第一部 第四話 食事と勉強
最初の定期試験の結果が出た。
一位はアルフォンス・ヴェルディエ、二位がガブリエル・マクロン、三位がベルナデット・フーリエ。マクシミリアンは十五位だった。
結果を見てほっとはしたものの、アルフォンスの顔色がよくない。マクシミリアンは気になって声をかけた。
「勉強しすぎじゃないかい? それとも寝不足か? 顔色が悪いし、なんだか痩せたように感じるのだが」
勉強のし過ぎでもなければ、寝不足でもない。アルフォンスは腹が減っているのだ。痩せたのだって食事が足らないからだ。十二歳の育ちざかりの身体が、一日一食でいいはずがないのだ。
食堂ではなりふりかまわずめいっぱいの大盛りにしてもらっている。痩せの大食いとか揶揄われても、侯爵邸でご飯を食べさせてもらえない以上、アルフォンスは必死だ。ランチだけで、詰め込める限界まで食べている。品が無いとか冷笑する輩がいることは知っているが、それで恥じたり躊躇している場合ではないのだ。
「腹へった・・・」
昨日のランチ以降、なにも食べていないのだ。空腹過ぎて、目が回りそうである。午前中はいつもだ。
生家では、食糧が無ければ狩りや釣りに行けばよかった。山鳥の二、三羽も仕留めるか、もしくは魚を二、三十匹も釣ってくれば、家族五人、腹いっぱい食べることができた。野菜は家の周りで育てていたし、ニワトリは毎朝いっぱい卵を産んでくれた。
王都では、わざわざ許可を申請して城壁の外まで出なければ狩りも釣りもできないらしい。生家だったら、家の前の坂を下れば魚影豊富なクーヴ川が流れているから、二時間も釣ったら食べ切れないほど魚が釣れたし、湖のほうまで足をのばせば苦も無く山鳥や兎を狩ることができた。アルフォンスは鹿肉のほうが好きだし鹿を一頭獲れれば保存食だって作れるから、本音を言えば鹿を狩りたい。でも鹿は、父や兄が一緒の時でなければ狩ってはいけないと言われていた。弓矢の腕だけで言うなら、ふたりの兄よりもアルフォンスのほうが精確なのに。そもそも鹿は狩れたとしてもひとりでは持ち帰れないから、仕方がなく兎や山鳥を狩っていた。
そんなふうに故郷のことを思い出して空腹を紛らわせていたのだが、鹿肉の味を思い出して余計に腹がへって、ぐうぐうと音がしてしまった。
ペタン侯爵が自分を疎んじているのはわかった。理由もわかった。侯爵令息であるジョフロワに忖度しないからだろう。しかし、学校という学びの場は切磋琢磨の場であって、幇間や腰巾着になる場ではないはずだ。上位貴族であるなら尚更、忖度されないからと言って仕返しに食事を抜くなどという稚気がましいことをして、恥ずかしくないのだろうかと思う。ちなみに、ジョフロワは下から二番目のテンスクラスである。どうやって忖度しろというのだろう。同じようにベータの、王都在住の上級貴族の子女たちと、この学校のやり方はおかしい、身分が上位の者がファーストクラスであるべきだ、なんで下級貴族や田舎者がファーストクラスで自分たちのような高貴な上級貴族の令息令嬢がテンスやイレヴンスなのかと不満をぶつけあっていると、クラスメイトが話していた。
生家の爵位も第二性もいっさい忖度無く、純粋に試験の結果だけで、クラスは決められるのであって、アルファだからとか上級貴族だからとか関係無いと、学長も担任も何度も言っているのに、彼らは理解できないらしい。そういう生徒はジョフロワと仲がいいようで、一緒になって睨みつけてくる。わざとぶつかってきたり、突き飛ばされたこともある。足を引っかけられそうになったり、階段から突き落とされそうになったこともある。避けたけど。
ファーストクラスやセカンドクラスに努力しているベータやオメガが普通にいるし、アルファだけれど努力をしない、或いは勉強が嫌いなのでシクススクラスやセヴンスクラスに在籍している者だって、普通にいる。テンスやイレヴンスにアルファがいるかどうかは、わからないが。
そんなことを話している声をぼんやりと聞きながら回廊を歩いていたら、誰かにぶつかりそうになった。
「危ないだろう」
