第7話 誰にも言うなよ
私の口は、たぶん、人より少し軽い。
自覚はある。だから秘密を聞くときには、ちゃんと「誰にも言わない」と約束する。なのに、話しているうちに、つい余計なことまで喋ってしまう。
「莉央にだけは言うなって、先週も言ったよね」
講義を終えて学生ラウンジに入った途端、茉由に睨まれた。
「待って。何の話?」
「私がバイト辞めるかもって話」
「ああ……あれ、もう決まってるんじゃないの?」
「決まってないから内緒って言ったの!」
悪いのは私だ。分かっている。
「ごめん。ほんとにごめん。もう言わない」
「それ、何回聞いたと思う?」
茉由は天井を仰いで、それから吹き出した。こういうやり取りも、いつものことだった。
私たちが入っているのは、大学の交流サークルだ。空き教室で喋ったり、休日に出かけたりするだけの、ゆるい集まり。
今日は珍しく人数が多かった。四年の大野先輩は窓際で漫画を読み、藤井君はスマホでホラー映画の予告を流して女子に嫌がられている。杉本君は、いつものように端の席で黙っていた。
「沙耶は?」
「さっきまでいた。電話するって出てった」
「航平さん?」
「たぶん」
沢井沙耶の彼氏、戸田航平さんは、三日前から連絡が取れなくなっていた。サークルの元部長で、今は社会人。家にも帰っていないらしい。
沙耶はここしばらく、誰かにつきまとわれていた。帰り道で同じ足音が続いたり、アパートの近くに見覚えのない人影が立っていたり。航平さんはその相手を突き止めようとしていた、と聞いている。
「航平さん、なんか危ないことに首突っ込んでたって噂だよ」
藤井君が、スマホから顔を上げずに言った。
「藤井、そういうのやめて」
茉由が小声でたしなめた。
窓際で、大野先輩がページをめくる手を止めた。大野先輩は去年、沙耶に振られている。みんな知っているけれど、誰も口にしない。
私が知っているのは、私が喋ったからだ。
「莉央、沙耶にあんまり聞かないでね」
「……分かってるよ」
今度こそ、余計なことは言わないつもりだった。
* * *
お昼を食べ損ねた私は、大学を出てから、知らない路地に入り込んだ。
大通りの騒がしさが遠のいたところに、小さな店があった。
『ごはん屋 なつこ』
引き戸を開けると、出汁のいい匂いがした。
「いらっしゃいませ」
カウンターの向こうの女の人が、穏やかな声で迎えてくれた。話しかけたら、何でも聞いてくれそうな人だった。何から話そうか考えているうちに、向こうが先に口を開いた。
「今日はオムライスがおすすめですよ」
「じゃあ、それください」
答えた途端、お腹が大きく鳴った。女将さんは聞こえなかったふりをして、フライパンを火にかけた。ありがたい。
運ばれてきたオムライスは、卵がふっくらしていて、ケチャップが細くかかっていた。スプーンを入れると、内側から湯気が上がる。
卵は柔らかく、チキンライスの味は濃すぎない。ケチャップの酸味が、あとから少しだけ舌に残る。
もうひと口すくおうとしたとき、スプーンの柄が手首の内側に触れた。
ひやりとした。
ケチャップの艶が、光った。
手首の冷たさだけを残して、オムライスも、手の中のスプーンも見えなくなった。
――戸田航平の記憶――
手首が痛かった。
何かが食い込んでいる。動かそうとしても、動かない。足もだ。
地面が冷たい。背中に、ごつごつしたものが当たっている。
視界の隅に、コンクリートの段差が見えた。
青い鉄扉。塗装の剥げた手すり。階段の横に伸びた、細長いひび。
背後から腕が伸び、布が目に押し当てられた。
真っ暗になった。
「誰にも言うなよ?」
男の声がした。近い。
「は、はい……」
喉から出た声は、知らないほど低かった。
「誰にも言うなよ?」
「絶対に言いません。だから、ほどいてください」
男は少し黙った。
それから、妙に穏やかな声で言った。
「いいや、お前は言うね。言っちゃうね」
暗闇の向こうで、何かが擦れる音がした。
言わない。
絶対に――。
白くなった。
私は、スプーンを握りしめていた。
口の中には、まだ卵の味が残っている。なのに、手首が痛い。
慌てて袖をまくった。何も巻きついていない。赤い跡すらない。
今の私は、縛られて目隠しされた男の人だった。
