第一部 第三話 冷たい人、親切な人
ペタン侯爵家と自分の生家であるヴェルディエ子爵家がどのような関係であるのか、まだ十二歳のアルフォンスはよくわからない。血縁ではないらしい。曾祖父の曾祖父とかそのくらい昔に、なにか縁があった、というような朧げなものだ。それでも、他に王都に知り合いなんかいなかったから、ものすごく緊張しながら侯爵邸を訪ね、父からの手紙を差し出した。読んだペタン侯爵は、客人というほどの歓待はしないがいいかね? というから、はい、と答えた。
まともなおとなだったら、子どもが地方からひとりではるばる旅をしてきたことをいたわるとかねぎらうものだろう。しかしペタン侯爵は淡々と家宰に指示して、空いている使用人用の部屋に案内させただけだった。田舎の貧乏貴族とはいえ一応は子爵家の子息を、使用人用の屋根裏部屋に。だから家宰は最初、下働きかもしくは小間使いでも雇ったのかと思ったらしい。それがぼっちゃまと一緒に貴族学校の入学試験を受けるのだと当日の朝になって知って、唖然として主人の顔を見てしまったと、後になって言っていた。
最初はかろうじて普通だったペタン侯爵の態度が、アルフォンスが入学試験で最高得点だと知った直後から冷淡を通り越して冷酷と言っていいほどになったことに、アルフォンスは戸惑った。
入学試験が最高得点だったことに一番驚いたのはアルフォンスで、得点表に付けられた金色の印と、入学料授業料全額免除という大きな印章や新入生代表として入学式で壇上に上がって挨拶をするように、という通知にも驚いて、途方に暮れた。だから助言をもらいたかったのに、ペタン侯爵は助言をくれるどころかアルフォンスとしゃべろうともしなくなった。まるで最初からアルフォンスなんていなかったものであるかのようだった。合格発表を見て書類を受け取った後、ジョフロワだけ連れてアルフォンスを置き去りにしてさっさと帰って行ってしまった時には、唖然とした。幸い? アルフォンスは方向感覚が優れているし健脚だから侯爵邸まで歩いて帰ったけれど、お帰りと言ってくれたのは馬に関する話で仲良くなった馬屋番のルイだけだった。
出て行けとまでは言われないにしても、この家から通学する場合、生活費を払うか使用人として働けと、主からの伝言です、と家宰に言われ、途方に暮れた。
制服を用意しなければならないはずなのに放置されて、これから八年間、ペタン侯爵家にお世話になって貴族学校に通えるのだろうかと不安になった。父や母は、ペタン侯爵は立派な方だから王都での生活の面倒を看てくれるから、と言っていたのに、どうしてこんなに冷淡にされるのか、アルフォンスはわけがわからない。
家宰に仕事を割り当ててもらって、掃除やルイを手伝って馬の世話などをした。庭掃除をし、花の手入れをした。故郷で牛や羊や豚や、畑の野菜の世話をしていたから苦ではないけれど、自分は馬の世話や下働きをするために王都に出て来たわけではないはずなのにと、気分は重かった。花なんていくら手入れをしたって食べられるわけではない。高価な肥料を土に混ぜ込むなら、花なんかじゃなくて野菜を育てればいいのにと思った。
結局、入学式まで侯爵からはなんの音沙汰も無かったし、入学式直前に侯爵領で大きな水害があったとかで、侯爵は領地に行ってしまった。そして入学式当日も、ジョフロワはさっさとひとりで馬車に乗って登校してしまったから、アルフォンスは慌てて着古した私服のままで、学校まで走って行った。
貴族学校の正門を入ろうとしたら、守衛のひとに取り押さえられてしまった。入学生です、と言っても信じてもらえなかったので、得点表や合格証、書類一式を全部見せた。なんで制服を着ていないのかと訊かれても、アルフォンスだってわからない。ペタン侯爵がどうして制服を作る手続きをしてくれなかったのか、十二歳の子どもにわかるわけがない。
