第10話 銅像
インターネットで一番恐ろしいものは何か。
少なくとも俺にとっては、通知のアイコンだ。
スマートフォンが震えた。画面を見る。見なかったことにする。三秒後、やっぱり見る。
『ぜひ弊社の生配信番組にご出演ください。あの切れ味をリアルタイムで!』
やめてくれ。
俺の名前は佐藤和也。三十二歳。無職。実家の二階、六畳の自室が生活のほぼすべてだ。
働いたことがないわけではない。配送会社の事務、家電量販店、倉庫の管理補助。どれも仕事を覚える前に、人とのやり取りでつまずいた。
上司の説明に分からないところがあっても、質問するタイミングがつかめない。会議で意見を求められると、頭の中にあった言葉が一斉に隠れる。
業務連絡は全て筆談で済ませる法律でもできないだろうか。
辞めた。再就職した。また辞めた。
今は母が買ってきた菓子パンを食べながら、求人サイトを開いては閉じる毎日だ。
なのに、ネットでは俺を『代弁者』と呼ぶ人がいる。
しかも、かなり大勢いる。
* * *
発端は一年前だった。
テレビでもよく見かける有名人が、ネットにある意見を投稿した。いつものように歯切れがよく、断言ばかりが並んでいた。
俺が引っかかったのは、その人が説明の途中で、判断の基準をいつの間にか変えていたことだ。最初の基準のままでは、自分の主張が成り立たない。だから結論の手前で、別の基準に置き換えている。
気持ち悪かった。
俺はそれを短く投稿した。少し嫌みな気持ちがあったことは否定できない。どうせ誰にも読まれないと思っていた。
ところが、数千件の批判の中から、本人が俺の投稿を取り上げた。
名指しで反論された。
なんで俺なんだよ。もっとひどいことを書いてる奴がいるだろう。
削除しようか迷った。だが、反論を読むと、最初の引っかかりはむしろはっきりした。説明が増えているのに、肝心の基準の食い違いは残ったままだった。
俺は原文を何度も読み返し、過去の発言も調べ、余計な感情を削って、もう一度説明した。
送信ボタンを押すまで二時間かかった。
やがて相手から返信が来た。
訂正と謝罪だった。
助かった。これで終わりだ。
ところが、終わらなかった。
『あの人が謝ったの、初めて見たかも』
『あー、違和感の正体それか』
『言われてみればそうなんだけど、自分じゃ説明できなかった』
『この人、俺らの代弁者だわ』
俺のアカウントに人が集まり始めた。
数日後、別の有名人に絡まれた。
無視するのも怖い。応じるのも怖い。だが、相手の投稿を読むと、また何かが引っかかった。今度は比較的すぐに違和感の正体が分かった。
何度かやり取りしたところで、相手は話題を切り替えた。
『話そらして逃げたwダサいw』
『一番痛いとこをサクッと突くのすごい』
『やっぱ代弁者だわ』
俺たちが言いたかったことを、代わりに言葉にしてくれる人。そういう意味らしい。
勝手なことを言わないでほしい。俺は誰の代表でもない。違和感があれば、それがどこから来るのか考えてしまう。見つけたら書きたくなる。それだけだ。
それからも、議論をふっかけられ続けた。返信までの時間はどんどん短くなったが、投稿直後の胃の痛さだけは変わらなかった。
フォロワーは二十万人を超えた。
テレビやネット番組からの出演依頼は、全部断った。
俺は上司に「これ、どういう意味でしょうか」と質問するのにも一時間悩む男だ。カメラの前で遠慮なく言えるわけがない。
『ネット弁慶かもな』
かもな、じゃない。そのとおりだ。
そう思う一方で、別の書き込みに頬が緩んだ。
『出なくてもいいだろ。ここで決着ついてんだから』
……まあ、そういう人がいるなら、悪い気はしない。
