第一部 第六話 ペタン侯爵の焦慮
貴族階級の男性の社交の場として、『ラ ボワテ デ ニュイ(ナイトクラブ)』がある。イギリスの紳士クラブのようなものだ。アルファとオメガの出会いの場でもあるが、出会いではなく情報を求める紳士の社交の場でもある。特に商会を営む者にとっては、情報を制する者が富を制すると言われる。機を見るに敏であるためには、情報に敏であらねばならない。
領地から帰ってきてからもしばらくの間は書類仕事や家の中のことが忙しくて時間が作れなかったペタンは、やっと片付いたので、その日は夕刻から『ラ ボワテ デ ニュイ』に顔を出した。
「これはこれは、ペタン侯爵。おひさしぶりでございます」
ドアマンに恭しく迎えられ、中に入る。暗黙の了解として、アルファとオメガの出会いを求める者たちのゾーンと、純粋に社交や情報のやりとりをしたい者たちのゾーンがある。ペタンは当然、社交や情報のゾーンに入って行った。酔いすぎないように注意深くグラスを傾けながら、いろいろな話題に耳をすます。アルファであるペタンは、五人くらいの人間の会話なら同時進行で聞き分けられる。各々の領地での自慢話や出来事や事件、新たな鉱山の開発や工場の建設など金もうけにつながりそうな話題、王侯貴族や芸能人の醜聞・・・。
中でも貴族学校の今年の新入生にダイヤモンド・ヴォイスがいるらしいという話題に、耳をそばだてた。あのオーブリー学長がいたく感銘を受け、非公式ではあるが王太子殿下の御前で詩の朗読をさせたという。
最初はまさか、アルフォンスのことだとは思わなかった。
しかし。
入学式で新入生代表挨拶をした、その声が、不思議なほどに耳に残り、意識せずとも脳内再生できる。できるだけではなく、脳内再生しただけでなんだか幸せな気分になる。単なる定型文の新入生挨拶なのに、また聞きたいと思ってしまうほどの、妙なる声だったと、酔っぱらった紳士が熱く語っている。
ペタンは入学試験で、アルフォンスが最高得点だったことを思い出した。そして、入学式で新入生代表として壇上に上がって挨拶文を詠むのは、確か最高得点合格者のはずで。
―――まさか・・・?―――
動揺してチェイサーをがぶ飲みし、尿意を覚えて、ペタンは中座した。御不浄へと歩く途中で便意も覚えたので個室に入った。
すぐ後から、かなり酔いのまわった紳士がふたり、入ってきた。用を足しながら、先ほど聞いた、貴族学校の噂を蒸し返し、大きな声でしゃべり始める。ダイヤモンド・ヴォイスなんて眉唾だ、アルファ一万人にひとりと言われるような奇跡的な能力が、そうそう簡単に現れるものではないだろうと、ひとりが否定的なことを言うのに対し、もうひとりはあのオーブリー学長が言うなら本当だろうと言い返す。
御不浄の個室にペタンがいると知らないふたりは、酔っ払い特有の呂律の廻らない大きな声でしゃべり続ける。
話題は、そのダイヤモンド・ヴォイスの主であるアルファの少年が教室で倒れたという内容に移っていった。
「なんでもペタン侯爵の御子息が、その少年に陰湿な嫌がらせをしているらしい。うちの愚息は、階段から突き落とされるのを見たとか」
「高潔な人物だと思っていたのになあ。ペタン侯爵も所詮は人の子、自分の子どもが可愛くて、そのアルファの少年を冷遇しているのだそうだよ。侯爵邸で食事もさせずに下男のようにこき使って、さっさと退学届けを出して田舎に帰れと罵倒しているのだそうだ」
「それにしたって育ちざかりの少年に食事を与えないなんて、えげつないにもほどがある」
「語るに落ちたな。噂によると暴力をふるっているとかで、少年は傷だらけだそうだよ。少年が運び込まれた病院では大騒ぎだったそうだよ。ペタン侯爵家の商会との取引はやめたほうがいいかもしれん」
なんということだ! なんということだ! まさか・・・! と、個室の中で絶叫するのを必死に堪える。
飛び出して行って、ふたりの紳士の襟首を掴んで問い質したいのを全力で我慢した。こんな屈辱があっていいものかと、血が出るほどに唇を噛む。憤怒のあまり、血管がブチ切れるかと思った。斯様な噂がまことしやかにささやかれているとは・・・!
