第11話 赤いマニキュア
母の部屋を片づけに行くというのに、朝から靴下が片方見つからなかった。
「洗濯機の横に落ちてたよ」
圭吾が差し出したのは、私が探していた灰色の靴下だった。
「ありがとう。なんでそんなところに」
「詩織が脱いだんじゃないの?」
「覚えてない」
結婚して四か月。圭吾は、私の靴下が消えそうな場所をだいたい覚えてしまったらしい。
私は靴下を履き、玄関に置いた鞄を持ち上げた。軍手と、油性ペンと、母のアパートの鍵が入っている。
「お昼はどうする?」
「向こうで食べるよ。お父さんとは二時に待ち合わせだから」
「夕飯は俺が作っておく」
「ほんと?」
「期待しすぎないでね。多分、炒め物」
「ありがと。帰ったらお皿洗う」
圭吾が玄関まで見送ってくれた。
「無理しないで。重いものはお父さんに任せなよ」
「お父さんだって、もう若くないんだから」
「じゃあ、二人とも無理しないで」
ひらひらと手を振った。
扉を閉めると、鞄の中で鍵が小さく鳴った。
* * *
母が亡くなって、三週間になる。
六十歳だった。古いアパートの部屋で脳梗塞を起こし、見つかったのは二日後だったという。
警察から連絡があったとき、私は仕事中だった。
「杉原早苗さんのご家族の方でしょうか」
杉原早苗。
久しぶりに聞く名前だった。
母と最後に会ったのは、六年前だ。
母は昔から、財布の中身と相談するのが苦手だった。競馬で勝った日は、頼んでもいないケーキを三つも買ってきた。負けた日は、夕飯のおかずが一品減った。パチンコで大当たりした話はいつまでもするくせに、負けた金額は決して言わなかった。
子供の頃は、それが母らしいと思っていた。
母は、笑い声の大きい人だった。私がテストで百点を取れば、答案を冷蔵庫に貼った。運動会で転んでも、帰りに好きなアイスを買ってくれた。
でも、何かを買う前に貯金するという発想だけは、最後まで持てなかったらしい。
大学を卒業して働き始めると、母が出してくれた学費は七年かけて全額返し、生活費も別に送った。
最初のうち、母は電話のたびに喜んでいた。
「こんなにいいの?」
「いいよ。学費、出してもらったし」
「ちゃんと自分のためにも使いなさいよ」
それを言うのは、母の方だった。
やがて、母からの電話が増えた。
数万円だけ。今月いっぱいだけ。次の給料日まで。
ある日、職場に知らない男から電話がかかってきた。
「杉原早苗さんの件なんですが」
切っても、別の番号からまたかかってきた。
母に電話すると、いつもの声で謝られた。
「ごめんね。もうしないから」
翌月にも、また職場へ電話が来た。
上司に事情を説明し、電話番号を変えた。母から届く着信も止めた。
私はやれることをやった。
そう思うことにしている。
母には、結婚したことも知らせていない。
午後二時、父と母のアパートで待ち合わせている。
電車を降りると、まだ少し早かった。昼食を済ませてから行こう。
* * *
大通りから一本入ったところに、小さな看板があった。
『ごはん屋 なつこ』
引き戸を開けると、ごま油で炒めたごぼうの香ばしい匂いがした。
「いらっしゃいませ」
カウンターの向こうに、エプロン姿の女性がいた。
髪を後ろでひとつにまとめている。爪は短く切りそろえてあって、料理をする人の手だった。
「一人です」
「こちらへどうぞ。今日は豚汁定食がおすすめですよ」
「じゃあ、それをお願いします」
腰を下ろして鞄を足元に置く。
テーブル席では、竹刀袋を脇に置いた女子高生が母親と楽しそうに話し、その隣で弟らしい男の子がスマートフォンを眺めていた。
私にもいつか、あんな家族ができるのかな。
「お待たせしました」
大きな椀には、大根、ごぼう、人参、こんにゃく、豚肉がたっぷり入っていた。白いご飯とだし巻き卵、小鉢には漬物。
「どうぞ、ごゆっくり」
私は両手を合わせ、豚汁をひと口飲んだ。
熱い。味噌の向こうから、豚肉の脂の甘みが広がる。ごぼうはしっかり柔らかいのに、噛むと香りが立った。大根には汁がよく染みている。
おいしい。
だし巻き卵を箸で割ると、ふわりと湯気が上がった。卵の甘さが舌に残るうちにご飯を口へ運ぶ。
午後はきっと、埃だらけになる。こういう昼食を食べておけば、少しは頑張れそうだ。
椀を両手で包み直すと、熱が指先にじんと沁みた。
もう一度、豚汁の椀に箸を入れた。
湯気が、光った。
光が広がり、椀も、箸も、カウンターも見えなくなった。指先には、椀の熱だけが残っていた。