凛とした声で言われて、ハッとして前を見る。と、そこにいたのは、クラスメイトの中でもとびぬけて華やかな空気を纏って光り輝いている貴公子?だった。入学式の時も、それからつい先日の第一回定期試験でも、確か得点順で三番目だった記憶がある生徒だ。
アルフォンスは、あまり近寄らないように、視界に入らないようにしていた。何故なら、射るような眼差しに強い圧があってそれだけでも目映くて上位のアルファだとわかるのに、この生徒は田舎者であるアルフォンスの理解の範の外にいる存在なのだ。どのように理解できないかというと、御令嬢であるはずなのに男子生徒の制服を身に着けている、つまり、男装しているのである。ド田舎である生まれ故郷では考えられない、ありえないことだ。
だがしかし、男子生徒に交じっていても堂々と落ち着き払っていて、御令嬢のはずなのに貴公子たる品格がにじみ出ている。話し方も立ち居振る舞いも完璧に貴公子で、実際、女子生徒やオメガ男性が目をハートにしてうっとりと見つめていたりして、身分もそれからアルファとしても、やんごとなき際にあられる存在らしい。
そのベルナデット嬢が、目の前にいるのだ。アルフォンスは心臓が跳ね上がった。
「申し訳ありません、ぼーっとしておりました・・・」
「どこか具合が悪いのかい?」
身長は、ほぼ同じだろうか。華やかな美貌の貴公子(にしか見えない御令嬢)に心配そうに見つめられて、アルフォンスは戸惑った。が、そんなアルフォンスを嘲笑うかのように、空きっ腹がぐ、ぐうう、と間抜けな音をたてた。
「今の音、なんだ???」
高貴な身分の方は、空腹だと音がするなんて知らないのだろう。ベルナデットは目をまんまるにして問う。
「も、もうしわけありません、お腹が空いて・・・」
しどろもどろになりながら、空腹だとお腹の中からああいう音がするのだと説明すると、ベルナデットはさらに不思議そうに問い詰めてくる。
「なんでそんなに空腹なんだ? 朝食を食べそこねたのか?」
「あー、まあ、そうですね」
食べそこねたのではない、食べられないように仕組まれている。
侯爵邸でアルフォンスは、これから八年間、住まわせてやる見返りとして労働を命じられた。もちろん嫌がらせなので、普通の十二歳にはこなせないような仕事内容と量だ。
だがしかし、故郷では日の出よりも前から起きて家畜の世話をしていたアルフォンスは、早起きは苦にならない。暗いうちから起きてさっさと割り当てられた労働をこなし、学校に行く準備をする。
侯爵邸では、主人一家が食事を終えるまで使用人たちは食事を摂ることを許されない。侯爵の家族も使用人一同も、アルフォンスの生家のように早起きではないので、侯爵の家族一同が朝食を終えるのを待ってから朝食を摂っていたら、学校に間に合わない。
ジョフロワは侯爵家の馬車で登校するが、アルフォンスは乗せてもらえないので、走って登校しなければならない。その点では、モーリスが話をつけてくれたジャンの家で着替えさせてもらえるのは都合がよかった。貴族学校の生徒が制服で往来を走っていたら、目立つことこの上ない。結果、アルフォンスは毎朝けっこうな労働をこなすのに朝食抜きで、走って登校しているのだった。モーリスもまさかそんなことまでは知らず、ジャンの家で制服に着替えて登校してくるアルフォンスを正門で迎えるが、その腹が空っぽだなんて知る由もない。生徒も職員も、時間差はあれ昼食は、無料で食堂で食べることができるが、その昼食がアルフォンスの一日で唯一の食事だなんて、誰も知らない。
そんなわけでアルフォンスは、いつも腹が減っている。なんなら顔も痩せて窶れて、とても血色が悪い。ベルナデットはその青い顔をじっと見て、言った。
「ちょっと来い」
ベルナデットはアルフォンスを、人気の無い教室に引きずり込んだ。
「影。いるか?」
ベルナデットが空間に声をかけると、はい、と返事があって、メイドがシュッと現れた。え、ここ学校なのに? というアルフォンスの驚きや疑問は、まるっと無視だ。
「お呼びでしょうか、お嬢様」
「こいつに何か喰わせてやってくれ」
「かしこまりました」