ペタンとしては、アルフォンスを冷遇したり虐げているというつもりなど、微塵も無かった。相応の待遇をしているつもりだったが、世間からはそうは見られていないというのか。まさか、自分が領地に行っている間に、ジョフロワがアルフォンスに暴力をふるっていたのか? 冗談ではない。食事を与えないのではない。あの貧乏子爵の小倅が鈍くさいから、仕事が終えられなくて食べられないだけ、のはず、だ・・・。
食事を与えずにこき使っているなんて、鬼の所業だな、と言い捨てる、嘲笑うような言葉を最後に、声が遠ざかって行く。ふたりの酔っ払いは御不浄から出て行った。ばたん、とドアが閉まった。
ペタンは身動きできなかった。栄えある侯爵家の威信が、地に落ちていたのだ。こんなことはあってはならない。手が痛い。気づかなかったが、拳を握りしめ、爪が自分の掌に食い込んで血が流れていた。屈辱のあまり眩暈がして立てなかったが、ようやっと立ち上がって個室を出て、鏡をのぞくと、血の気が失せてひどい顔色であることに茫然とした。噛みしめていたくちびるにも血が滲んでいる上に、白目の部分も血走っていて、おおよそ人前に出せた顔ではない。
ようよう動いてふやけるまで手を洗い、せめて目元を隠そうとメガネをかけて、逃げるように『ラ ボワテ デ ニュイ』を後にした。
家に帰ると開口一番、キュイジニエ(料理人)のニコラを呼ぶように家宰を怒鳴りつける。目を血走らせたペタンの尋常ではない剣幕に驚いた家宰は慌ててニコラを呼びに走り、呼ばれて飛び出してきたニコラに、ペタンは、アルフォンスに食事を与えたかと詰問する。ニコラはきょとんとして答えた。
「あの田舎者には食事を与えなくていいと、旦那様がおっしゃったと、ぼっちゃまから聞いておりますが・・・?」
やっぱり自分が言ったことになっていたのかと、怒りに肩を震わせる。
「では明日から、いや、今すぐに! 年齢相応の倍の量の朝食と夕食を喰わせろ!」
痩せて栄養不良で倒れたのが自分の指示によるものだったなんて、あってはならない。あんな噂を鼻で笑い飛ばせるように、ぶくぶくのでぶでぶに肥え太るまで喰わせればいいのだろう、と、侯爵は心の中で、御不浄で噂話に花を咲かせていた紳士たちを怒鳴りつけた・・・つもりで、実際には目の前のニコラに怒鳴った。
「ですが、旦那様や奥様方のお食事が終わるまで待っていると学校に間に合わないそうで・・・」
「うるさいっ! つべこべ言わず、朝いちばんにアルフォンスに喰わせろっ! 喰いすぎて動けなくなるくらい大量に喰わせるんだっ!」
「か、かしこまりました」
わけがわからないままのニコラが下がっていくのを睨みつけるように見送り、今度はジョフロワとアルフォンスを呼んでくるように家宰に言いつける。ふたりが来るのを待つ間、少しだけ冷静になって考えを巡らせた。
―――あの貧乏子爵の小倅は、本当にダイヤモンド・ヴォイスなのか・・・?―――
ペタンは学生時代、帝国に留学した時に、ダイヤモンド・ヴォイスだと言われるミュージカル俳優の舞台を観たことがある。もう二十年も前だが、今でも脳内再生できる、素晴らしい声だった。ミュージカルにさして関心は無かったから造詣も無かったのだが、あの演目だけは今でも完璧に憶えている。ストーリーも、歌詞もメロディも、思い出すだけで幸せな気分になる。・・・それがダイヤモンド・ヴォイスであるがゆえだとは、あまり深く考えたことが無かった。
ジョフロワは部屋着に上着を羽織ってペタンの書斎まで来たが、アルフォンスはもう就寝していたとかで、慌てて着替えたのか、釦をかけちがって、寝ぼけまなこを擦りながら来た。最近では朝も夕方も、ジャンのところで着替えると、ピエールのビストロで食事をいただいているから、夜は早くに眠くなってしまうのだ。
「アルフォンス! 学校の教科書を朗読しろ!」
「・・・は?」
「こんな時間になんなんですか? 父上」
アルフォンスもジョフロワも突然の命令が理解できない。
「うるさいっ! いいからさっさと教科書を持って来いっ! 言うとおりにしろっ!」
イライラと怒鳴ると、アルフォンスは、
「教科書を朗読・・・、暗唱でいいですか?」
と言った。屋根裏部屋まで教科書を取りに行ってくるのが面倒だと思ったらしい。
「暗唱できるものなら、やれっ!」
