第9話 三年間
負けた、と分かったとき、私は拍手をしていた。
体育館に試合終了の笛が響いた。コートに並んだ娘たちが頭を下げる。客席のあちこちから拍手が起こり、私も手を叩き続けた。
結菜たちのバレーボール部は、強いチームではなかった。大会では早々に負けることが多かったし、練習試合でも勝つより負けるほうがずっと多かった。けれど、この日の娘たちは、入部した頃とは比べものにならないほど頼もしかった。
三年生の結菜は、チームのエースだった。最後の試合でも、何度もボールを託された。
コートから戻ってきた三年生の一人が、こらえきれずに声を上げて泣きだした。隣の子まで泣き始める。客席では、いつも並んで応援していた母親がハンカチで目元を押さえていた。
結菜も目を真っ赤にしていた。
持ってきたタオルを渡した。
「お疲れさま」
「……うん」
「いい試合だったよ」
「負けたけどね」
「うん。負けたね」
結菜はタオルで顔を覆った。少しして、その下から声がした。
「でも、楽しかった」
私は頷いた。
「お母さんも」
結菜がタオルから顔を上げた。泣いた目のまま、私と同じ顔で笑っていた。
中学三年生の夏。娘のバレーボールは、そこで終わった。
* * *
中学一年の春、結菜がバレーボール部に入ったとき、私はルールもろくに知らなかった。初めて見た練習試合では、ローテーションの意味が分からず、隣の保護者に何度も教わった。
サーブが入らないと聞けば、客先でバレー経験のある人を見つけて、週末の体育館で見てもらった。レシーブが苦手だと聞けば、家でボールを投げる役を引き受けた。
初めて試合でサーブが決まった日のことは、よく覚えている。
玄関を開けるなり、結菜は「入った!」と叫んだ。
私は、玉ねぎを刻んでいた包丁を置いた。
「どこに? どうやって?」
「だから、こう、トスを上げて――」
結菜は台所の真ん中で、見えないボールを打ってみせた。説明はちっとも伝わらなかった。
「もう一回やって」
「さっきやったじゃん」
「もう一回」
三回目で、結菜は自分で説明を投げ出して、お腹を抱えた。
コンロの上で、鍋が吹きこぼれかけていた。
二年生で初めてスパイクを決めた日には、私の声が観客席で一番大きかったらしい。
「お母さん、外まで聞こえるかと思った」
結菜が楽しそうだったので、反省する気にはなれなかった。
土曜日は朝から弁当を作り、集合場所まで車を出した。後部座席には結菜と、同じ部の子が二人か三人。帰りの車では、うまくいったプレーと失敗したプレーの話が尽きなかった。試合会場では、いつの間にか「坂井さん、こっち」と呼ばれて、保護者の輪の真ん中に私がいた。
部活動が終われば、少しは楽になる。
確かに、そう思っていた。
* * *
引退の翌週から夏期講習が始まり、秋には学校説明会、冬には願書と受験料の払い込みが続いた。
合格発表の日、結菜が玄関を開けるなり「受かった!」と叫んだ。私は洗濯物を放り出して、娘を抱きしめた。その夜は家族で結菜の好きな店へ行った。早めに帰ってきた夫の健介は、乾杯のときに「麻衣も、三年間お疲れさん」と言った。陸は、姉の合格より食後のパフェに夢中だった。
高校の体育館は、まだ見たことがない。高校生の試合はきっと迫力があるのだろう。強い学校も多いし、知らない選手もたくさんいる。また一から覚えなくては。
そんなことを考えるのが楽しかった。
四月の半ば、結菜が言った。
「お母さん、剣道部に入る!」
「……剣道?」
「体育でやったとき楽しくて。見学行ったら、先輩たちがすごく優しかったんだよ」
「いいじゃない。新しいこと始めるのも」
「でしょ?」
結菜が笑ったので、私も笑った。
口にした言葉は、本心だった。
その夜、体育館用の折り畳みクッションを、押し入れの奥へしまった。応援のとき、硬いベンチに敷いていたものだ。三年間で、角がすっかり擦り切れていた。
* * *
八月。
朝の台所に、開けた窓からセミの声が入り込んでいた。
「結菜、水筒そこ置きっぱなし」
「あ、ほんとだ」
「氷、足した?」
「入れた。行ってきます!」