田舎で育った上にアルファのアルフォンスは、足がものすごく速い。先に馬車で出発したはずのジョフロワを追い抜いたらしい。もっともジョフロワは、アルフォンスがいつ、侯爵邸を出発したかなど考えもしなかっただろう。学校に来るとすら思ってなかったアルフォンスが着古した私服で正門横でモーリスと一緒に途方に暮れているのを見て一瞬、顔をしかめたが、真新しい制服をこれ見よがしに翻して、入学式の受付のほうへ歩いていった。正門守衛であるモーリスはそれで、アルフォンスが冷遇されていると理解したらしい。
捨てる神あれば拾う神あり、という。
アルフォンスを助けてくれたのは、マクロン辺境伯という御方だった。モーリスが口添えしてくれた。マクロン辺境伯は、愚息が入学するからはるばる地方から出てきたのだよ、同じ田舎者同士、仲良くしようじゃないかとあたたかい笑みで言って、御令息のガブリエルと引き合わせてくださった。全然田舎者には見えない洗練された立派な紳士とたおやかな若き貴公子だった。
貴公子はもうひとりいた。ガブリエルの幼馴染みの、マクシミリアンだ。
マクロンは最初、ガブリエルの制服を貸してくれようとしたけれど、ガブリエルは細身で小柄で、アルフォンスはガブリエルの制服を着るのは無理だった。するとマクシミリアンが、自分の制服を貸すと言ってくれた。マクシミリアンのほうがガブリエルよりも大きくて、アルフォンスとだいたい同じくらいの体格だ。寮の自分の部屋まで走って行って、自分の制服の予備を取ってきてくれた。しかしシャツやトラウザーズは予備があるけれど、テイルコートは複数無くて、マクシミリアンはテイルコートをアルフォンスに貸してしまって、自分はシャツにウエストコートで入学式に臨んだのだった。自分は新入生代表でもないし、得点高位で先頭に並ぶわけでもないから、テイルコートを着用しなくても大丈夫だよと笑う。その動じないおおらかさに、アルフォンスは感動してしまった。
マクシミリアンが制服を取りに行っている間に、ガブリエルが髪を整えてくれた。なんだかいい匂いがする小さな手でアルフォンスの髪を撫で、櫛を器用に使って、ガブリエルが撫でつけると、洗いざらしのぼさぼさの髪が魔法でもかけられたかのように見違えるほど艶やかになって、しっとりと纏まった。そのことにアルフォンスは驚いたけれど、ガブリエルの少女のように可愛らしい美貌に見惚れて、自分の髪に驚くのはその後になった。
そんなアルフォンスを見て、ガブリエルはくすりと笑った。めちゃくちゃ可愛い顔で。
「挨拶がまだだったね。僕はガブリエル・マクロン。よろしく」
マクシミリアンが制服を持ってもどってきたので、着替えてタイを締めてテイルコートを纏って、入学式の会場に入ったら、今度はマクロン辺境伯に、学長のところに連れて行かれた。新入生入場や開会式辞の間に新入生代表挨拶についての手順などを指導された。新入生入場の先頭に立つはずだった件については、入学試験で二番目の得点だったガブリエルが代わりに立つから、新入生代表挨拶を全力で務めるようにと言われ、そのようにした。流暢というほどではなかったかもしれないがつっかえも間違えもどもりもせず、付け焼刃にしては堂々と朗々と新入生代表挨拶を完遂すると、万雷の拍手が起こった上に入学式が終わってから大勢に囲まれた。
アルフォンス自身はまったくわかっていないが、アルフォンスの声には、アルファでも一部の者にしかない特別な力がある。歴史に名を残す名政治家や民衆を強く惹きつける名演説家に、その力の持ち主がいたとされる。ダイヤモンド・ヴォイスとか、プラチナ・ヴォイスと呼ばれるそれは、アルファ一万人の中にひとり、いるかいないかという稀少な能力である。が、アルフォンス自身は自分の声がダイヤモンド・ヴォイスだなんてわかっていないし、その場にいた新入生一同も、教師や列席した保護者たちも、まだ気づかなかった。気づかないまま既に魅了されているのだが、魅了されているということすら気づいていない。
入学式が終わってマクシミリアンに制服を返し、ペタン侯爵邸に帰ると、ジョフロワに怒鳴りつけられた。
「お前! どうやってマクロン辺境伯に取り入ったんだよっ?! お前みたいな田舎者が貴族学校に入ったら迷惑だって父上が言っているぞ! さっさと入学辞退して田舎に帰れよ!」
