第8話 一両分
その日、長岡恵理は、見知らぬ誰かの一日を少しだけ動かした。本人は、最後までそれを知らない。
昼休みになる五分前、恵理は作りかけの資料を保存した。
あと少し手を入れれば完成する。けれど、急いで片づけなくても午後には十分間に合う。今日は外で昼ご飯を食べようと、朝から決めていた。
向かいの席の同僚が、さっきから何度か肩を回している。
恵理は引き出しから飴を一つ出し、何も言わずに彼女の机の端に置いた。
同僚は飴に気づいて、指先で小さく拝む仕草をした。
「長岡さん、今日のお昼どうする?」
「ちょっと行ってみたいお店があるから、外に出てくる」
「いいなあ。私、朝お弁当作っちゃった」
「明日は一緒に行こうよ」
「そうしよう」
恵理は椅子を引き、鞄を手に取った。
三十三歳。今の会社に勤めて九年になる。頼まれた仕事を断ったことは、一度もない。急ぎじゃないと言われた仕事ほど、早く片づけてしまうほうが落ち着く。
鞄の中には、読みかけの文庫本が入っている。休日は昼過ぎに近所の喫茶店で、その続きを読む。母からの電話には、毎回「元気だよ」と答えている。それが本当だった。
今の暮らしを、急いで変えたい理由はなかった。
定時は十八時。今日もおそらく、そのくらいには帰れるだろう。冷蔵庫がほとんど空なので、帰りに駅前のスーパーへ寄るつもりだった。
八月も終わりに近いのに、外はまだ蒸し暑かった。午前中ずっと冷房の中で座っていた体には、その暑さも悪くなかった。
* * *
会社から七、八分歩いたところに、細い路地があった。
この辺りの道は、九年も通っているので一通り知っている。先週、その路地を通ったとき、路地の奥にある小さな店が気になった。看板には『ごはん屋 なつこ』と書かれていた。
その日は時間がなくて素通りしたけれど、今日はちょうどいい。
引き戸を開けると、出汁の匂いがした。
「いらっしゃいませ」
カウンターの向こうで、女将が振り返った。
髪を後ろでまとめ、白いシャツの袖を肘まで折り返して、その上にエプロンをつけている。小さな店内にはカウンター席と二人掛けのテーブルがあり、先客が二人、黙々と箸を動かしていた。
「一人です」
「どうぞ。お好きな席へ」
恵理はカウンターの端に座った。
「今日は焼き鮭定食がおすすめですよ」
「じゃあ、それをお願いします」
「はい。少々お待ちくださいね」
女将はそう言って、すぐに厨房へ戻った。
恵理は湯呑みを持ち上げた。
こういう接客は好きだ。必要なことはきちんと聞いてくれるし、それ以上は構わない。初めて入った店で、何を話せばいいか考えなくて済むのはありがたい。
女将は、先客の湯呑みが空になる前に、黙って急須を傾けた。
言われる前に気づく人なんだな、と恵理は思った。
ほどなくして、膳が運ばれてきた。
「お待たせしました。どうぞ、ごゆっくり」
焼き鮭は厚みのある切り身で、皮のところにこんがりと焼き色がついていた。脇には大根おろしと小さなレモン。ほうれん草のごま和え、豆腐とわかめの味噌汁、白いご飯が並んでいる。
恵理はまず味噌汁を一口飲んだ。熱すぎない出汁の味が、空腹の胃に落ち着く。
鮭に箸を入れると、身がふっくらとほぐれた。表面にはほどよく塩がきいていて、中はしっとりしている。脂のうまみを味わったあとでご飯を口に入れると、もう一口鮭が欲しくなった。
皮も香ばしい。恵理は身を少し残しておき、最後に皮と一緒に食べようと決めた。
おいしい。
最近は会社の近くで昼食を済ませることが多かったけれど、少し歩けばこんな店もあるのか。もっと早く入ればよかった。
大根おろしをのせた鮭を、もう一口。
皿の端に取っておいた皮から、香ばしい匂いが立った。
皮の脂が、光った。
その光が広がり、箸も皿も、自分の手さえ見えなくなった。皮の焼けた匂いだけが、いつまでも残っていた。
次に見えたのは、夕方の道だった。
――長岡恵理の記憶――
空が薄いオレンジ色に染まり始めている。どこかの家から、魚を焼く匂いが流れてきた。
恵理は駅へ向かって歩いていた。
会社と駅の間にある裏通りだ。右手のシャッターを下ろしたクリーニング店も、少し先の赤い自動販売機も知っている。路面の端には、かすれた白線が残っていた。
前を歩く男性の背中が見える。
紺色のシャツに、右肩から掛けた薄い鞄。肩を落とし、背中を少し丸め、うつむき加減にゆっくり歩いている。
男性が脇道の前へ差しかかった。
突然、右手から自転車が飛び出してきた。