剣道具の入った大きな袋を抱え、結菜は玄関を飛び出していった。暑い、きつい、と言いながら、朝になるとさっさと支度をして出かけていく。予定は自分で管理し、必要なものがあるときだけ言ってくる。
朝は、少し楽になった。
陸の昼食は冷蔵庫に用意しておいた。
「お昼、温めて食べてね」
「うん」
「何かあったら電話して」
「うん」
陸は短く答え、テーブルの上の本に目を戻した。小学四年生。小さい頃から、一人で楽しみを見つけるのが上手な子だった。
車に乗り込む前、スマートフォンが鳴った。中学のバレーボール部の保護者グループだった。誰かが、去年の夏の写真を見つけたらしい。
大会会場の前で、汗をかいた子供たちが横一列に並んでいる。真ん中に、まだ中学生の結菜がいた。
写真を拡大した。
隣の子は、遠くの高校へ進んだ。別の子はバレーを続けていると聞いた。グループの最後の投稿は、春の卒業式の日付だった。
画面を閉じ、エンジンをかけた。
保険の仕事は、顧客の都合に合わせることが多い。以前は週末の訪問と試合の予定が重なるたびに、手帳をにらんで頭を抱えた。
今は、重なる心配がない。
信号待ちのたびに、手帳を開いてしまう。週末の欄に、何か書いてあった気がする。
開いて、何もないことを確かめる。
閉じる。
* * *
剣道のことは、何も知らない。
どこを褒めればいいのかも分からない。バレーなら、一目見ればどれだけ上達したか分かったのに。
結菜が「今度、練習試合があるんだ」と言ったときも、「そうなんだ。頑張ってね」と答えた。
見に来てほしいとは言われなかった。私も、行くとは言わなかった。
手帳のその日の欄には、顧客の名前を書き込んだ。
* * *
午後一時を少し回った頃、顧客の家を出た。
更新の相談は思ったより長引いた。車に戻ってバックミラーを覗くと、汗で化粧が浮いていた。四十三にもなると、真夏の外回りに下地が負ける。
朝から動き回って、昼食を取るのを忘れていた。ペットボトルの水はすっかりぬるい。
大通りから一本入った道へ車を進めると、少し奥まったところに小さな看板があった。
『ごはん屋 なつこ』
近くの時間貸し駐車場に車を停め、歩いて戻った。
引き戸を開けると、外の熱気が嘘のように、涼しい空気が流れてきた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの向こうに、女将がいた。
火の前に立っているのに、化粧が少しも崩れていない。
どこの下地を使っているんだろう。
「一人なんですけど、まだお昼、大丈夫ですか」
「はい。どうぞ」
カウンターに腰を下ろすと、張り詰めていた足の力が抜けた。
「今日は豚の生姜焼きがおすすめですよ」
「じゃあ、それをお願いします」
ハンカチで首筋の汗を押さえた。この時間はいつも、移動中の車でパンやおにぎりを齧っている。座って食べるのは久しぶりだった。
厨房で、じゅう、と油が弾けた。生姜と醤油の香りが広がり、空腹を忘れていた胃が動いた。
「お待たせしました。生姜焼き定食です」
白い皿に、焼き色のついた豚肉が玉ねぎと一緒に盛られていた。とろみのついた甘辛いタレが、薄い肉の縁にとろりと絡んでいる。脇にはふんわり盛った千切りキャベツと、赤いトマト。白いご飯、豆腐とわかめの味噌汁、きゅうりの酢の物。
「どうぞ、ごゆっくり」
「いただきます」
肉を一枚持ち上げると、柔らかく曲がった。
醤油の香ばしさと豚肉の旨味が広がり、少し遅れて生姜の辛みが鼻へ抜けた。
目が一度、ぱちりと開いた。
タレを含んだキャベツまでおいしい。温かいご飯をひと口食べると、肩の力がさらに抜けた。
もう一枚、肉を取る。甘辛いタレの加減が、どこか、うちで作るのと似ていた。
タレが、光った。
生姜の匂いだけを残して、店の景色が白く抜けていった。
――坂井陸の記憶――
茶碗には、ご飯が少し残っていた。
箸で集めようとすると、米粒が底にくっついて、なかなか取れない。椀を持ち上げて、箸の先で寄せた。
向かい側にはお母さんが座っている。斜め前のお姉ちゃんは、髪を後ろでひとつに結んでいた。テーブルの真ん中の大皿には、生姜焼きが二枚だけ残っている。