いったいどこから取り出したのやら、三段のケーキスタンドがさっと出て来た。セイボリー、スコーン、ペストリー、どれも美味しそうだ。一瞬で茶器が並び、紅茶が注がれる。本当にどこから取り出したのやら魔法のようだ。
「早く喰え、次の授業が始まるだろう」
急かされて慌てて、セイボリーをいただいた。熱すぎないお茶でせっせと流し込むアルフォンスを横に、ベルナデットは優雅な手つきで、華奢なティーカップを口に運んでいる。
五分でスコーンもペストリーも腹に納めたアルフォンスは、深々と頭を下げた。
「ものすごく美味しかったです。どうもありがとうございました」
「礼には及ばないよ」
貴公子にしか見えないお嬢様は、悠然と微笑んだ。
「腹が減っては戦はできぬと、古来言うだろう? 万全の状態のきみでなければ、戦う意味が無いからな」
次の定期試験では首位を奪わせてもらうよ、と不敵に笑うベルナデットは、どんな貴公子よりも凛々しく男前で美しいのだった。
「アルフォンスはどんなふうに勉強していたの?」
ガブリエルに問われて、アルフォンスは目をぱちくりさせた。見上げてくるガブリエルが可愛くて、一瞬、返事が遅れた。
「どんなふうに・・・?」
実はアルフォンスは、自分がものすごく勉強した、という自覚がまったく無い。
アルフォンスには特技がある。・・・自身ではそれを特技だと自覚していないのだが。
一度読んだ文章は完璧に暗記して忘れないことだ。特に音読すると完璧だ。幼少期に読んだ絵本から、数年前に読んだ小説まで、全部暗記している。だから勉強は、教科書を読めば全部わかる。
アルフォンス自身は、それを特別なことだとは、全然思っていない。誰でも普通にできる、めずらしくもないことだと気にも留めていなかった。
それと。
「あのさ、俺の・・・、んん、僕の生家って、ものすごく古いんだ。ド田舎の山の中にあるから、先の戦争でも焼かれなかった。王都でよく見る煉瓦とはちがう、石の建材でできてて・・・」
「うん」
「だからなんか古~い本がいっぱいあるんだよ。前の王朝よりもっと以前の頃からの古い文献とか? それを読んでいたんだ。勉強っていうつもりは無くて、田舎だから王都みたいな図書館も無いから退屈しのぎに」
アルフォンスは家にあった膨大な本や文献、手書きの散文や製本されていない紙の束を読んで育った。しかもそれを全部憶えている。かなり難しく、古語で書かれたものも多かったが、音読すれば丸暗記できるから、後になって意味を調べればよかった。
だから全然、勉強なんていうほどのことはしなかった、というアルフォンスに、入学試験で四位だったシリルが問う。この生徒はアルファだ。
「家庭教師はいたんだろ?」
「いなかったよ。でも兄がふたりいるから、わからないことがあったら兄に教えてもらってたんだ」
しかし、兄ふたりはベータだし、父の仕事を手伝わなければならなかったから、アルフォンスに勉強を教える時間はどんどん減っていった。
「古い本って、どんなの?」
五位だったダミアンが問う。この生徒はベータ。
「図書室にあるかもよ?」
七位でアルファのパスカルが言う。そこでみんなで、図書室に行ってみた。ぐるぐると書架の間を歩き回って、たどり着いたのは、生徒が気軽に閲覧できる普通の本がある場所ではなくて、古い文献が並ぶ本棚の前。
「ああ、これとかこれなら、うちにあったかな。あ、これも」
アルフォンスがそう言って次々に指さした本は、貸出禁止のものや、閲覧するためには司書に頼んで鍵を開けて出してもらわなければならない本。
「え? これって、前の王朝よりも前の時代の本じゃない?」
「こんなの読める?」
読めるか読めないかよりも以前に、普通の家にはこんな本は無いはずだ。
「憶えているよ」
アルフォンスが暗唱を始める。が、その本は鍵のかかったケースの中にあるので、誰も中身を見ることができない。
「その本に触るんじゃないっ!」
きつい声をあげて、司書がすっ飛んできた。
「触ってません」
実際、鍵がかかっているのだし、本を取り出すことはできない。
「しかし今、誰か音読しただろう!」