どこかで椅子の脚が床を擦る音がした。
――杉原早苗の記憶――
「それじゃ、話にならないじゃない」
自分の口から、声が出た。
目の前に、父が座っていた。
今よりずっと若い。まだ白髪のない父が、テーブルの上の紙を指で押さえている。
「俺だって、できることはするって言ってるだろ」
「そういう問題じゃないでしょ」
「じゃあ、どうしろっていうんだ」
胸の奥が熱い。
握りしめた手が見えた。爪に塗られた赤いマニキュアは、先の方が少し剥げている。
母の手だった。
「これが精いっぱいなんだよ」
父が紙をこちらへ滑らせた。いくつかの項目が並んでいる。紙の端が指に触れた途端、突き返していた。
「いらない」
「早苗、意地を張るな」
「いらないって言ってるでしょ」
「あとで困るぞ」
「あんたのお金なんか、いらない!」
声が震えた。
悔しい。腹が立つ。こんな話を、いつまで続ければいいのだろう。
「お前一人でどうするつもりなんだ」
「何とかするわよ。私一人で」
「簡単に言うな」
「もういい!」
椅子を引いた。
テーブルの紙が少しずれて、父が手を伸ばした。
その手を見たくなかった。
扉へ向かって歩き出す。背中で父が何か言った。
振り向かないまま、すべてが白くなった。
持ち上げていたはずの箸から、大根がぽちゃんと落ちた。
私は自分の手を見た。爪には何も塗っていない。
さっきの赤いマニキュア。
子供の頃、母があの色をよく塗っていた。剥げかけたままにして、父に何度も注意されていた。
父も若かった。あの声も、テーブルの上の紙も、はっきり覚えている。
私は母の目で父を見ていた。母の手で紙を押し返し、母の喉から怒鳴り声を出した。
父は援助しようとしていた。
それを、母は断った。
あの母なら、やりそうだ。自分が言い出したことを引っ込められない人だった。
「おしぼり、替えますね」
女将の声に顔を上げた。
「あ、ありがとうございます」
温かいおしぼりが、手元に置かれた。
女将はそのまま、次の客の膳を整えに戻っていった。
その佇まいが、今の私には少しだけ救いだった。
私は豚汁をもうひと口飲んだ。さっきと同じように、ごぼうの香りがした。
* * *
アパートへ向かう道で、あの春のことを思い出していた。
両親が離婚したのは、私が十八歳の春だった。
父は黒田浩二、母は杉原早苗。私はしばらくして母の姓になり、今年、圭吾と結婚して竹内詩織になった。
父とは離婚後も、たまに食事をしたり、電話で近況を話したりしてきた。圭吾を紹介したときなど、私より父の方が緊張していた。
あの春、私は県外の私立大学に合格していた。
合格通知を机の上に広げて喜んだあと、入学案内に並んだ数字を見て、急に怖くなったのを覚えている。
入学金、授業料、下宿の敷金と家賃。教科書だって要る。両親は別々に暮らすことになったばかりだった。
「……ねえ、お母さん。本当に行ってもいいの?」
「何、今さら」
「お金、すごくかかるよ」
母は台所の椅子に座り、封筒から何枚かの紙幣を出した。私が受け取ると、まだ新しい紙の匂いがした。
「昔買ってた株がね、高く売れたの。だから心配しなくていいの」
「株?」
「そう。たまにはいいこともあるでしょ」
「そんなの持ってたんだ」
「お母さんだって、少しは考えてるのよ」
母は得意げに笑った。
「それにね、お父さんも、別れてから詩織の学費を少し出してくれてるの」
「……そうなんだ」
「だから、行きたかった大学に行きなさい」
私は何度も礼を言った。母は「もう、分かったから」と手を払うようにして、新しく買った通学用の鞄を肩に掛けてみせろと言った。
「うん、似合う。大学生っぽい」
「まだ高校生だけど」
「あとちょっとでしょ」
入学前には、父からも祝いの封筒をもらった。
「お父さんも、ありがとう」
「大した額じゃないが。頑張れよ」
父は、そう言って頭を掻いた。
あの頃は、何も疑わなかった。
株が高く売れたのだとしても、父の援助まで断る理由はない。母は父も少し出してくれていると言っていた。あの口論のあとで、父が考え直したのだろうか。
母のアパートの外階段には、ところどころ錆が浮いていた。
父は階段の下で段ボール箱を抱えていた。
「早かったな。昼は食べたか?」
「うん。豚汁定食」
「いいな、豚汁。こっちは駅前でそばだ」
「またそば?」
「好きなんだから仕方ないだろ」
父は昔から、迷うとそばにする。
扉を開けると、洗剤と古い畳の匂いがした。