「あっ!」
声を出したときには、もう遅かった。
自転車の前輪が男性の身体にぶつかった。鈍い音がして、男性が横向きに倒れる。肩の鞄が地面を滑り、書類の端が覗いた。
自転車の乗り手が慌ててブレーキをかけた。
「すみません! 大丈夫ですか!」
男性は起き上がろうとして、顔をしかめた。右の足首を押さえたまま、立ち上がれない。
駅のほうから、発車を告げるベルが聞こえていた。
恵理は駆け寄ろうとした。
そこで、また視界が白くなった。
箸はまだ、口の少し手前にある。
恵理はそっと箸を下ろした。
眠っていたわけではない。さっきまで確かに、夕方の道を歩いていた。自転車がぶつかった音も、倒れた男性の顔も覚えている。
店内では、ほかの客が何事もなかったように食事を続けていた。
カウンターの向こうで女将が味噌汁をよそっている。変わった様子はない。
恵理は湯呑みのお茶を飲んだ。
あの道は、駅の手前の裏通りだ。スーパーに寄る日に通る道だから、よく知っている。クリーニング店も自動販売機も、ちゃんとある。
それにしても、どうして夕方の景色だったのだろう。
スマートフォンで時刻を確認する。十二時三十四分。昼休みはまだ残っている。
考えても分からないので、ひとまず食事を続けた。
鮭はおいしかった。少し冷めても、身の柔らかさは変わらない。
皮と一緒に取っておいた最後の一口を食べる頃には、恵理は夕方の道をもう一度思い浮かべていた。
会計を済ませると、女将がにこやかに頭を下げた。
「ありがとうございました。またどうぞ」
* * *
午後の仕事は予定どおりに進んだ。
資料を仕上げ、取引先からの問い合わせに返信し、同僚と翌日の段取りを確認した。途中で何度かあの光景を思い出したが、仕事の手が止まるほどではなかった。
十八時の少し前、課長が恵理の席に来た。
「長岡さん、悪いんだけど、この見積もり、今日中にざっと見てもらえる? 急ぎじゃないんだけど」
いつもなら、そのまま受け取っていた。
恵理は窓の外を見た。空が、昼に見た色に近づいている。
「明日の朝一番で見ます。今日は、少し寄るところがあって」
課長は少し意外そうな顔をしてから、「もちろん」と言った。
十八時を少し過ぎたところで、恵理はパソコンを閉じた。
「お疲れさまでした」
「お疲れさま。明日ね」
課長の「もちろん」は、思っていたよりずっと軽かった。
ビルの外へ出ると、空は昼間に見た景色と同じ色になっていた。
駅前のスーパーに寄る日は、大通りより裏通りを抜けるほうが近い。だから、通る理由はあった。
けれど、いつもより少しだけ足が速くなっていた。
大通りを外れ、古い商店の並ぶ裏通りへ入った。角を曲がると、見慣れたクリーニング店がある。シャッターは下りていた。
少し先には、赤い自動販売機。
見慣れた場所なのに、昼に見た光景と重なると妙な気分だった。
心臓が少し速くなる。
少し先を、紺色のシャツに、右肩から薄い鞄を掛けた男性が歩いていた。肩を落とし、背中を少し丸め、うつむき加減にゆっくり歩いている。
あの人だ。
男性は数歩先で、脇道に差しかかろうとしていた。恵理は足を速めた。
脇道の方を見る。
奥から、タイヤがアスファルトを転がる音が近づいてくる。
「危ない!」
考えるより先に手が動いた。
恵理は男性の腕をつかみ、自分の方へ強く引いた。
次の瞬間、自転車が二人の目の前を走り抜けた。
風が頬をかすめる。乗り手が振り返り、何か叫んだが、すぐに角の向こうへ消えた。
男性は目を見開いたまま、立ち尽くしていた。
「……え?」
「大丈夫ですか?」
「は、はい。今の、自転車……」
「急に出てきましたね」
男性は脇道を見て、それから恵理に向き直った。
「ありがとうございます。全然、気づきませんでした」
「ぶつからなくてよかったです」
恵理はつかんでいた腕を離した。
男性は何度も頭を下げた。恵理は軽く会釈して、歩き出した。
振り返ると、男性は腕時計を確かめ、足早に駅の方へ向かっていた。
恵理は赤い自動販売機を見上げた。
あんなにはっきり見たのに。
自転車はぶつからなかった。
そういうこともあるのだろうか。
いや、そもそも何があったのか分かっていないのだけれど。
恵理は首を傾げ、駅前のスーパーへ向かった。
* * *
駅へ向かう途中、自転車に轢かれそうになった。通りがかった女性が腕を引いてくれたおかげで助かったが、礼を言っているうちに少し時間を取られた。
梶原拓海は、改札を抜けたところで駅の時計を見た。