音読したということは、鍵を壊して本を手に取って読んだのだろうと司書は決めつけるが、誰も鍵を壊すなんてしないし、本に触ってもいない。
「音読じゃなくて暗唱しただけです」
その本は家にあるので、子どもの頃に読んだことがあるんです、というアルフォンスを、司書は胡散臭げに見た。
「そんなはずはない! これはもうここと王立図書館にしか残されていない原書だぞ。普通の家にあるはずないだろう!」
「うちにはあったんです。書き写したものかもしれませんけど。あと、あれとこれとそれと、あれもありました」
「ねえ、さっきお兄さんに勉強教えてもらったって、言ってたよね? お兄さん達も、こういう古い本読めるの?」
「読めるよ」
だってアルフォンスの生まれ育った環境では、新しい本なんて手に入らなかったし、古い本を読むか、狩りや釣りに行くくらいしか、子どもの娯楽が無かったのだ。
古すぎて重要文化財のような古書や歴史書の類を、生徒達はぽかんと口を開けて見回す。
「あれは、どんな内容?」
ガブリエルが指したのは、前王朝の時代の小説だが、あまり有名ではないものだ。
「あれはね・・・」
アルフォンスはもっと人が来たら嫌だと思って、さっきよりも声を抑えて暗唱した。一分もしないうちに、さっきまで真っ赤だった司書の顔が、紙のように白くなった。
「待て! ・・・きっ、きみはまさか・・・、この本を全部暗唱できると?!」
「家にあった本ならほとんどできますよ?」
一回読んだ本なら憶えてるのは普通でしょう? とアルフォンスが言うのを、ガブリエルが苦笑しながら首を振って言った。
「アルフォンス。普通は一回や二回読んだだけでは全文暗記なんてできないよ?」
「そうなの?」
きょとんとしているアルフォンスに、ベータの生徒たちは唖然とする。アルフォンスの態度では、アルファだったらできて当然、と言ってしまっているようなもので、アルファの生徒は闘志を燃やす。
ガブリエルだけが、毅然とした顔で司書を見る。・・・少女のようにかわいらしいので、ちっとも毅然としているように見えないのだが。
「鍵は壊してないですし、この本を勝手に手に取ったという疑惑は撤回してくださいますね?」
硬い声で言われて、司書はガブリエルをマジマジと見て、それからアルフォンスを見た。覚束ない手つきでガラスケースを触る。開かない。確かに鍵がかかったまま、どうやっても本は取り出せない。取り出した形跡もない。もしも指紋を採取したとしても、アルフォンスの指紋はきっと無い。あるのは自分の指紋だけなのだろうと司書は思った。
「最高得点合格者を犯罪者呼ばわりするんだったら、僕はこの図書室には真実を見ることができない嘘つき司書がいる、って訴えますよ」
可愛い顔できっぱりと言うガブリエルに、アルフォンスのほうが慌ててしまう。
しかし司書はあっさり頭を下げた。
「すまなかった。てっきり鍵を壊したのかと慌ててしまった。疑って申し訳無かった」
ピカピカの一年生達にきっちりと頭を下げ、しかし次には司書の顔にもどって言った。
「家にある本は、本物ではないのかもしれないのかな?」
「おそらく。だってそんなめずらしい本がうちなんかにいっぱいあったらおかしいですよね?」
「そんなにいっぱい本があるなんて、羨ましいな。全部暗記しているのかい?」
「たぶん・・・」
「もしよかったら、憶えているものだけでいいから、書名を教えてくれるかな?」
「はい」
アルフォンスはすらすらと本のタイトルを言い始める。司書はぎょっとして遮った。
「待って! 待って! 今じゃなくて後で時間作るからっ!」
今この場で言われたって憶えられないよ、時間作って書き取るから、という司書に、アルフォンスはわかりました、と言う。アルフォンスにしてみれば、本のタイトルの百や二百、聞けばその場で憶えて当然だったが、どうやら他の人にとってはそうではないらしい。
―――司書さんはきっと、千も万もタイトルを憶えてるから、混乱しちゃうんだろうな・・・―――
勝手にそう思うアルフォンスだった。
「教室にもどらないと、次の授業が始まっちゃうよ」
