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ごはん屋 なつこ  作者: K2MA


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12/14

第12話 七億円

 俺が七億円を当てたのは、鯖の味噌煮を食べている最中だった。


 その日の朝も、いつもの満員電車に乗っていた。


 吊り革を握る手の甲に、前の人のリュックが当たる。窓には、ネクタイの結び目が少し曲がった男が映っている。佐伯直人、三十三歳。勤続十一年の主任。


 去年の写真と並べても、たぶん見分けがつかない。


 通帳には、十一年かけて貯めた百二十万円がある。来年還暦を迎える母を、一度くらい海の見える宿へ連れていくつもりだった。


     * * *


 十一月最後の金曜日。


 会社を出ると、夜気が頬に冷たかった。コートの襟を立て、駅へ向かった。


 いつもの牛丼屋の手前で、味噌の煮える匂いに足が止まった。


 古びた雑居ビルの一階。少し引っ込んだ入口に、小さな看板が出ている。


『ごはん屋 なつこ』


 引き戸を開けると、温かな空気が頬を包んだ。


「いらっしゃいませ」


 カウンターの向こうに、女将が一人。客はほかにいない。壁の品書きは、どれも千円でお釣りが来た。


「今日は鯖の味噌煮がおすすめですよ」

「じゃあ、それをお願いします」


 鍋の蓋が持ち上がる音がして、甘い味噌の香りが店に広がった。腹が小さく鳴った。


 ほどなく、定食が運ばれてきた。


 鯖の味噌煮。ほうれん草のおひたし。豆腐とわかめの味噌汁。湯気の立つ白いご飯。鯖の上には針生姜がのり、皿の底に艶のある煮汁が溜まっていた。


「どうぞ、ごゆっくり」


 箸を入れると、ふっくら煮えた身がほろりとほどけた。煮汁を絡めて口に運ぶ。鯖の脂の甘みを味噌が包む。気づくと、ご飯を二口続けて頬張っていた。


 もう一口、煮汁ごと口へ運ぶ。外の夜気で冷えていた頬に、皿から立つ甘い湯気が当たった。


 煮汁が、光った。


 その光が広がり、カウンターも、箸を持つ自分の手も見えなくなった。


 頬に当たっていた湯気が、いつの間にか冷たい風に変わっていた。


――佐伯直人の記憶――


 セブンイレブンの隣に、小さな宝くじ売り場があった。窓口の上の蛍光灯が、もう点いている。


『年末ジャンボ宝くじ発売中!』


 赤と黄色の幟が、冷たい風にはためいている。


「バラで十枚ください」

「はい。三千円です。当たりますように!」


 封筒をコートの内ポケットにしまった。宝くじなんて、普段は買わない。その日に限って、なぜか足が向いた。


 大晦日。


 パソコンの画面の数字と、手元の券を見比べた。


 一等、七億円。


 番号を一つずつ指でなぞる。もう一度。さらにもう一度。指が震えて、券の端が小さく鳴った。


 椅子を蹴って立ち上がり、誰もいない部屋を何周も歩いた。


 それから、何年分もの日々があった。


 退職届を置いた机の、冷たい天板。目覚ましの鳴らない朝。


 そして、美咲がいた。


 二十六歳。艶のある黒髪に、涼しげな目元。笑うと目尻が少し下がる。照れると右手で髪を耳にかける。


 俺たちは一緒に暮らしていた。


 海の見えるホテルで迎えた朝。道に迷って、二人で腹を抱えた遠出。窓際の席で、美咲がフォークにパスタを巻きながら、目尻を下げていた昼。どこの店だったかは思い出せない。