怖くなればアカウントを消せばいい、と何度も思った。
でも、二十万人。
誰にも見向きされなかった俺の言葉を、二十万人が読んでいる。
失うには、惜しすぎた。
* * *
その日、俺は母に頼まれて郵便局まで出かけた。
帰りに腹が減った。財布には千円札が二枚。たまには外で食べてもいいだろう。
裏通りに、小さな看板があった。
『ごはん屋 なつこ』
引き戸の向こうをのぞく。カウンターが六席ほどと、小さなテーブルが二つ。昼どきなのに客はいない。
ありがたい。
「いらっしゃいませ」
カウンターの中から、女将が声をかけてきた。目が合う前に、俺は壁の品書きを見た。
「今日はカレーライスがおすすめですよ」
顔を上げると、女将はこちらの返事を待っていた。
「あ、じ、じゃ、そ、それを」
人は苦手だ。初対面の女性ならなおさらだ。
それにしても、と俺は思った。
メニューがあるのに、おすすめを言う。客に選ばせたいのか、選ばせたくないのか。どちらかが、どちらかを否定している。
いや、待て。
おすすめは、選ぶ手間を省くための親切だ。メニューは、それでも自分で選びたい客のためにある。否定し合っているのではない。二段構えだ。
……隙がない。
それに、カレーは好きだ。問題ない。
やがて、白い皿が目の前に置かれた。
「どうぞ、ごゆっくり」
つやのある茶色いルーが、ご飯の片側にたっぷりとかかっていた。ごろりとしたじゃがいもとにんじん、ほどよく脂のある豚肉。玉ねぎはよく煮込まれて、縁のほうがほとんどルーと一体になっている。
専門店のような飾りはない。家で作るカレーを、丁寧に仕上げたような一皿だった。
一口食べた。
うまい。
まず玉ねぎの甘さがきた。続いて豚肉の旨みが広がり、少し遅れてほどよい辛さが追いかけてくる。じゃがいもはほくほくしているのに煮崩れておらず、にんじんも芯まで柔らかい。
特別変わった味ではない。だからこそ、スプーンが止まらなかった。
メニューとおすすめの関係について、気づけば考えるのをやめていた。
家のカレーも好きだけど、これは少しだけ贅沢だな。
大きめの豚肉を一切れ、ご飯に乗せる。立ちのぼる匂いだけは、家の台所の匂いとよく似ていた。
ルーの艶が、光った。
光源がない。カレーが光る理由が――
考え終わる前に、光は視界を覆っていた。
――佐藤千紗の記憶――
お母さんに手を引かれて、図書館の前に来ている。
人がたくさんいて、花がいっぱい置いてあった。
その真ん中に、男の人の銅像が立っていた。
背筋を伸ばして、胸を張って、遠くを見ている。偉い人の顔だ。
台のところに難しい字がたくさん書いてある。
でも、名前なら読めた。
佐藤和也。
お父さんと同じだ。
「ねえ、お母さん。これ、誰?」
「誰だと思う?」
「知らない人!」
お母さんが、おかしそうに私の手を揺らした。
「お父さんだよ」
「うそ!」
「本当よ。町の人たちが建ててくれたの」
もう一度、銅像を見た。
お父さんは、知らない人が来ると別の部屋へ逃げる。
たまに、私からも逃げる。
お母さんからも逃げる。
こんなふうに胸を張っているところなんて、見たことがない。
「全然似てない」
お母さんは、周りの人が振り向くくらいの声で笑った。
「帰ったら、カレーだからね。お父さんが作って待ってるって」
お父さんのカレーは、おばあちゃんのと同じ味がする。
だから、銅像より、そっちのほうがいい。
お母さんの笑い声が、白く遠のいた。
顔を上げると、女将がこちらを見ていた。
「辛すぎました?」
「い、い。お、おいし、す」
いつも以上に喋れていない気がしたが、どうでも良かった。
何なんだ、今のは。
図書館。銅像。佐藤和也。
あんな偉そうな顔をした男が、俺だって?