シリルが言って、生徒達は急いで図書室を出て行く。司書はその背中を見送って、もう一度、本のケースの鍵を確かめた。
「嘘だろ・・・?」
ケースの中の本は、どれも貴重な古書や原書、絶版になったものや、滅んでしまった国から運ばれてきたものもある。さっきアルフォンスが口にしたタイトルのひとつは、かつて敵性国家だった国の本で、我が国では発禁指定のはず。そんな本が、たとえ書写本でも、一個人の家になんて、あるはずがない。
教室までもどる途中、階段の下でマクシミリアンが一緒になって、階段を上った。上まで着いたその時、アルフォンスは横から来た見知らぬ生徒に不自然にぶつかられた。マクシミリアンがとっさに支えてくれなければ、階段から落ちるところだった。
ぶつかった生徒は、舌打ちしながら去っていった。たしかイレヴンスクラスの生徒で、ジョフロワと仲がいい、侯爵家令息。
アルフォンスは気づかなかったが、マクシミリアンとガブリエルは、その生徒を即座に覚え、要注意人物だと認定した。ふたりが敵認定した上位貴族の生徒は、既に三名ほどいる。どの生徒もジョフロワと仲がいい、上位貴族の子息でテンスやイレヴンスの生徒だ。アルフォンスを攻撃している暇があったら、もっと勉強すればいいのに、と、マクシミリアンは思った。
貴族学校図書室の司書、セドリックは、今日の出来事をただちに学長に報告した。鍵のかかったケースの中の貴重な本を、いきなり内容を暗唱した生徒がいたこと、その生徒の家にはその本の書写本があるらしいこと。
「その生徒とは?」
「新入生代表挨拶をしていた生徒です」
「ふむ」
それは興味深いね、と穏やかに笑ったオーブリー学長は、眼鏡の奥の目を光らせた。
ガブリエルはすごいな、とアルフォンスは思った。ファーストクラスにたったひとりのオメガ。少女のように可愛い顔で、努力してる様子なんて微塵も感じさせないけれど、おそらくものすごく努力しているはずだし、負けず嫌いなのだろうに、それを感じさせない。いつも明るくて、愛らしい。男に愛らしいなんて言ったら怒るのだろうけれど、実際に可愛くて愛らしいのだから、仕方ない。
そのガブリエルがあんなふうにきつい言い方で、司書に謝罪を要求したことに、とても驚いた。それも自分にではなくて、アルフォンスに謝れと、毅然と言った様子に、驚くと同時に、なんだかドキドキした。嬉しいというほど具体的ではないけれど、こころをぎゅっと掴まれてその指の間からジュワッと果汁が絞られたような、あまずっぱさにキュンとなった。
ペタン侯爵領の水害の後始末や復旧は、数か月に及んだ。ペタンがやっと、王都にもどってきた時には、貴族学校で既に三度、定期試験があって、入学時にテンスクラスだった息子は最下位のクラスであるイレヴンスに落ちていた。最高得点で入学したアルフォンスは定期試験でも一位をキープしていると聞いて、いまいましさに立腹した。さらには、アルフォンスの制服の代金がペタンに請求されていて、家宰が勝手に支払いを済ませていたと聞いてますます激昂したが、アルフォンスの制服代含む入学準備金をペタンが受け取ったのは確かだし、ジョフロワがサインした正式な書類があったという。ジョフロワを呼び出して怒鳴りつけた。
「さっさと退学届けを出して田舎に帰るように説得しておけと言ったのに、なにをしていた?! あんな田舎者が学年一位だなんて、おかしいと思わないのか?! そもそもなんでうちがあいつの制服の金を払わなければならないんだ!」
怒鳴りつけられて、ジョフロワはふてくされる。制服の件だって、マクロン辺境伯にサインしろと言われて逆らえなかったのだから、自分のせいにされても困ると、ジョフロワは思った。アルフォンスの成績がいいと自分が怒鳴りつけられるなんて、まったくもって納得がいかない。説得なんてやり方を知らないから、アルフォンスが食事を食べられないようにわざと山のように雑用をさせたり、登下校の馬車に乗せないなどの嫌がらせをしても、あの田舎者は侯爵邸を出て行かないし、退学届けを出す様子も無い。ファーストクラスの優秀な生徒たちに囲まれ、たいして勉強している様子も無いのに定期試験でトップに君臨している。田舎者のくせに、貧乏人のくせに。