「ねえ、今日の晩ご飯どうする?」


 ソファに寝転がる俺に、美咲が声をかける。


「何でもいいよ」

「それ、一番困る答えなんだけど」

「じゃあ寿司でも行こうか」

「昨日も外食したじゃん。今日は家で食べたいな。スーパーのお惣菜でもいいよ」

「七億持っててお惣菜か」

「七億あったって、唐揚げはおいしいでしょ」


 夕暮れの道を二人で歩く。惣菜売り場で、最後の一つの唐揚げをどちらが取るか言い合う。


 結局、美咲が半分に割って、大きいほうを俺の口に押し込んだ。


 なんでもない夜だった。


 その夕暮れの道が、白くかすんだ。


 頬に、また甘い湯気が当たっていた。


 厨房から、包丁がまな板を叩く音がする。


 俺はコートの内ポケットに手を入れた。


 何も入っていなかった。


 スマートフォンを出す。十一月二十七日、金曜日。店に入ってから、時計はほとんど進んでいない。


「お客さん、大丈夫ですか?」


 女将が、心配そうにこちらを見ていた。


「あ、はい。すみません」

「お口に合いませんでした?」

「いえ。すごくおいしいです」

「それはよかった」


 女将は安心したように厨房へ戻った。


 残りを食べた。何も起こらなかった。


 店を出ると、風が頬を打った。駅へ向かう人の流れの中で、交差点の向こうの若い女が髪を耳にかけるのを、つい目で追った。別人だった。


 スマートフォンが震えた。同僚の田村からだった。


『お疲れ。これから飲まない? いい店見つけたんだよ』


 いつもなら断る。


 電気の消えた自分の部屋の窓を、思い浮かべた。


『行くよ』


     * * *


 田村に連れていかれたのは、駅前のキャバクラだった。


 低いソファに腰を下ろすと、膝の置き場が落ち着かない。ほどなく、二人の女性が席についた。


 隣に座った女性が、膝の上で手を揃えて頭を下げた。


「こんばんは。美咲です」


 グラスを持ち上げかけた手が、止まった。


 黒髪。涼しげな目元。笑うと、目尻が少し下がる。


「……佐伯です」

「このお店、初めてですか?」

「うん。同僚に連れてこられて」

「私も、今日が初出勤なんです。佐伯さんが最初のお客さんで、ちょっと緊張してます」


 美咲は胸をなで下ろし、右手で髪を耳にかけた。


 俺は、その指先から目を離せなかった。


「どうしました?」

「いや、何でもない」


 休みの日は何をしているのか、と聞かれた。昼過ぎに起きて洗濯をしたら一日が終わる、と答えると、美咲は「誰にも起こされずに寝られるのって、幸せじゃないですか」と、本気でうらやましそうに言った。気づけば二人とも、氷の溶けたグラスを持ったまま話していた。