同姓同名だろう、と思いたかった。だが、女の子は明らかに父親の話をしていた。目線の高さも、お母さんの手の温かさも、妙にはっきり残っている。
何より、銅像の顔立ちは、鏡で見る俺の顔とそっくりだった。
ということは、あの子は俺の娘なのか。
結婚? 俺が? まさか。
そして、銅像だ。
ネットで目立つだけでも恐ろしいのに、銅像になんかなったらどうする。知らない人に毎日顔を見られる。写真を撮られる。小学校で、あの立派な人物を見習いましょう、などと言われるかもしれない。
無理だ。
だいたい、あの表情が気に入らない。俺はあんな顔をしたことがない。
残りのカレーを食べるあいだ、また白い光が来ないか気になって仕方がなかった。
何も起こらなかった。カレーは最後までおいしかった。
「ありがとうございました。またどうぞ」
女将は変わらぬ様子だった。
俺は、白い光と女将の間に矛盾がないか探した。見つからない。この人はたぶん、本当にカレーを作っているだけだ。
……隙がない。
俺だけが、おかしなものを見てしまったらしい。
* * *
帰宅して、真っ先に自分のアカウントを開いた。
あれが本当の未来だとしても、原因はきっとネットの人気だ。
人気がなくなればいい。
方法は簡単だ。俺が立派な人間ではないと知ってもらえばいい。
まずは無職だと公表した。実家暮らしの三十二歳。働いても、人とうまく話せなくてすぐ辞めてしまう。職場で何が怖かったのか。なぜ質問も相談もできずに追い詰められるのか。ネットでは矛盾を見つけられるのに、対面ではなぜ黙ってしまうのか。
全部、正直に書いた。
さあ、どうだ。
『代弁者w無職なのかよw』
『勝手に有能な会社員を想像してたわ』
『こいつには「働いてから言え」で全部勝てる』
『無職って話と、議論の中身は関係ない』
いいぞ。最後は余計だが、全体としては悪くない。
フォロワーが三十人くらい減っていた。
久しぶりに安心して眠れた。
翌朝、三千人増えていた。
「は?」
騒ぎの中心が変わっていた。
『質問できなくなる心理の説明、的確すぎる』
『指示する側は黙ってる人を「分かってる」と思いがちなんだよな』
『うちの新人が急に辞めた理由、もしかしてこれか』
『無職なのに職場のことに詳しいの何なん』
俺は最後の書き込みを二度読んだ。
無職だから詳しいんだ。辞める側の専門家だ。
無職だと告白したんだぞ。
もっと呆れてくれ。
昔から俺を追っていた人の中には、離れていく人もいた。
『レスバが見たかったんだけど』
『前と別のアカウントみたい』
これだ。こういうのを待っていた。
ところが、その投稿に新しい人たちが反応していた。
『昔は知らないけど、今の投稿は結構読む』
『この人のこと、別に好きじゃない。でも自分でも説明できない感覚を言い当てられると気になる』
フォロワーは、差し引きで増えていた。
人気の種類を変えてどうする。
人気そのものをなくしたいんだ。
* * *
母から就職の話をされたのは、そんな頃だった。
「和也、そろそろ何か考えてるの?」
「……考えてる」
「そう」
それだけだった。
俺は妙に腹が立った。
小言を言われたわけでもないのに、責められた気がした。かといって、何も言われないのも居心地が悪い。母が悪いわけではない。分かっているから、なおさら腹が立つ。
部屋に戻り、扉をわざと大きな音を立てて閉めた。
そして、その気持ちを投稿した。
母の何気ない質問を、自分で勝手に非難へ変換してしまうこと。何も言われなくても肩身が狭いこと。その息苦しさを、母の態度のせいにしたくなること。
母親に八つ当たりする無職の三十二歳。
こんな息子が、銅像になるわけがない。
『いや、それはお母さんかわいそうだわ』
『俺も実家にいたときそうだった。言われてないことまで言われたと思い込んじゃう』
『娘に言われて車手放したおっさんだけど、親のほうも、言われたことちゃんと聞けてないことあるよ』
『親になってから読むと、ちょっと刺さる』