「今日さ、初めて先輩から一本取れたんだよ」
お姉ちゃんが言った。
「へえ、すごいじゃない」
お母さんが笑った。すぐに目を皿へ戻し、箸で小鉢の中を寄せ始めた。
「試合みたいにやる練習でね。ずっと取られてばっかりだったんだけど」
陸は味噌汁をひと口飲んだ。
お母さんは顔を上げて頷き、それから台所の時計に目をやった。
「よかったね」
「うん。明日も頑張る」
お姉ちゃんは、今度は学校の友達の話を始めた。お母さんは「そうなの」「へえ」と返事をした。テレビから笑い声が聞こえ、陸はそちらへ目を向けた。
少しして、茶碗が空になった。
早く部屋に戻って、昨日の続きが見たかった。
「ごちそうさま」
「はーい」
お母さんの返事を背中で聞きながら、陸はもう廊下に出ていた。
自分の部屋へ戻り、扉を閉め、ベッドに腰を下ろして、机の端のスマートフォンを手に取った。
いつも見る動画を開く。
明るい色の衣装を着た女の子が映った。丸っこい文字のタイトルが出て、女の子が画面のこちらに手を振った。
陸は音量をひとつ上げた。
音楽が流れ始めたとき、辺りが白くなった。
目の前の生姜焼きは、大皿ではなく、一人分の皿に載っていた。
厨房から、水の流れる音が聞こえる。
あの食卓は知っている。
昨日の夜の、うちの食卓だ。
結菜は、まったく同じ話をした。私は、確かに「すごいじゃない」と言った。
画面に映った女の子の名前が、ふと浮かんだ。
めるぴっぴ? 変な名前。
箸を、皿の縁に置いた。
ちゃんと褒めたし、笑った。そのつもりだった。
小鉢を寄せていた手。台所の時計に向いた目。
あの顔なら知っている。顧客の家で、説明を聞き流しながら次の訪問先までの道を考えているときの顔だ。
初めてサーブが決まった日、私は包丁を置いた。鍋が吹きこぼれかけても、もう一回、と言った。
女将が、水のおかわりを置いた。
「ありがとうございます」
肉はまだ温かかった。少し冷めたご飯を口に運ぶと、生姜の香りが戻ってきた。
「ありがとうございました。またどうぞ」
引き戸を開けると、八月の熱気がまとわりついてきた。
車に乗り、エアコンをつける。
次の訪問まで、まだ時間はあった。
鞄から手帳を出した。週末の欄の、顧客の名前を見た。
ハンドルに手を置いたまま、しばらく動かなかった。
それから、その顧客の電話番号を探した。
* * *
その日の夜も、家族はいつもどおりに夕食を囲んだ。
結菜は風呂上がりの髪を後ろにまとめ、麦茶を飲んでいた。陸はテレビのほうを向いたまま、ご飯を食べている。健介も、隣で箸を動かしていた。
「今日も暑かった?」
聞くと、結菜は待ってましたとばかりに頷いた。
「暑いなんてもんじゃないよ。防具つけたらもう大変。汗で前髪ぐちゃぐちゃになるし」
「今も大概ぐちゃぐちゃだけど」
「えっ、ひどい」
結菜が前髪を押さえて、私を睨んだ。睨んだまま、笑っていた。
「あとね、今日、打ち込みの稽古で先輩と組んだんだ」
「打ち込み?」
「相手が打たせてくれるところを、こっちが打っていくの。面とか胴とか」
「ふうん。できた?」
「もう全然。手ばっかり先に行っちゃって、足が追いつかない」
「危なくないの、それ」
「転んだわけじゃないよ」
結菜は箸を置き、右手で竹刀を振るような仕草をした。
「こうやって、足も一緒に出すんだけど――」
説明の半分も分からなかった。
私は箸を置いた。
「待って。今のは誰を打ってるの?」
「先輩だってば。ちゃんと聞いてる?」
「聞いてる、聞いてる。でも分かんない」
結菜が、仕方ないなあという顔をした。
「じゃあ、今度ちゃんと見せる」
「うん。そうして。練習試合、いつだっけ」
「来週の土曜」
「見に行ってもいい?」
結菜は一瞬、きょとんとした。
「……来るの?」
「ルール、教えてくれる人いるかな」
「私が教えるよ」
「ごちそうさま」
陸が席を立った。廊下へ出ていく背中から、小さな鼻歌が聞こえた。
機嫌のいいときの、陸の鼻歌だった。
結菜はまだ、何か話している。
「それでね――」
私は、続きを待った。
――了――