あの場所も知っている。大学の旧講堂の裏だ。使われなくなった建物の外階段。新入生の頃、皆で探検みたいに歩いた。
「お水、いかがですか?」
肩が跳ねた。女将さんがグラスを持って立っている。
水をひと息に飲んだ。女将さんは何も聞かず、厨房へ戻っていった。
オムライスは半分以上残っていた。おいしかったのに、もう喉を通らなかった。
会計を済ませる。
「ありがとうございました。またどうぞ」
店を出てからも、耳の奥で男の声が続いていた。
いいや、お前は言うね。
* * *
「ねえ、聞いて。今日、ものすごく怖いことがあった」
言ったあとで、しまった、と思った。
けれど茉由が「何?」と身を乗り出したので、もう止まらなかった。
サークルの部屋には、七、八人がいた。沙耶は来ていない。テーブルの上は、紙コップとお菓子の袋で散らかっていた。
喋りながら手の中で鍵束をいじるのは、私の癖だ。気がつくと、それも紙コップの間に放り出していた。
「ご飯食べてたら、急に真っ白になって、気がついたら男の人になってたの。手足縛られてて、場所が旧講堂の裏。あの青い扉のとこ」
「なにそれ、怖っ」
「で、目隠しされて、男の声がするの」
私は声を低くしてみせた。
「『誰にも言うなよ?』って。こっちが『絶対言いません』って言ったら、『いいや、お前は言うね。言っちゃうね』って」
あの声を真似するのは、思ったより嫌な感じがした。
「それ、誰かの声に似てた?」
藤井君だった。スマホを置いて、身を乗り出している。ホラーの話になると、いつもこうだ。
「分かんない。顔も見てないし」
「旧講堂の裏って、夜は真っ暗だよな」
「藤井、黙って」
茉由に言われて、藤井君は「はいはい」と両手を上げた。大野先輩は興味なさそうに鞄を持って出ていき、杉本君は片手にスマートフォンを持ったまま、空いた紙コップを集めて捨てに立った。
数分後には、みんな別の話で笑っていた。
私も笑った。
だから、そのときは考えなかった。
誰にも言うなと言われた話を、私はもう七人にしてしまったことを。
* * *
その夜、布団に入ってから、耳元で声がした気がした。
――誰にも言うなよ?
私は布団を頭までかぶった。
もう話しちゃった。
その考えが浮かんだ瞬間、背中に、汗がにじんだ。
馬鹿みたいだ。たった一度、変なものを見ただけなのに。
* * *
翌日から、廊下で後ろの足音が気になった。自分と同じ速さになると、振り返らずにはいられない。振り返っても、たいていは知らない学生がスマホを見ているだけだった。
藤井君とすれ違うと、「昨日の話、続きないの?」と、にやにやしながら言われた。冗談だと分かっているのに、返事ができなかった。
昼休み、自販機の前でぼんやりしていると、横から声をかけられた。
「大丈夫? 顔色悪いよ」
杉本君だった。サークルの外で話しかけられたのは、初めてかもしれない。
杉本君は自販機のボタンを押し、出てきた温かいお茶を私に差し出した。
「寝不足?」
「……うん。ちょっと」
「あの話のせい?」
私は曖昧に笑った。杉本君はそれ以上聞かず、小さく頷いて行ってしまった。
缶は、手のひらにちょうどいい熱さだった。
お礼を言いそびれたことに、あとで気づいた。
夕方、廊下の角で大野先輩とすれ違った。
先輩は足を止めずに、低い声で言った。
「その話、あんまり人にするなよ」
振り返ったときには、先輩はもう階段を下りていた。
心配してくれたのかもしれない。たぶん、そうだ。
でも、耳の奥で、別の声が重なった。
――誰にも言うなよ?
その夜、サークルのグループに、藤井君が写真を投稿した。
『莉央の夢の場所、行ってきた』
夕暮れの旧講堂の裏。青い鉄扉と、塗装の剥げた手すり。
笑っている顔のスタンプが、いくつも続いた。
私は写真を拡大した。
階段の横に、細長いひびが写っていた。
ひびのことは、誰にも話していない。
ただ写っているだけだ。あそこへ行けば、誰でも撮れる。
分かっているのに、指が震えて、スタンプを返せなかった。
気にしすぎ、と翌日、茉由には一蹴された。
夜、部屋に帰ると、机の上に講義の資料が出ていた。透明なファイルごと、引き出しにしまったはずだった。
自分で出した?
