4.渡し守な俺
一心不乱に陽の落ちきった町を駆け抜け、町外れの橋までやってきた。一時間くらい前に俺が逃げた場所だ。
息を整えてから、橋の下を覗き込もうとしてピタリと止まった。
襲われないか?
そんな考えがほんの一瞬過っただけで動けなくなってしまったのだ。さっきだって追って来なかったじゃないか。怖く見えただけか、ちょっと威嚇されただけだろ。
威嚇だけじゃ済まなかったら?
いやいやいやいやー。
でももしもがあるじゃないか。
そう思うともう進めなかった。相手がそのつもりなら簡単に食い付けるようなこの距離で何を躊躇しているんだと我ながら馬鹿馬鹿しい……。
不意に意識がしんと鎮まり、代わりにザッザッ、ザッザッ、という橋の下の奥の方から聴こえてくる音が耳に飛び込んできた。
穴を掘っているのか?
何のために?
フラッシュバックするのは自分の浅はかな発言だ。
『はぁ? そんなこと言ったらもう……川を埋めるっきゃなくね?』
そういうことなのか?
その考えに辿り着いた瞬間だ。
ゴポポ、という不吉な水音が橋の下の暗がりから聴こえた。それと同時に微かに「ひあ――」という声が呑まれたのも。
「ぁあああああクソッタレェエエエエエエ!」
俺は迷いなく闇に突っ込んで行った。でもやばい。洒落にならない暗闇だ。何にも見えない。ただばちゃばちゃという何かが暴れる、いや溺れている音がするだけだ。どこから泥沼で、どこに助けるべきやつがいるのかすら全くわからない。
こうなりゃ心の目で見るしかねぇだろ! 見ようとしたって何も見えねえんだからよ!
馬鹿馬鹿しいとか思う心を圧し殺すと、俺は思い切って目を瞑った。つかつかと落ちる可能性を無視して音に近付く。怖いとか考えるのは後、と割り切ってしまえば……行ける。
爪先が一瞬にして水浸しになって俺はその場に膝をついた。ここだ。音も近い。膝が濡れようと気にしない。
「おい! 居るんだろ! ほら、手を掴め、じゃなかった、ほら触ってくれ掴むから、ほら!」
しかしばちゃばちゃと煩いだけ。返事はなく、しかも段々暴れるのも弱まっている気がする。
…………。
「心の目がありゃきっと何でも見えーるのだあ!」
とか言い聞かせてないとやってらんねえよぉおおお! と心の叫びをひっそりとあげつつ、俺はえいやと両の手を伸ばした。そこにある、きっと掴める、と根拠のない自信を盲信して。
馬鹿みたいに信じた。
だから掴めたんだと思う。闇の中の闇を。
「うぉりゃぁああああ!」
前肢とおぼしき獲物を掴んだ俺は渾身の力で黒い犬を引き揚げようとした。でも重いせいか、泥水だからか、どうにも引き抜けない。都合良く何かに引っ掛かった足を使って踏ん張るがじわじわとしか抜けない。
でもじわじわとは進んでる!
「てか暴れるんじゃねぇえぇぇ……」
水が相当怖いのか、掴んでいるにも拘わらずすげえ暴れてくるアホ犬。ただでさえ滑るのに、暴れるせいで力が入れづらい。
「クソッ、お前え!」
泥水が目元に飛ぶ。もう目を開けているのか閉じているのかよくわからなかった。どちらだろうが真っ暗で、足が離れたら途端に上も下もわからなくなってしまいそうだ。
それでも俺は離さないし逃げない。
「お前が俺を知ってるんならよ、俺が信用ならん人間だってのもまあ知ってるだろうさ……でもよお!」
泥だらけになって、口の中がぐちゃぐちゃでも、俺は叫んだ。
「信じてくれよ! 俺は手を離さないから、ぜってえ助けっから、だからあ! だから大人しく待ちやがれよな馬鹿犬飼がぁああああ!」
ぴたりと、犬が動きを止めた。俺は変わらず踏ん張った。
「うおりゃああああ!」
ずぶずぶ、とどんどん犬の体が現れる。見えねえけどさ!
でもわかる。あとちょっと、もうちょっとだと。なのに段々力が抜けてくる。もうちょっと何だから踏ん張れよ俺! と叱咤したいが手まで滑ってくる。やばいせっかく引き揚げたのにまた沈んでしまう。黒い犬の体が震えたのがわかった。
怖いのだろう。
それでもまた暴れないのは。
信じてくれたからだろう……。
「うおぉおおおおおおおォォオオオオオオオオッ!」
悲鳴なのか気合いなのか叫びなのか咆哮なのか最早わからないが。
とにかく絶叫した。
負けるものかと思った。
俺は前肢を掴む手を離した。ガクンと落ちていく黒い犬。そこをガバッと両腕を伸ばして受け止めた。胴体だ。腕を絡み付け、抱き着く。もう全身を使うように身を乗り出して犬を掴まえた。後はもう、行くっきゃないだろう?