怒鳴られてやっと、侯爵やジョフロワはアルフォンスを貴族学校に通わせたくなかったのだとわかったけれど、もう入学式が終わって正式に貴族学校の生徒になったのに、どうしてもっと早く入学するなと言わなかったのだろうと思う。ガブリエルやマクシミリアンから、明日、ゆっくり話そう、いい友情をはぐくみ、実りある学生生活を共にしようと言われた。他にも同じクラスになった人たちから、実にすばらしい代表挨拶だったと称賛され、是非とも友達になってほしいと言われた。だから頑張って、八年間しっかり勉強しようと決意をかためたのに、なんで今になって入学辞退しろなどと言うのか。
故郷で、条令に従って十二歳の誕生日にバース診断を受けて、アルファだとわかって、入学試験を受けるようにという王政府から命令が来たから、はるばる王都まで出てきて入学試験を受けたのだ。でももし貴族学校の入学試験なんか受けなくてもいいのだったら、そんなもののためにわざわざ王都までなんて来なかった。アルフォンス本人は貴族学校に入りたいなんて微塵も思っていなかったのだから。もっと早く、王都に出て来るよりも前に、王政府の通達を無視しても罰せられないのだ、とか、貴族学校の入学試験を受けなくていいのだと言ってくれればよかったのに。
この世界には男女という性別の他に、第二性というものがある。
アルファは、知力体力ともに優れ、人の上に立つ能力が高いとされる。全人口の一割から二割ほどだが、そのほとんどは第一性が男性で、女性のアルファは百人から二百人にひとりだ。七割を占めるベータは標準的で、そして一割弱のオメガは、三か月に一度、ヒートと呼ばれる発情期があって、男性でも妊娠出産が可能な性だ。かつては差別されていたが、今はそれほどでもない。差別は完全には無くならないが、子どもを産ませるための道具として家畜や奴隷のように扱われていたのは、遠い昔だ。
今、この国では、貴族平民問わず十二歳の誕生日に、バース診断を受けることが法令で決められている。そして貴族の子女はアルファであった場合、貴族学校の入学試験を受けることが義務付けられている。優秀なアルファを王政府に登用したいという国王の意向があったからだ。
アルファは単に優秀であるだけでなく、時に特殊な能力を持っているケースがある。ダイヤモンド・アイと言われる威圧のための特別な眼力や、ダイヤモンド・ヴォイスと呼ばれる特別な声だ。ダイヤモンド・アイはアルファ十人から百人にひとり程度いるとされ、貴重ではあるがものすごくめずらしいというほどではない。強弱の差が大きく、弱いものは相手を射竦める程度だが、強い者になると物理的なダメージを与えることがある。
いっぽうのダイヤモンド・ヴォイスは、アルファ一万人にひとりと言われ、伝説級に特異な能力である。その声は聞いた者を魅了し、惹きつけてやまず、話した内容が脳の深淵に刻まれて忘れられなくなる。一度でも聞いたら忘れることができないほどに甘美で、脳内再生しただけで多幸感にみたされる奇跡の声。
アルフォンスの声がダイヤモンド・ヴォイスであるとまだ誰も知らない。アルフォンス自身もわかっていない。
入学式翌日もまた、ジョフロワはアルフォンスを無視してひとりで馬車で登校して行ったので、アルフォンスはまた走って登校した。
昨日と同じように正門でモーリスに呼び止められたが、昨日とは呼び止めた理由が違う。
「おいで」
言われて正門脇の守衛事務所に入ると、大きな箱を渡される。中には真新しい制服が入っていた。
「着替えなさい」
モーリスに言われて、事務所の片隅で着替える。
「マクロン辺境伯とオーブリー学長が手を回してくれてね。仕立て屋が徹夜で仕上げたそうだよ」
モーリスに教えられて、仕立て屋さんに心の中で感謝の言葉を述べる。
昨日はマクシミリアンが教えてくれたけれど、自分でやるのは難しくてタイを結ぶのに四苦八苦しているアルフォンスに、モーリスは言う。