電車には間に合う。
いつもなら、ホームの少し先まで歩く。降りる駅の階段に近い車両が決まっているからだ。だが今日は、いつもより一両手前で乗るしかなかった。
階段を下りたところへ、電車が滑り込んできた。
拓海は手近な扉から乗り込んだ。
たかが一両の違いだ。別に困ることもない。
肩に掛けた鞄の口から、紙の束の端がのぞいていた。今日、出版社へ持っていった、新しい話の企画書だった。
「今の売れ行きだと、次の本をすぐ出すのは難しいですね」
担当編集者は申し訳なさそうにそう言って、企画書を返してきた。
初めて出した絵本は、あまり売れなかった。地元の作家だからと、沿線の書店がいくつか小さな棚を作ってくれた。平積みされていたのは、最初の数週間だけだ。
三十六歳。次の本が出る保証もないのに、この先も描き続けるのか。
駅まで歩くあいだも、そればかり考えてうつむいていた。
拓海は企画書を鞄の奥へ押し込み、さっき女性につかまれた腕をそっとさすった。少し強く引かれた感触が、まだ残っている。
電車が動き出した。
拓海は吊り革につかまり、何となく車内を見渡した。
少し離れた席で、中学生くらいの女の子が、父親らしい男性と小声でしりとりをしていた。
向かいの座席には、小さな子供と母親が並んで座っていた。
子供は膝の上に絵本を広げ、顔を近づけている。五歳か六歳くらいだろう。ページの隅を指で押さえ、絵を一つずつ確かめるように眺めていた。
拓海の目が、表紙の絵に止まった。
赤と白のしま模様の、小さな灯台の子が歩いている。
見間違えるはずがない。
自分の本だった。
子供はページをめくった。途中で立ち止まっては、また少し前へ戻る。母親は隣で買い物袋を抱え、時々その手元を覗き込んでいた。
「またそれ読んでるの?」
「うん」
「昨日も読んだでしょ」
「うん」
子供は楽しそうに答え、またページをめくった。
表紙の角が少し擦れている。新しく買った本ではなさそうだった。
拓海は知らず知らずのうちに、身を乗り出しかけていた。
子供が最後のページを開いた。
しばらく、そのページを見ていた。
それから本を閉じた。
そして、もう一度開いた。
拓海は吊り革を握ったまま、その小さな手を見ていた。
発売されたとき、書店に並んだ自分の本を何枚も写真に撮った。初めて自分の絵本が形になったことが嬉しくて、店を出ても何度か写真を見返した。
売れ行きの数字を知らされてからは、写真を開かなくなった。
けれど目の前では、あの本が読まれている。
何度も。
子供は母親にページを見せ、何か小さな声で話していた。電車の音に紛れて言葉までは聞こえない。母親が頷くと、子供は満足そうに、本を胸に抱え直した。
次の駅で親子が立ち上がった。
「本、しまって」
「持ってる」
「落とさないでね」
「うん」
子供は絵本を胸に抱えたまま、母親のあとについて降りていった。
拓海は扉が閉まるまで、その後ろ姿を見送った。
* * *
帰宅すると、拓海は鞄を机の脇に置いた。
スマートフォンを出し、長いあいだ開いていなかった写真のフォルダを開いた。発売日の書店の棚に、自分の本が並んでいた。
一枚ずつ、指で送った。
机の隅には、描きかけの原稿が重ねてあった。
一冊目の続きだった。売れなかった本の続きを描いても仕方がない。そう思って、途中で閉じたままにしていた。
拓海は原稿を机の真ん中へ引き寄せ、一枚目をめくった。
あの子がいた。
電車の子供が、何度も最初から読み返していた本の、あの子だった。
途中で止まった物語の先には、まだ白いページがある。
椅子に座り、鉛筆を手に取った。
閉じて、また開いた小さな手が、目に残っていた。
拓海は白いページに線を引いた。一度消して、また描いた。
鉛筆の線が、少しずつ増えていった。
* * *
その頃、恵理は自宅で夕食を済ませ、お茶を淹れていた。
窓の外には、向かいのマンションの明かりが見える。買ってきた野菜は冷蔵庫にしまった。あとは少し本を読んで、風呂に入ればいい。
ふと、夕方のことを思い出した。
あの道も、男の人も、自転車も、昼間見たとおりだった。
ただ一つ、ぶつからなかったことを除けば。
あれはいったい、何だったんだろう。
恵理は湯呑みを口に運んだ。
考えても、さっぱり分からない。
それより、今日のお昼の焼き鮭はおいしかった。皮までぱりっとしていて、ご飯もよかった。
明日は、向かいの席の彼女を誘って、あの店に行こう。
――了――