やれるものならやってみろ、というつもりで怒鳴りつけると、アルフォンスは大あくびをしてから、すらすらと暗唱し始めた。
「・・・!」
寝ぼけまなこで間延びした口調なのに、その声にペタンもジョフロワも、それから部屋の隅にいた家宰も、茫然として、次に陶然となって、身動きもできないほどに、全神経が耳だけに集中した。
半分寝ているのでふんわりと力の抜けたアルフォンスの声は、やわらかく、天界から光の粒と花びらが振り撒かれるかのようだった。味気ないただの教科書の文章が、神の言葉のように麗しく、心に沁み入る。まだ細い少年の高く澄んだ声、眠そうで幼く聞こえるそれは、さながら天使の声だった。涙が出そうになって、慌てて目をしばたたかせた。
耳が至福に歓喜している。息をするのすら忘れるほど、自分の鼓動が邪魔だと思うほど、アルフォンスの声にこころが惹きつけられる。
終わっても誰も、動けなかった。
「もういいですかあ?」
アルフォンスが訊ねると、ペタンは機械のようにただ肯いた。自分が肯いたこともわかってないようだったが、眠くて仕方がなかったアルフォンスは、大あくびをしながら屋根裏部屋に戻って寝てしまった。
翌朝。
昨夜は寝入りばなに叩き起こされ、なぜか教科書を暗唱させられ、喉が痛いまま寝てしまった。ちょっと寝不足だったが、いつも通りに暗いうちから起きて、ルイと一緒に馬の世話をする。
終わって、次は掃除だと厨房に行ってみると、いつもは掃除が終わるころに起きてきて朝食の準備を始めるはずのニコラがいた。
「ほらよ」
使用人たちがいつも食事をする、厨房の横の部屋のテーブルを指し示されて、アルフォンスはぽかんとした。そこには、朝食には明らかに多すぎる、山のような大盛りの料理があった。
「え、と、これは・・・?」
「俺もわかんねえよ、とにかく十二歳の少年の標準量の二倍、お前に食わせろって侯爵サマの命令なんだよ。二倍って言われたって・・・、なあ?」
なあ? と言われても、はあ? である。
「考えてねえで、喰えるだけ喰ってさっさと学校に行きな」
とても全部なんて食べ切れない量だが、とにかく空腹は空腹である。ニコラが言うように食べれるだけ食べて、屋根裏部屋に駆け上がる。天窓からいつものように飛び出して駆け出すが、腹いっぱい食べたものだから勝手がちがう。いつものパルクールの動きをすると、屋根から落ちそうになった。落ちなかったが。
「なんだか顔色がいいな?」
ジャンにも、ガブリエルにも言われた。
きちんと朝食を摂ると、こんなにも活力に満ちてやる気が漲るものなのかと驚いた。その日、アルフォンスが朗読した部分は、後日の試験で出題された際、ファーストクラスの生徒は正答率百パーセントだったのだが、それがアルフォンスのダイヤモンド・ヴォイスの朗読によるものだったとは、教師はわからなかった。
その様子を、オーブリー学長は遠目に見ていた。満足気に笑っていた。
ペタンはダイヤモンド・ヴォイスの少年・・・、アルフォンスに関する話題がどの程度貴族社会に広まっているのか調べさせた。結果、予想を上回る広範囲でその噂が囁かれていて、唖然とした。実際、噂を信じてペタンを見限り、取引を止めたらしい取引相手がいくつかあった。
田舎から出て来たいたいけな子どもを冷遇し、食事も満足に与えずに酷使する鬼のような男。侯爵にあるまじきそんな噂が、貴族階級だけではなく平民の間でも飛び交っていると聞いて、赤くなったり青くなったりした。屈辱に憤死するかと思った。
噂を払拭しようと躍起になった。よれよれの古着しか持っていなかったアルフォンスに見るからに高そうなゴテゴテのキンキラキンな刺繍や装飾のついた服や靴を買って身に付けさせ、庭掃除など外から見える仕事をやめさせた。アルフォンスが健康的にはなったが一向に太る様子が無いまま十三歳の誕生日を迎えたので、十三歳の平均的な食事量の三倍量を喰わせろとニコラに命令した。ニコラは呆れて言った。
「あの子を病気にしたいんですかい? ブタみたいにでぶでぶになってほしいんですかい?」