「ペタン侯爵はお戻りになったかい?」
「いいえ、まだです」
帰って来たら、なんて言うだろう。ジョフロワのように、退学してさっさと田舎に帰れと言うのだろうか。この制服も、取り上げられてしまうのだろうかと不安になる。
正門から生徒用昇降口への途中で、寮から出て来る生徒たちの流れと合流する。
「おはよう」
真っ先に声をかけてきてくれたのは、ガブリエルだ。少女のように可愛い顔でおはようと言われると、なんだか高揚してしまう。
「おはよう、昨日はいろいろとありがとう!」
アルフォンスが昨日の礼を言って深々と頭を下げると、ガブリエルは嬉しそうに笑って言った。
「制服、届いたんだね!」
「うん。モーリスさんが・・・」
「誰?」
「正門の、守衛さん」
「ああ、父にきみのことを言っていた・・・。きみはあの人の親族なの?」
「違うけど・・・」
昨日の入学式に私服で来て正門で捕まった経緯を話すと、ガブリエルは瞠目して、それから笑った。少女のように可愛らしい美少年が破顔しているので、自然に周囲に人が集まって、入学試験ワンツーフィニッシュのアルフォンスとガブリエルは、あっという間に大勢に囲まれ、友達になってほしいとか八年間よろしくとか、猛勉強して君たちを追い抜くことを目標にするよ、などと言われた。
ワンツーフィニッシュのふたりはもちろん、同じクラスだ。上位から二十名までの最上位のファーストと呼ばれるクラスである。アルファ十人、ベータが九人、オメガはガブリエルひとりだ。
―――ガブリエルはオメガなのか・・・―――
どおりで、可愛いはずだ。ほんのりチェリーパイの香りを感知した気がして、アルフォンスはドキドキした。
クラス分けは固定ではない。毎月の試験の結果によっては、下のクラスに落ち、下の者が上がって来る。
ファーストからサードクラスの生徒は、入学料免除者である。そしてファーストクラスの生徒は授業料全額免除者、次のセカンドは授業料半額免除者、サードは授業料三分の一免除者である。フォース以下はなにも免除されない。そして毎月のテストで順位が変わった場合、全額免除者が来年は半額免除になったり、免除されなくなることだってあるわけで、アルフォンスはどんなに最悪でも絶対に、ファーストクラスから落ちるわけにはいかないと、決意を新たにする。この学校に在学し続けたければ、ファーストクラスに居続けなければならない。ジョフロワになにを言われようと、もう後には引けない。ガブリエルやマクシミリアンと切磋琢磨して、八年後、一緒に卒業したい。
クラスはファーストからセカンド、サード、フォース、フィフス・・・と下がっていって、最下位はイレヴンスである。クラスは入学試験の成績順であって、親の爵位とか第二性などはいっさい忖度されない。忖度しようにもまだアルファもオメガも、バース診断で判明してはいてもローティーンでは発現はしていない。
それなのに一部の生徒は、アルファばかりが優遇されてファーストにいるとか、不満を口にしている。
「そういうことを言うのはイレヴンスやテンスの生徒だよ。中でも家の爵位が高い生徒。大きな声で言うとなにされるかわからないから気をつけないと・・・」
と、言うのは、入学試験で四位だったシリル。王都在住の伯爵令息だが、あまり裕福ではないらしい。アルフォンスと同じで、授業料免除のために全力な、真面目そうなアルファの少年だ。
身分や家柄と、第二性による能力、そして努力。なにが重要視されるかは、社会の状況や属する集団の特性によって変わるものだろう。しかし身分至上主義の上級貴族は、自分たちが常に優遇され、特別扱いされることが当然だと思っている。
「全部が全部じゃないよ。上級貴族や王族でも、学校である以上、能力や努力が重要視されるべき、って言っている人もいるよ」
と、言うのは、五位だったダミアン。ベータだけれどものすごい努力家らしい。
ファーストクラスには、真面目で優秀な生徒が揃っている。
下校時。