朝は急いでいた。出したまま忘れたのかもしれない。
翌朝、念のため、出かける前に机の写真を撮った。
帰ってきて、写真と見比べた。
白い小物入れが、机の反対側に移っていた。蓋が、少し開いている。
写真の中では、机の左端に、蓋を閉じたまま置いてある。
玄関の鍵は、かかっていた。窓も閉まっている。
動かした覚えはない。
でも、覚えていないだけかもしれない。そう思おうとした。
思えなかった。
それなのに、自分ではないと言い切ることもできない。
小物入れの蓋に、指を伸ばしかけてやめた。
私は茉由に電話した。
「……ねえ、やっぱり誰か部屋に入ってる」
自分の声が震えていた。
茉由は、最初は笑いかけた。でも、小物入れの蓋のことを話すと、黙った。
「警察、行きなよ。明日、一緒に行こうか」
「大丈夫。話すのは得意だから」
冗談のつもりだったのに、茉由は笑わなかった。
その電話を切ってすぐ、沙耶から着信があった。航平さんの部屋の玄関に、血が残っていたという。
「私のせいかな。変な人につけられてるなんて、言わなければ……」
「沙耶のせいじゃないよ」
慰める言葉が、どれも薄っぺらく聞こえた。
電話を切ったあと、手首をさすった。
あの記憶の男の人は、航平さんだったのかもしれない。
スマホが震えた。
知らないアカウントからのメッセージだった。アイコンは真っ白で、名前は数字の羅列。
『楽しそうに話してたね』
スマートフォンを持つ指先が、冷たくなった。
話していたのは、サークルの部屋だ。あそこにいたのは、茉由と、藤井君と、大野先輩と、杉本君と、一年の子が何人か。
気のせいじゃなかった。
あの中に、いる。
沙耶をつけていた人。航平さんに「誰にも言うなよ」と言った人。
私の話を、楽しそうに聞いていた人が。
* * *
警察署で話をするのは、想像していたより難しかった。
「小林莉央さん、ですね。どなたかが部屋に入ったところを見たんですか?」
「見てません。でも物が動いてるんです。それに、こんなメッセージが」
スマホを見せると、警察官は顔をしかめ、画面を写真に撮った。
そこまではよかった。
「それと、変なことがあって……」
私は『ごはん屋 なつこ』の話を始めた。
白い光。知らない男性の身体。旧講堂の裏の、青い鉄扉と外階段のひび。拘束と目隠し。「誰にも言うなよ」という声。
途中から、警察官はほとんどメモを取らなくなった。
「それは、夢のようなもの、ということでしょうか」
「違います。普通にご飯を食べてたんです」
言えば言うほど、自分がおかしなことを言っているのが分かった。
「友達の彼氏が、いなくなってて。戸田航平さんっていうんですけど……」
警察官が顔を上げ、手元の書類を見た。
「分かりました。お話は記録しておきます」
それ以上は、何も変わらなかった。
外に出ると、空が夕焼けで赤くなっていた。
もう誰にも、変な話なんてしない。
そう決めて、警察署の階段を下りた。
通りの向こうのバス停に、男の人が一人立っていた。
顔を確かめる前に、バスが来て、その姿を隠した。
バスが行ってしまうと、もう誰もいなかった。
* * *
茉由から、泊まりに行こうかとメッセージが届いていた。
『大丈夫。警察で話したら、ちょっと落ち着いた』
嘘だった。でも、茉由まで怖い目に遭わせたくなかった。
アパートの階段を上がり、鍵を差し込んで、回す。
暗い部屋のスイッチを押した。
机の上に、ノートが開いていた。今朝、閉じて出かけたノートだった。
ページの真ん中に、黒いペンで書いてある。
『誰にも言うなよ』
背後で、ユニットバスの扉がきしんだ。
振り返る前に、後頭部に鈍い衝撃が走った。
床が斜めになって、暗くなった。
* * *
頭が痛かった。
自分の部屋だった。カーテン。机。壁の小さなカレンダー。全部知っているものなのに、どこか遠い。
手首が、背中側で縛られていた。足も動かない。
記憶の中と同じだ。
「起きた?」
机の椅子に、誰かが座っていた。
杉本圭介。
サークルの、あの杉本君だった。いつも端の席で黙っていて、帰りぎわに紙コップを片づけていく人。
「……杉本、君……?」
「警察で、何話した」
教室で聞くのと同じ声だった。
でも、あの声だった。
バス停の男。見られていたのだ。
「……何も」
「旧講堂の裏。どこで見てた」
「見てない……」
「じゃあ、なんであの場所知ってんだよ。俺があいつに言ったことまで」