六畳と四畳半の二間。低いテーブルと小さなテレビ、食器棚。壁に掛けられたカレンダーには、母が倒れた月の予定が二つだけ書き込まれていた。
『資源ごみ』
『美容院』
美容院には行けなかったのだろう。
私はカレンダーから目を逸らした。
「俺は台所やるから、お前は棚を見てくれ」
「うん。書類っぽいのは残すね」
「そうしてくれ。あとでまとめて確認しよう」
引き出しには輪ゴムや電池、使いかけのボールペンが入っていた。期限の切れた割引券の下から、古い馬券も出てきた。
何年も前の日付だ。
母らしい。
父に見せると、「当たってたら、こんな所にはないだろう」と言って、空のごみ袋を広げてくれた。
別の引き出しに、透明なファイルが何冊かあった。保険の案内、公共料金の通知、勤務先から届いたらしい封筒。
一冊には『離婚関係』と手書きされていた。
開くと、古い紙が何枚か挟まっていた。十七年前の日付が目に入る。
見覚えのない書類だった。
昼間の記憶がふと浮かんだ。中を読めば、父のいる部屋で、何かを知ることになる。台所で戸棚と格闘している父の背中を見て、今はやめておこうと思った。
私はファイルを『あとで見る』と書いた箱に入れた。
父と二人で作業を続けた。
母は湯飲みを五つも持っていた。来客が多い人ではなかったのに、柄が違うものが一つずつある。父は新聞紙に包みながら、一つだけ縁の欠けた湯飲みを見つけた。
「こういうの、残すんだな」
「まだ使えると思ったんじゃない?」
「そうかもしれんな」
金遣いは荒いのに、妙なところで物を捨てない人だった。
洗面所の小さな棚に、マニキュアの瓶がひとつ残っていた。
あの頃と同じ、赤い色だった。底のほうに、ほんの少しだけ残っている。蓋を回すと、口に固まった塗料がきしんだ。
昼に見た、剥げかけた爪と同じ色だった。
私は蓋を閉め、瓶を『あとで見る』の箱に入れた。
押し入れの奥から、小さな缶が出てきた。
蓋には花の絵がついている。昔、デパートで売っていた菓子の缶だ。
開けると、古い通帳が何冊も重ねて入っていた。
「お父さん、通帳あった」
「そうか。残高、確認しとかないとな」
私は畳の上に座り、いちばん新しいものを開いた。
末尾の残高は三千円ほどだった。
少し前のページには、私の名前がある。
『スギハラ シオリ』
五万円。次の月も、五万円。
送っていた頃の記録だ。
そのすぐ下に、見慣れない名義への振込がある。
『カ)アオバファイナンス』
知らない会社の名前だった。
別のページには、『ユ)タチバナショウジ』とあった。
ユ)タチバナショウジから七十万円の入金。同じ日に、カ)アオバファイナンスへ七十万円の振込。
残高は、また数千円になっていた。
こんな取引が何度も続いている。入ってきたお金が、ほとんどそのまま別の会社に流れていく。
私が仕送りした五万円も、その間に消えていた。
私は次のページをめくった。
私がボーナスから三十万円を送った月。その翌週には、別の会社への振込で残高がほとんどなくなっていた。
母から、電話が来た日のことを思い出す。
「少しだけ貸してくれない? 今度こそ最後だから」
あのとき私は、もう送れないと答えた。
それでも足りなかったのだ。
「詩織、何か見つかったか?」
父が後ろから覗き込んだ。
「お金、借りては返してたみたい。ずっと」
「……そうか」
父はしばらく数字を見たあと、また台所へ戻った。
母はいつから、こんなことをしていたのだろう。
私は通帳を閉じ、いちばん下にあった色褪せた一冊を開いた。
大学一年の春。
指が止まった。
また、金融会社だ。今度は大手の会社の名前だった。
『カ)ミライクレジット 入金 680,000』
三日後。
『セイナンダイガク 振込 620,000』
大学の名前が記されていた。
私が通っていた大学だ。
次のページには、別の入金があった。
『カ)サクラファイナンス 入金 850,000』
その二日後。
『クロダ シオリ 振込 720,000』
黒田詩織。
まだ母の姓になる前の、私の名前だった。
日付を確かめる。入学の準備をしていた、あの春だ。
思い出した。
母が台所の椅子に座っていた。
『昔買ってた株がね、高く売れたの』
封筒から出した紙幣は、まだ新しい匂いがした。
私は別のページをめくった。
秋にも入金と、大学への振込がある。次の年も、その次の年も。
大きな入金のあとに、授業料。数十万円の入金のあとに、私の口座への送金。
私は通帳を膝に置いた。
しばらく、通帳を閉じられなかった。
「お父さん」
「ん?」