俺の投稿をきっかけに、親子の距離感についての議論が始まった。俺を知らなかった親世代にまで広がっている。
フォロワーは、なぜか増えていた。
やめてくれ。
「和也ー。洗濯物、取り込んでー」
階下から声がした。
取り込んだ洗濯物の中には、俺の靴下が四足あった。
情けなさなら、まだまだある。
だが、もう投稿するのはやめようと思った。
* * *
二週間、何も書かなかった。
通知が減った。俺についての話題も少なくなった。
フォロワーは、何もしなければ増えない。
それでいい。銅像にならずに済む。
そう思っているのに、一日に何度も画面を開いた。
十二日目には、とうとう古い投稿への反応まで見にいった。
十三日目、少し前の論争が別の場所で話題になっていた。俺の名前はほとんど出ていなかった。
寂しかった。
何が寂しいんだ。
十四日目、我慢できなくなった。
人目につくのが怖くて黙っていたのに、誰にも見られなくなった途端、自分の存在が薄くなったように感じる。その落ち着かなさについて書いた。
送信して三秒後、後悔した。
夕方には、また通知が三桁になっていた。
『生存確認』
『二週間、毎日見に来てた』
『これ読んで「ああ、それで俺は通知切れないのか」ってなった』
俺は設定画面を開いた。
アカウントの削除まで進んだ。これまでの投稿やフォロワーとのつながりが失われます、と書いてある。
指が止まった。
三十万人以上。
しかも、まだ増えている。
俺は設定画面を閉じた。
くそっ。
* * *
出版社の編集者からダイレクトメッセージが届いたのは、その翌日だった。
これまでの投稿を読んでいて、ぜひ書籍を出してほしいという。
俺はすぐに断った。
本なんか出せば、もっと有名になる。あの銅像に一歩近づく。
翌日、長い返信が来た。要約するとこうだ。
『そこをなんとか』
企画の説明が添えてあった。出版社側で国内外の問題や議論を選び、資料を用意する。俺には、それを読んで感じた違和感や、見落とされている点を言葉にしてほしい。何でも知っている人を探しているのではない。必要なのは、俺の見方だという。
末尾に、条件が書いてあった。
初版二万部を想定。定価は千六百円程度。印税率は十パーセント。
頭の中で計算した。
三百二十万円。
……えっ。
電卓を開いた。
やっぱり、三百二十万円。
俺は六畳の部屋を見回した。十年以上使っている机。座面がすり切れた椅子。最近、パソコンのファンが妙な音を立てる。
いや、駄目だ。
銅像になる。
画面を閉じた。
十分後に、また開いた。
何度読んでも条件は変わらない。
念のため出版社の公式サイトを確認した。担当者の名前も調べた。詐欺ではなさそうだ。
顔を出さなければいけないのか。そこだけでも聞いておこう。
返事はすぐ来た。打ち合わせはメール中心で構わない。取材やイベント出演は必須ではない。著者名についても相談できるという。
安心した。
いや、何を安心しているんだ。断るんだろうが。
俺は契約の細かい条件についても質問した。編集者は丁寧に答えてくれた。やり取りを重ねるうちに、話はどんどん具体的になっていった。
気づくと、俺は添付された契約書を読んでいた。
まずい。
銅像だぞ。あんなふうに、胸を張った銅像だぞ。
俺は目を閉じた。
三百二十万円。
目を開けた。
承諾の返事を送った。
* * *
一度だけ、会うことになった。原稿の最後の確認だけは、紙を前にしたほうが早いと言われたのだ。
駅前の喫茶店に、約束の十五分前に着いた。
五分前に、編集者が来た。俺より少し年下に見える女性だった。
立ち上がった。挨拶をしなければならない。
「あ、さ、佐藤、で、です、その、こ、このたびは」
言葉が、一斉に隠れた。
彼女は鞄から原稿の束を出し、テーブルに置いた。
「三章の二つ目の論点なんですが。ここ、基準が途中で入れ替わっているのは、引用元のほうですか、それとも私の要約のほうですか」
原稿を見た。
「……要約のほうです。元の発言では、最初から最後まで同じ基準で話しています」
「やっぱり。直します」