アルフォンスは制服でペタン侯爵邸に帰っていいものか迷って、モーリスのところに行った。ジョフロワのあの憎悪に満ちた顔では、せっかくの制服を破いたり切り裂いたりされそうで、朝とは逆に制服を脱いで私服に着替えて帰ろうと思った。しかし毎日朝も夕方も、守衛事務所に入って着替えるのでは、目立つことこの上無い。
そこはモーリスがちゃんと考えてあったらしい。正門前の大通りを渡ったはす向かいにある、こじゃれたビストロの裏にアルフォンスを連れて行った。ごそごそとポケットから鍵を出してドアを開け、アルフォンスを招き入れる。
「モーリスさんの御宅なんですか?」
「違うけど、まあ遠慮すんな」
モーリスは奥へ向かって声を張り上げる。
「ジャン、いるかあ?」
友人は、戦争で片足が不自由になった。だからモーリスに合鍵を寄越して、来訪時は勝手に入れと言ってくれている。声をかけてから出て来るまで時間がかかると、モーリスは知っている。しばらく待っていると、
「お前、まだ仕事中だろ?」
と言いながら、ジャンが杖をついてゆっくり現れた。
「よお、ちょいと頼まれてくれねえか」
モーリスは経緯を話し、アルフォンスを紹介する。
「アルフォンス、お前の大先輩だぜ。こいつァ俺が入学した年の首席合格者だったんだ」
ちがうところがあるとすれば、アルフォンスのような地方出身者ではなくてモーリスと同じに王都で生まれ育った下級貴族というところだろう。もっとも、長子ではなかったから親の爵位を継いでもいないし、従軍中に出会ったオメガの男娼と恋仲になったのに敵方の攻撃で倒壊した建物に埋まって圧死してしまった、その彼を忘れることができないと言って結婚もしなかったから、今はただの退役軍人で、気ままな独り暮らしである。
そのジャンは、アルフォンスを見て優しい笑みを浮かべた。
「毎年、ひとりやふたりは必ずいるんだよな」
地方から出て来た田舎者のくせにアルファで優秀で、容姿端麗なくせにその自覚が無くて・・・、自分やモーリスが在学していた時にもいたなあ、こういう奴、と、ジャンは過ぎ去ったはるかな青春の日々を懐かしく思い浮かべる。上級貴族のベータの学生たちの陰湿なイジメや嫌がらせに耐えて、士官学校に進学し、武勲をたてて軍人として名を上げ、騎士爵を賜って男爵令嬢に婿入りし、出世して数々の戦功勲章を賜って退役したアルファの彼は、今、どこで老後を過ごしているのだろう。王都の男爵邸か、それとも生まれ故郷に帰ったのか。
それはさておき。
モーリスの頼みは、アルフォンスの制服あずかり所になってほしい、というものだった。意味がわからなくて、当のアルフォンスはきょとんとしている。
「つまりな、守衛事務所じゃなくてここで着替えさせてもらうってことだ」
ただそれだけだ、とモーリスは言うが、赤の他人の家で着替えさせてもらうなんて、と当惑する。と、ジャンが口の端を歪めて笑った。
「俺ァ、この足だからよ、二階の荷物を下ろしたりまた上げたりしてくれると、助かるな」
そんなことならお安い御用だ。八年間、よろしくお願いしますとアルフォンスが頭を下げると、こちらこそよろしくと、ジャンは優しく笑った。
アルフォンスのフェロモンは、メイプルシロップみたいだと思った。
まだ自分もアルフォンスも発現していないから、ほんのり、かすかにしか感知できないけれど、メイラード反応によって生成されるウッディな香りやキャラメル香の独特な香りは、とても好ましくて、最初から惹かれた。
こんな気持ちは初めてで、ガブリエルは戸惑った。胸の奥がキュッとなるようなせつなさが、けれど嫌じゃない。ときめき、というほどの高揚ではないが、ほんのちょっとだけ、世界がキラキラしているように感じられて、自然に笑みがこぼれてしまう。
もっと仲良くなりたい。
時間はたっぷりある。八年の間には、きっともっと親密になれる。上級生になったら、アルフォンスはアルファを発現するだろうし、自分はオメガを発現する。そうしたら、アルフォンスに告白したい。
急がず、ゆっくりでいい。少しずつ、想いを育てていきたい。
ここまでお読みいただき、どうもありがとうございました。