「これ、見て」
父が隣にしゃがみ、通帳を受け取った。
大学名のある行を指でなぞる。次のページへ移り、また前に戻った。
「……こんな金、借りてたのか」
「私、知らなかった」
「俺も聞いてない」
父はゆっくり通帳を返した。
私は大学名が記された行を、もう一度見た。
昼間の記憶が戻ってきた。
『俺だって、できることはするって言ってるだろ』
『あんたのお金なんか、いらない!』
父からの援助を断ってまで、どうして。
私は顔を上げた。
さっきの、離婚関係のファイル。
『あとで見る』と書いた箱を引き寄せ、紙の束を取り出した。
「お父さん。これ」
父が一瞬、眉を寄せた。
「……ああ、あのときのか」
署名も判もない、古い条件案だった。
別居後の住まいのこと、家具をどう分けるかということ。何行か読み進め、私は途中で手を止めた。
『娘・黒田詩織は県外の大学への進学を断念し、地元で就職すること。これを条件に、生活費として月額五万円を援助する。』
私はもう一度読んだ。
県外の大学への進学を断念すること。
地元で就職すること。
「……これ、お父さんが出した条件なの?」
父は紙を見つめた。
「ああ」
「お前まで県外に出たら、暮らしが三つになる。俺の給料じゃ無理だった。お前が地元で働いてくれれば、母さんの暮らしも少しは助けられる。……ほかに思いつかなかったんだ」
父の背広の袖が、いつも擦り切れていたのを覚えている。休日にも仕事に出ていた。
私は、手元の紙をもう一度見た。
剥げかけた赤いマニキュア。
押し返された紙。
『何とかするわよ。私一人で』
あのとき、母はこれを突き返した。
私は県外の大学へ行った。
父が隣で小さく息を吐いた。
「早苗には、ずいぶん無理をさせたんだな」
私は紙を畳もうとした。折り目がなかなか合わなかった。
通帳には、職場に電話が来た頃の記録も、入学した春の記録も、同じように並んでいる。
どちらも消えない。
そのとき、母の声が浮かんだ。
『お父さんも、別れてから詩織の学費を少し出してくれてるの』
「お父さん」
「ん?」
「大学のお金……お父さんも少し出してくれてたんだよね?」
父が驚いたようにこちらを見た。
「いや」
私は返事を待った。
「入学祝いは渡したけど、学費は出せなかった。……一度も」
「でも、お母さんは……」
「何だ?」
「お父さんも出してくれてるって、私に言ってた」
父は、すぐには答えなかった。
「入学の前、お前に礼を言われたな。祝いの封筒のことだと思ってた」
やがて、私の手元の紙に目を落とした。
「……そうか」
それきりだった。
「お父さん」
「ん?」
「あのとき……お母さんがこの紙を突き返して、部屋を出ていったとき。お父さん、何か言った?」
父が顔を上げた。
「なんで、そんなことを」
「なんとなく。言った気がして」
父は、手元の紙に目を戻した。しばらくして、低い声で言った。
「行かせてやれるなら、行かせてやってくれ、と言った」
自分で条件を書いておいて、勝手な話だよな、と父は自分の手元に向かって言った。
「聞こえてたかどうかも、分からん」
聞こえていた、と思った。
『お父さんも、別れてから詩織の学費を少し出してくれてるの』
母は、あの一言を、父の分の学費にしたのだ。
私はファイルを閉じた。
台所にはまだ片づけていない食器があった。床には畳んだ段ボールが積まれ、窓際の小さな棚には、母の眼鏡が伏せて置かれている。
鞄の中で、スマートフォンが短く震えた。圭吾からだろう。
足元の『あとで見る』の箱の中で、マニキュアの瓶が傾いていた。底に残った赤が、窓からの光を受けて小さく光っている。
目の前にいる父のシャツの肩には、棚を動かしたときの埃がついていた。
私は立ち上がった。
「詩織?」
父が見上げる。
何か言おうとした。
でも、声にならなかった。
代わりに、父に抱きついた。
父の身体が一瞬固まり、それから腕が背中に回ってきた。
父にこんなふうに抱きついたのは、小学生の頃以来だった。
* * *
家に帰ると、圭吾が炒め物を温め直してくれた。
鞄から赤いマニキュアの瓶を出して、食卓に置いた。
「それ、お母さんの?」
「うん」
蓋を回すと、固まった塗料がきしんだ。もう、塗れない。
母には、結婚したことも言えなかった。
「……お母さんの話、してもいい?」
圭吾は箸を置いた。
「うん。聞かせて」
何から話せばいいのか、分からなかった。
私は、百点の答案が冷蔵庫に貼られていた話から始めた。
――了――