彼女は赤ペンで線を引き、次の頁をめくった。
二時間が過ぎていた。
言いかけた挨拶の続きは、言わずに済んだ。
* * *
それから二十数年がたった。
本は売れた。
予想外に売れた。
一冊目の発売日、駅前の書店をのぞいた。入口の平台に、俺の本が積んであった。手書きのポップに『あの代弁者、ついに書籍化』とある。
学生らしい二人組が一冊ずつ手に取り、そのままレジへ向かった。
俺は雑誌の棚の陰で、二人が出ていくまで動けなかった。
一週間後、重版の連絡が来た。
一冊目が売れて二冊目の依頼が来て、二冊目も売れた。いつの間にか外国語に翻訳され、知らない国の出版社からも連絡が来るようになった。
俺は毎回、資料を読み、引っかかったところを確かめ、自分の考えを書いた。分からないものは分からないと書いた。
取材依頼は、全て断った。
授賞式も欠席した。
講演会の招待状を読むだけで、今でも胃が痛くなる。
仕事は主にメールで済ませた。編集者とは何度か会ったが、何度会っても最初の挨拶だけは上手く喋れなかった。
彼女はそのたびに、あの喫茶店の日と同じように、挨拶を飛ばして本題から話してくれた。
十年ほど経った頃、俺は打ち合わせから帰って、長いメールを書いた。送信ボタンを押すまで、二時間かかった。返事は三分で来た。
翌年、俺たちは結婚した。
本を読んでもらえるのはありがたい。でも、俺の顔まで見に来なくていい。
両親には広い家を贈った。
引っ越しの荷物を運び出していたとき、母の本棚から、俺の一冊目が出てきた。
ページの端から、付箋がびっしりはみ出していた。
母は台所で、別の箱に皿を詰めていた。
俺は本を段ボールに戻し、蓋を閉めた。
税金も、多額に納めることになった。
こんな俺にも、娘が出来た。
ある日、市から連絡が来た。
市立図書館の前に、俺の銅像を建てたいという。広場には、市が輩出した著名人の銅像が並んでいるのだ。
断った。
当然だ。
すると、辞退したことが報じられた。
『本人が嫌がってるならやめたほうがいい』
『たくさん税金払ったんだろうし、銅像くらいいいだろ』
『銅像で初めて顔がわかるってすごい』
『相変わらず表に出ない人だな』
また話題になった。
市の担当者は丁寧だった。地域から要望が寄せられていることも、反対意見があることも、隠さず伝えてくれた。本人が望まないなら中止する、とも。
それを読むと、今度は断るのが怖くなった。
知らない人たちが準備したものを、俺の一言で取りやめにする。そう考えるだけで、胸が苦しくなる。
中止してください、と打っては消した。
どうぞご自由に、と打っては消した。
何日も迷った末に、俺は後者を送ってしまった。
いちばん送ってはいけない返事だった。
ただし、条件はつけた。除幕式には出ない。取材には応じない。顔の確認も、なるべく最小限にしてほしい。
そして今日、俺の銅像が建った。
俺は自宅の六畳の仕事部屋で、中継を見ていた。台所の鍋には、二人が帰ってくる頃に温め直すカレーが入っている。昔の実家とは違う家だが、部屋の広さだけは変わらない。このくらいが落ち着く。
図書館前には、思ったより大勢の人が集まっていた。
白い布が外される。
背筋を伸ばし、胸を張り、遠くを見つめる男が現れた。
あの日、カレーを食べながら見た男だ。
立派な顔をしている。
腹が立つほど立派な顔だ。
銅像の右手は、胸の前で固く握られていた。
俺は人前で、ポケットから手を出したことがほとんどない。
台座に刻まれた名前も、間違いなかった。
佐藤和也。
スマートフォンが震えた。
妻から写真が届いた。銅像を見上げる娘の後ろ姿。足元の花束。そして、短いメッセージ。
『千紗が、全然似てないって』
俺は画面を見つめた。
そのとおりだ。
全然似てない。
中継では、来賓が銅像を挟んで記念写真を撮り始めた。
俺は音量を下げた。
通知の数字が、また増えている。
見たくない。
でも、気になる。
俺はスマートフォンを手に取った。
……ちょっとだけ。
――了――




