ててしまう。
「あ、でもっ、ご飯食べさせてくれる人もいるんですっ。いつもじゃないけど、ベルナデットさんとか、ジャンさんとかっ」
ベルナデットはわかる。幼女の頃から知っている。滅多にいない女性のアルファで、男装の麗人で、大公家の一人娘。いわくつきというならぶっちぎりでトップの曲者令嬢である。
「ジャンさんって、誰だね?」
「モーリスさんのチェス友達って言ってました」
正門の斜向かいのビストロの裏に住む退役軍人さんで、足が悪くてと説明するのを聞いて、今度訪れてみようと思ったオーブリーだった。
―――それにしても・・・―――
ペタン侯爵は在学中、優秀な生徒だった。一年休学して帝国に留学したくらい優秀だった。ただし、後から聞いたところによると、本を読むのはあまり好きではなかったという。試験の前に山を張る能力が妙に強くて、一夜漬けで高い成績が取れていた。それもまたアルファのひとつの能力なのだろう。
当時はまだ学長ではなく一介の教師だったオーブリーは、生徒だったペタンを憶えている。アルファとして、また卒業後は王家を支える忠実な家臣として、優れた人材だと思っていた。それが我が子可愛さに、優秀なアルファを貶めて虐げるなんてと、呆れて二の句が継げなかった。
オーブリーは一計を案じた。アルフォンスにポケットマネーで食事を摂らせることは簡単だが、それでは根本的な解決にはならない。学長がひとりの生徒を特別扱いしていると知られることは、好ましくない。ペタン侯爵邸でアルフォンスが普通に食事を摂れるようにしなければと、策を弄した。
まずはモーリスに案内してもらってジャンの家を訪れた。学長の来訪にジャンは驚いたが、話を聞いてもっと驚いた。モーリスもだ。制服の件は自分がマクロン辺境伯に頼んだし、制服あずけ場所としてジャンを紹介した。しかしまさか侯爵邸で冷遇されて食事を与えられないなんて、そこまで思い至らなかった。
「学内でのイジメや嫌がらせもあるようだ」
ジョフロワと親しいテンスやイレヴンスの生徒によって、アルフォンスが突き飛ばされたり教科書を隠されたりしているのは、オーブリーに報告が上がってきている。ただそれは、アルフォンスが鈍くておっとりしているからイジメられているとわかっていないようだし、ガブリエルとマクシミリアンがさりげなくガードしてくれているので、露骨におとなが介入しなくても大丈夫そうだと言う。そもそもアルフォンスは、階段から突き落とされても猫のようにくるんぱっと着地してしまうし、教科書の内容はもう既に全部暗記しているとのことで、教科書が無くてもあんまり困っていない。ジャンは言った。
「確かにぽやっとしてるって言うか、まだ乳離れしてねえ仔犬みてえで。妙に庇護欲かきたてられるんですよ」
生き馬の目を抜くような都会の荒波に揉まれてすれっからしてきた老人たちから見て、アルフォンスは純朴で、その無垢な魂を両手でふんわりと包んでやりたくなるのだ。
「本当にあの天然記念物が学年トップなんですかい?」
ジャンに問われて、オーブリーは苦笑する。学業だけではないのだ。ダイヤモンド・ヴォイスのことを話すと、モーリスとジャンは目を剥いた。
「本当ですか?」
「ああ、間違いないよ。すばらしい声なんだ」
アルフォンスの朗読を聞くだけで生徒たちは勉強しなくても教科書の内容がするすると頭に入って、成績がアップする、という実証実験の話を聞いて、モーリスもジャンも驚いた。ジャンは言った。
「前の戦争で・・・、ダイヤモンド・ヴォイスなんじゃねえかと思う指揮官がいましたよ。その指揮官の命令に従ってさえいれば、絶対に勝てる、生きて帰れるって思わせる指揮官がね」
もちろんアルファだったであろうその指揮官は、大きな戦果の立役者として讃えられた。しかし軍人恩給の大半を戦災孤児のための孤児院に寄付して、田舎にひっこんで晴耕雨読の日々をおくり、ひっそりと人生を終えた。アルファの鏡のような、高潔な人物だった。ペタン侯爵に爪の垢を煎じて飲ませてやりたいと、モーリスは毒づいた。
アルフォンス本人のあずかり知らぬところで、アルフォンスを見守り、陰から支える老人会が結成された。オーブリーは立場上、露骨にひとりの生徒を贔屓にはできないので裏から、ジャンは、オーブリーの弄した策が功を奏すまでの食事面で、そしてモーリスは正門だけではなく学内全体を歩き回って、おとなの目につかない場所で陰湿なイジメが行われないように巡回監視することになった。巡回のために広い校内を歩き回ることはモーリスのダイエットにもなって、古女房を喜ばせたのだった。
ここまでお読みいただき、どうもありがとうございました!