「ふ、ぐっ」
腹に力を込める。いろいろ頓着しない。最早何か技をかけてやっつけるくらいの勢いで行く。何かこんな感じの格闘技の技、あったよな。相手の胴をホールドしてさ。自分は手なしのブリッジするみたいに全身を反って相手を持ち上げて、地面に敵を叩き付ける。
「ふ、おお」
まあ犬なんだし上手いこと回避してくれよな。俺が考えるのはただ一つだ。
「お、お、おおお」
馬鹿犬を鬼になった姫様に逢わして、今度は嬉し泣きさせること。
ただそれだけだ!
「おおおうぉおおおおおおりゃあああぁぁああああぁあああああああああ!!!」
スポン、という音がした気がした。でもその後は軽かった。多分犬がようやく抜けた脚で縁を蹴ったんだろう。犬は地面に叩き付けられることなく、華麗に頭上を飛び越えた。俺は勢いのまま仰向けになった顔でそれを見届けると。
背中を強かにぶつけた。
「っ――! げふぁっ。ぐえ、えっ、えふ」
やべー。さっき全力で肺の空気を使いきったのにその直後に背中を打ったせいで息出来ねー。
とか思っているがマジで息できなくて死ぬかと思った。何とか満足に酸素を吸えるようになったので両手両足を投げ出す。
「はー……無事かーワンコっげほっけほっ」
喋るだけで苦しむな、と苦笑いを浮かべた。すると温かいものが額に押し付けられた。
「はっ、犬の鼻は、あっついなー。でも、さー」
俺は寝転んだまま手を伸ばした。鼻に手が触れる。ぽたりぽたりと滴ってくるのは泥水だけじゃない気がした。鼻よりも熱くて、しょっぱいものが混ざっている。
「泣くなよワンコロ。そんなに怖かったのか?」
「ごめん、なさい――」
震える声に応えるように、俺は真っ直ぐに手を伸ばして、ぽん、とそいつの頭に置いた。ゆっくりと撫でてやる。
「あ、はは……ヨウ君って本当に頭撫でるの、好きだね」
「お前が犬っぽ過ぎんだよ、ばーか」
静かに。川の音を聴きながら、微かに射す月明かりを視界の隅に感じながら、俺達は息を整えていた。ぽっかりと空いた空白に、俺が声を差し込む。
「犬飼だよな、お前」
「……うん」
「川、渡れないんだな」
「……うん」
涙混じりの肯定に、恐れ混じりの答えに、嫌になる。
「なに情けない顔してんだよ」
「見えないのに、情けないって決めないでよぉ」
「いーやわかるぜ、今のお前は超情けない顔だ。そんな顔じゃ織姫様も呆れちまうぜ?」
「あは、は……無理だよ。あのね、僕、ヨウ君に言われて、でも埋めるのは無理だから、だから穴を掘って川の下から行けば良いんじゃないかなって思ったんだ」
「馬鹿じゃねえのー」
「うん、知ってる。でも馬鹿したかったんだ。無謀でも、やりたかった――」
ぼたぼたぼたぼた降ってくるものに辟易した俺はそいつの顔を両手でがっちり固定した。
「いーか、よぉく聞くんだ馬鹿犬」
「ふえ?」
「向こうで大鷹琴織が、お前の織姫が待ってる」
「え、ええ?」
「でお前も彦星の生まれ変わりだ。んで二人揃って川を渡れなくて困ってる。俺は知ってる」
「ええええ! な、なんで? なんで知って――」
「何故なら大鷹とは友人みたいなことをしてるからだ。俺、向こう岸から学校通ってるからよ。まあなんつーか、成り行き? だからとにかく俺はお前らの事情を知っている。よろしい?」
「えあ、うんっ」
多分目を真ん丸にしてるんだろうな、と俺はクスクス笑った。でも犬飼も大分落ち着いてくれたらしい。俺は手を離すと体を起こした。
「おいててて」
「大丈夫?」
鼻の先で背中をつついてくるが、それが余計に痛いんだよ! と手で追い払うと黒い犬、犬飼と向き直った。犬飼は決まり悪そうにちょこんと前肢を揃え、お座りをした。
「お前、大鷹に会いたいんだよな? それこそこんな、水が入ってくるかもしんねえのに川岸の土を掘り返して案の定溺れちまうくらいに」
「……改めて説明しなくても、いいじゃないかぁ」
ちょっと涙目になった犬飼が長めの尻尾をへなっとさせて情けなく文句を言った。
「知るか。ほら、行くぞ」
「はい?」
俺は立ち上がるとわかってない顔の犬飼の頭をぽかりと叩く。
「決まってんだろ、作戦会議だ」
「……うええ!?」
「資料もあるんだしやるっきゃねえだろ。有り難く思えよなワンコロ」
犬飼はぽかんと口を開けて俺を見上げた。本当に犬の姿でも間抜けなやつだなぁ。