ブタのようになってくれれば願ったりかなったりだが、田舎で野山を駆け回って育ったアルフォンスは、王都在住の同年代の子ども達とは基礎代謝量や筋肉や骨のつくりがまったく違うようだった。摂取したカロリーを溜め込まず、無駄な贅肉がつかないらしい。しなやかにして強靭な身体は、食事量が増えてもでぶでぶにはならず、筋肉が強さだけを増していった。もちろんそれはパルクールで通学しているからだが、侯爵はそんなことは知らない。
自分が本を読むのが嫌いだったから、ペタンは今まで、ジョフロワに本を読めとはあまり言わなかった。その結果、ジョフロワは貴族学校の成績もパッとしないし、栄えある侯爵家の名に恥じない嫡男であろうと努力をしないで、侯爵家の名前だけしか誇るものがない嫡男になってしまった。ベータだし、仕方がないかと思っていたが、今ならまだ間に合う。今からでも本を読んで、猛勉強して、ペタン侯爵家の惣領息子としてどこへ出しても恥ずかしくない貴公子になってほしい。
ペタンはアルフォンスに、ジョフロワの家庭教師をするように命じた。ジョフロワは嫌がった。
「なんであんな奴に勉強を教わらなければならないのですか?」
「うるさい! いいから黙ってアルフォンスの朗読を聞け!」
鬼のような形相の父親に逆らえず、ジョフロワはしぶしぶ、アルフォンスの朗読を聞く。勉強を教えさせるわけではなくて、教科書を朗読させるだけなら、我慢して聞いてやる、と、一時間だけの約束で、聞いた。
が、一度、アルフォンスの朗読を聞き始めてしまえば、終わるのが惜しくなる。いつまででも聞いていたくなる。・・・もちろんそんなことを認めてしまうのは悔しいので、一時間、という約束の後には、無理矢理に聞くのを止めて追い出したが。
効果は、すぐに出た。翌日の授業、予習なんかしていないのに、わかる。アルフォンスの朗読が一言一句脳内再生されて頭の中に響きわたり、どんな授業もすらすらと理解できる。
やがて迎えた次の試験で、ジョフロワは驚異的な結果を出し、イレヴンスから一気にセヴンスに上がった。毎日アルフォンスの朗読を聞いていたからなのはジョフロワでも分かった。悔しいから言わないが。
最初は、アルフォンスの朗読を聞くのなんか面白くなくてふてくされていた。絶対に認めたくないのだがアルフォンスの声にいつしか惹きこまれた。そしてそれが成績に反映されたことで、アルフォンスの朗読無しにはいられなくなった。朗読させる時間を、一時間から二時間に増やした。三時間にしたかったが、アルフォンスが喉の不調を訴えたため、二時間が限界だということになった。アルフォンスの体調なんかどうでもよかったが、ペタンからダイヤモンド・ヴォイスについて説明され、体調を管理してやってしっかり声を張った朗読をさせないとダイヤモンド・ヴォイスによる効果は得られないと言われ、仕方がないので了承した。なによりも当のアルフォンスは、自身がダイヤモンド・ヴォイスだということをわかってないらしいと聞いて、ちょっとおもしろくなった。
「いいかジョフロワ。貴族というのは人の上に立つ存在なんだ。それは無知蒙昧な群衆を導いてやるということだが、同時に巧く利用するということでもあるんだ。アルフォンスを自分のための道具として巧く利用するんだ。今さら、田舎に返すわけにもいかないからな。アルフォンスの朗読を聞けば学校の勉強は全部頭に入るのだから、毎日朗読させるんだ」
「わかりました」
こつこつ勉強をしなくてもアルフォンスの朗読を聞くだけで、おもしろいように教科書の内容が理解できる。暗記できる。腹が立つムカつく田舎者ではなくて、朗読させるための道具だと思えばいいのだ。おおいに利用すればいいのだ。
ジョフロワは次の試験でセヴンスからサードまで昇格した。あまりにも成績が伸び、一足飛びに昇格したので、学年中から注目され、どんな勉強をしているのかと何人もの生徒から訊かれた。
家でアルフォンスに朗読させていることを学校では絶対に言うなとペタンから言い含められていたのに、ジョフロワは学校で吹聴してしまった。アルフォンスの朗読を聞けば自然に頭に入るのだと知れ渡って、下位のクラスの生徒達から、アルフォンスの朗読を聞きたいという声が殺到するようになってしまった。同時に、家でアルフォンスに好き放題に朗読させまくっているジョフロワは狡いと、批難も殺到してしまった。
学長命令が出て、アルフォンスはペタン侯爵邸を出て寮に入ることになった。
ここまでお読みいただき、どうもありがとうございました。