父親はアルファなのに自分はベータであるジョフロワは、アルフォンスがいまいましくて、憎らしくて仕方がない。どうして自分はアルファに生まれなかったのか。
第二性は遺伝ではない。王家にはなにか特殊な遺伝があるのか、王族の男子は総じてアルファだけれど、貴族は例え筆頭公爵でも、親がアルファで子どもがベータだったりオメガだったり、逆に親がベータで子どもがアルファだったり、規則性は全く無い。平民もそうである。唯一、『運命のつがい』と呼ばれるアルファとオメガの組み合わせからは、九十九パーセントの確率でアルファが生まれると言われている。だから運命のつがいを探し出そうと、国中のオメガを召し出した国王や、即位する前に世界中を旅してまわった国王なども、歴史上にはいたらしい。
それはさておき。
田舎者のくせに、下級貴族で農民と同じような野卑な生い立ちのくせに、なんであんな奴がアルファなのか。なんとかしてアルフォンスを学校から、家から、この王都から追い出したい。ジョフロワの肚の底に、仄暗い憎しみが渦を巻いた。
ペタン侯爵邸から学校まで、最初はきちんと道を走っていたが、それでは時間の無駄だと判断したアルフォンスは、最短距離を行くことにした。生まれ故郷では木に登ったり崖を駆け上ったり駆け下りたり、岩から岩に飛んで川を渡ったりしていたから、細い場所や高い場所を走ったり、建物から建物へ飛び移ったりはお手のものだ。バランス感覚や身体能力が尋常ではなく発達している。
後の世にパルクールという競技になる身体の動かし方を、アルフォンスは育ってきた故郷の環境で自然に身に付けている。普通の人間が一メートルしか飛べないような軽い踏み込み方で、五メートルを飛べる。本気で飛べば、距離も高さも十メートル以上飛べる。普通の人間が五分かかる距離を、一分で走れる。意識したことは無かったが、アルファであると診断されるより前、幼少時から無意識のうちにその能力を鍛え上げてきていた。これでアルファを発現したら身体能力はさらに跳ね上がるのだが、アルフォンスは知らない。
屋根裏部屋からわざわざ一階まで下りて使用人用の裏口から出るのではなく、屋根裏部屋の天窓から外に出て屋根の上を走り、建物から建物へ飛び移って走って行ったほうが、はるかに短時間でジャンの住むアパルトマンまで行ける。馬車や歩行者でごった返す道路よりも断然走りやすい。この街の建物はだいたい三階から七階建てで、密集しているので、飛び移るのも容易だ。道路を歩く人達は上なんか見ないから、屋根の上を走っているアルフォンスに気づく人はいない。
屋根から外階段を駆け下りて、ジャンの家のドアを開ける。
「おはようございます」
「おはよう」
挨拶した直後、ぐう~・・・、と腹が間抜けな音を立てた。ジャンが笑う。
「なんだ、朝飯を喰ってこなかったのか」
肯く。今日だけじゃない、いつも食べさせてもらえないのだ、とは言えないが。
「おいで」
ジャンは片足が不自由なので、アパルトマンの一階の裏側半分を自宅にして、通りに面している表側半分と二階をビストロにしている。六階まである三階以上を賃貸物件として貸し出している。つまりジャンはこのアパルトマンのオーナーである。ビストロも、経営しているのはオーナーシェフのピエールだけれど物件のオーナーはジャンである。男の一人暮らしだし片足が不自由なので家事や炊事がとにかく億劫で、食事をビストロで出してもらうかわりに、相場よりもかなり安く貸しているのだそうだ。朝の仕込みをしているピエールに頼んで、簡単な食事を出してもらってくれた。十二歳の身体は、空腹には勝てない。ありがたくいただいて、大急ぎで制服に着替えて外に飛び出し、モーリスが立っている正門を駆け抜ける。
しかしジャンも毎朝毎朝融通してくれるわけではない。だってアルフォンスが毎朝食事を与えてもらえないなんて、知るはずもないのだから。
ここまでお読みいただき、どうもありがとうございました。