 連絡先を交換して店を出た。


 帰り道、俺は何度もコートの内ポケットに手を入れた。


     * * *


 翌朝、記憶の中の道をたどった。


 記憶の中では、窓口の灯りが点いていた。夕方まで待つ気には、なれなかった。


 駅から少し離れた商店街。見覚えのある交差点。角を曲がると、セブンイレブンがあった。


 その隣に、小さな売り場。赤と黄色の幟が、記憶と同じ角度で揺れている。


「バラで十枚ください」

「はい。三千円です。当たりますように!」


 封筒を内ポケットにしまった。


 番号までは覚えていない。


 売り場から三歩離れて、また戻った。


 翌日、同じ窓口で百枚買った。三万円を数える指は、思ったより迷わなかった。


 それからは、売り場の前を通るたびに財布を出した。内ポケットの封筒は、少しずつ厚くなっていった。


     * * *


 十二月に入ると、美咲の店に通うようになった。


 最初は週に一度。やがて二度、三度。


「あ、佐伯さん。ちゃんとご飯食べました?」


 美咲は昼間、小さな会社で事務をしていた。夜の仕事は、奨学金の返済と、引っ越しのための貯金のためだという。


「目標まで貯まったら辞めようかなって。給料日前は、普通に節約してますよ」


 先日は肉じゃがを煮込みすぎて、じゃがいもをすっかり崩したらしい。


「ほとんどカレーのルーみたいになっちゃって。味は肉じゃがなんですけど」


 二人で腹を抱えた。


 十二月の二週目、美咲がふと言った。


「駅前にパスタ屋さんができたの、知ってます? 窓際の席が明るくて、気持ちよさそうなんですよ」

「行けばいいじゃん」

「……佐伯さん、日曜はお休みですか? よかったら、一緒にランチ行きません?」


 俺は、テーブルの下で拳を握った。


「いいね。でも、せっかくだからもっといいところ行かない? ホテルのレストランとか」

「えー、そんな高いところじゃなくていいですよ」

「大丈夫。俺が出すから」

「そういうことじゃなくて、あのパスタが食べたくて」

「ホテルにもパスタくらいあるよ」


 美咲は、髪を耳にかけようとした手を、途中で下ろした。


「じゃあ、お任せします」


     * * *


 日曜日、一人一万円を超えるホテルのランチコースを予約した。


 窓の外に街並みが広がり、白いクロスの上に磨かれた銀器が並んでいる。美咲は「わあ」と言い、ナイフとフォークの順番を確かめるように、一度だけ俺の手元を見た。


 会計のあと、エレベーターを待ちながら言った。


「実は最近、投資がうまくいっててさ。結構まとまった資産があるんだ」

「へえ、すごいですね」


 投資で稼いだことなど、一度もない。どうせ、もうすぐ本当になる。


 ロビーを出ると、美咲が駅前の方角を見た。


「あのパスタ屋さん、今日も並んでましたね。今度、一人で行ってみようかな」

「また俺がいい店探すよ」


 美咲は「ありがとうございます」と、きれいにお辞儀をした。


     * * *


 金曜の夕方、会社を出たところで母から電話があった。


「直人? 今ね、旅行のパンフレット見てたのよ。海の見える宿って、こんなにあるのね」

「うん」

「でも、無理しなくていいからね。お母さん、近場の温泉でも十分なんだから」

「大丈夫だよ。楽しみにしてて」

「そう? じゃあ、楽しみにしてる」


 電話を切った。


 駅のほうへ数歩歩いてから、向きを変えた。


 その夜も、俺は店にいた。


 美咲は別のテーブルで接客していた。そちらからは、絶えず笑い声が上がっていた。


「佐伯さん、もう一杯いかがですか?」


 別の女性がメニューを開いた。俺は、六万八千円の欄を指さした。


 ボトルがテーブルに置かれた頃、美咲が戻ってきた。


「えっ、ボトル入れてくれたんですか? でも、無理しないでくださいね」

「無理してないよ」


 十分ほどで、美咲はまた呼ばれた。向こうの席から、彼女の笑い声が聞こえる。俺はグラスの氷を、溶けきるまで揺らしていた。


 戻ってきた美咲に、言ってしまった。


「ボトルも入れたんだけどな」


 美咲の笑顔が、一瞬だけ止まった。


「ありがとうございます。またすぐ戻ってきますね」


 店を出ると、クレジットカードの利用通知が届いていた。


 十二万六千円。


 画面を消して、内ポケットの封筒の厚みを指で確かめた。


 数日後には、彼女が欲しいと言っていた化粧品を買っていった。美咲は「なんか悪いです」と言って、箱を鞄にしまった。ボーイに呼ばれ、軽く頭を下げて席を立った。


 俺は、彼女が座っていたソファのくぼみを見ていた。


 帰りの電車で、銀行のアプリを開いた。


 十一年かけて貯めた百二十万円は、六十八万円になっていた。翌月のカードの請求予定額は、八十六万円。


 入金の履歴には、毎月自分で付けてきたメモが並んでいた。『母さん 宿』。


 カードローンの申し込み画面を開いた。


 借入希望額、五十万円。


 入力欄の上で、親指が止まる。電車が駅に着き、扉が開いて、閉まった。


 申込ボタンを押した。


     * * *


 クリスマス。


 店の席で、細長い箱を差し出した。


 美咲は、それを開けずに見つめた。


「ありがとうございます。でも、これ、受け取れないです」

「遠慮しなくていいのに。大した額じゃないよ」

「……そういうことじゃないんです」


 俺は箱をポケットに戻した。


 美咲は、空気を変えるように少し身を乗り出した。


「そういえば、先月大変だって言ってた案件、落ち着きました?」

「ああ、あれはもういいかな。もうすぐ会社、辞めるつもりだし」

「転職するんですか?」

「まあ、そんな感じ」


 言いながら、自分の口元が笑っていることに気づいた。


 美咲は笑わなかった。


     * * *


 十二月二十六日の夜。


『また、二人で会えないかな』


 既読がついてから返事が来るまで、部屋のエアコンが二度、止まってはまた動いた。


『ごめんなさい。年末はちょっと忙しくて』

『じゃあ、年明けでもいいよ』

『まだ予定が分からないんです』


 俺は部屋の明かりを消し、ベッドの端に座ってから打ち込んだ。


『俺、美咲ちゃんのこと本気で好きなんだ。付き合ってほしい』


 送信して、画面を伏せた。


 手の中で、震えた。


『ごめんなさい。そういう気持ちにはなれないです』


『どうして?』


 長い間があった。


『佐伯さんと話してるときは、すごく楽しいです』


 画面を明るくして、その一文を読み返した。


『でも、ごめんなさい』


『もう一度考えてもらえない?』


 それきり、返信はなかった。


 窓の外を、年の瀬の車が一台、遠ざかっていった。


 まだ、七億円がある。


 本当に手に入れたら、美咲も考え直してくれるかもしれない。


     * * *


 十二月三十一日。


 机の上に、輪ゴムで束ねた宝くじを並べた。


 パソコンに、一等の番号が表示される。


 一枚目をめくる。違う。


 十枚。二十枚。違う。


 輪ゴムを外す指が、うまく動かない。


 五十枚。百枚。


 違う。


 セブンイレブンの隣。赤と黄色の幟。記憶のとおりの売り場で買った。美咲にも会えた。名前も、顔も、髪を耳にかける手も同じだった。


 最後の一枚を、机に置いた。


 一等の券は、なかった。


     * * *


 外れ券の束に、輪ゴムをかけ直した。


 翌月には八十六万円の請求が来る。借りた五十万円の返済も始まる。


 会社は、辞めていない。


 スマートフォンには、美咲とのやり取りが残っていた。


『佐伯さんと話してるときは、すごく楽しいです』


 指で画面を上へ送る。十二月の二週目。


『駅前にパスタ屋さんができたの、知ってます?』


 窓際の席が明るくて、と彼女は言っていた。


 記憶の中で、美咲がフォークにパスタを巻いていた昼。どこの店だったかは、思い出せない。


 俺は、画面を消した。


 結局、あそこには行かなかった。


 目を閉じると、広いリビングに美咲がいた。七億円を当てた日の震えも、夕暮れの惣菜売り場も、少しも薄れていない。


 時計の針が、午前零時を回った。


     * * *


 年が明けて、数日が過ぎた。


 仕事の帰り、遠回りをして商店街を通った。


 セブンイレブンの隣の売り場は、もう幟を下ろしていた。窓口のガラスに、新しい貼り紙がある。


『当売り場から一等が出ました』


 七億円は、本当にあったのだ。


 あの夕方、灯りの点いた窓口の前に立っていたのは、俺ではなかった。


 しばらく、その文字の前に立っていた。


 見覚えのある細い通りの入口で、足が止まった。


 路地の奥に、小さな看板が見える。引き戸の向こうに、灯りがついていた。


 しばらく、その灯りを見ていた。


 灯りから目を離して、駅のほうへ歩き出した。


 外はまだ寒かった。コートの襟を立てた。内ポケットは、薄いままだった。


 歩きながら、スマートフォンを出した。


「直人?」

「宿のことなんだけどさ」

「うん」

「近場の温泉でもいいかな。来月、休み取るから」


 少し間があって、母の声が明るくなった。


「十分よ。楽しみにしてる」


 駅前のスーパーに寄った。


 惣菜売り場に、唐揚げのパックが一つだけ残っていた。半額のシールが貼ってあった。


 俺はそれを手に取った。


         ――了――


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