杉本君は舌打ちをした。
「あいつが悪いんだよ。勝手に嗅ぎ回って。沙耶は、俺が帰り道を見てなきゃ危なかったのに」
何を言っているのか、分からなかった。
逃げようとした。手首の紐が食い込むだけだった。
「誰に話した」
答えたくなかった。でも、答えないと何をされるか分からなかった。
「サークルの、みんなと……」
「知ってるよ」
平坦な声だった。
「楽しそうだったもんな。あんたはいいよな。何喋っても、みんな笑ってくれて」
杉本君は、私の顔を覗き込んだ。
「あんたがいなくなったら、何日で気づいてもらえるんだろうな」
それから、少しだけ首を傾けた。
「お茶、あったかかっただろ」
自販機の前の、手のひらにちょうどいい熱さ。
あのとき、この人は私の顔色を見ていたのだ。
「紙コップ、いつも誰が片づけてたか、知ってた?」
紙コップとお菓子の袋の間に、私は鍵束を放り出していた。
この部屋の鍵も、あの中にあった。
「他は」
「……茉由と……警察」
「俺の名前、出したのか」
「知らなかった……ほんとに、今まで……」
「嘘つけ!」
肩を掴まれた。
「じゃあ、何であんなこと知ってんだよ!」
涙がこぼれた。
「ご飯、食べてたら……白い光が……知らない男の人になってて……」
杉本君は私を見つめ、それから、口の端だけで笑った。
「何それ」
「本当なの……」
警察署でも信じてもらえなかった話を、私は記憶の中の男に向かって繰り返していた。どうしようもない説明だった。でも、それ以外に本当のことなんてなかった。
床の上で、スマホが震えた。
鞄から飛び出したまま、カーペットの上で光っている。知らない番号だった。
杉本君はそれを拾い上げ、画面を見ていた。
震えが止まり、また始まった。
杉本君は電源を切った。画面が暗くなった。
誰かが、私を探している。
その誰かは、もう私に電話をつなげない。
「誰にも言うなよ?」
杉本君が言った。
「……言いません。もう、誰にも……」
声が勝手に出た。
杉本君は首を傾げた。
「いいや」
笑っていなかった。
「あんたは言うね。言っちゃうね」
同じだ。
私は今、あの男の人と同じことを言っている。
あの人がどうなったのか、私は知らない。
でも、もう分かる気がした。
死にたくない。
そのとき、ドアが叩かれた。
「小林莉央さん。お電話がつながらなかったので、伺いました」
女の人の声だった。
杉本君の手が止まった。手のひらで私の口をふさぎ、耳元で囁く。
「声、出すな」
ノックが続く。
「小林さん、いらっしゃいますか」
口をふさぐ手の、親指の付け根が唇に当たっていた。
私は、そこに思いきり噛みついた。
杉本君が叫んで手を離した。
「助けて! ここにいる!」
かすれた声だった。それでも、出た。
杉本君はドアを見て、窓を見て、もう一度ドアを見た。
それから、私を見た。
殺される、と思った。
でも杉本君は、私の横をすり抜けて玄関へ走った。鍵の開く音がした。
廊下の明かりが、床を斜めに切った。
誰かが叫んでいる。男の声か、女の声か分からない。
何かが壁にぶつかった。床が揺れて、流しのコップが鳴った。
玄関の方を見ようとして首を回すと、頭の奥がずきんと痛んだ。視界の端が、白く滲む。
杉本君の靴が見えた。知らない靴が、二足、三足と増えた。それが全部絡まって、見えなくなった。
また、戻ってくる。
縛られたまま、床を這おうとした。膝が滑って、頬がカーペットに擦れた。
足音が近づいてくる。
来ないで。
手首に、誰かの指が触れた。
「いや……!」
「大丈夫」
手首の紐が、ゆるんだ。
「大丈夫。もう大丈夫ですよ」
女の人の声だった。さっき、ドアの向こうで私の名前を呼んだ声。
手が、自由になった。
顔を上げようとしたけれど、天井が回って、その人の顔は見えなかった。
私は、そのまま意識を失った。
* * *
次に目を開けたとき、天井は白かった。消毒液の匂いがする。頭に手をやると、包帯に触れた。
「気がつきましたか」
ベッドの横の椅子に、女性が座っていた。四十歳くらいの、落ち着いた人だった。
目が合うと、その人はやわらかく微笑んだ。
「県警の高瀬美紀です。戸田航平さんの事件を担当しています」
ドアの向こうの、あの声だった。
「あの人は……」
起き上がろうとすると、高瀬さんがそっと肩に手を添えた。
「逮捕しました」
それから、私の目を見て頷いた。
「もう、安全ですよ」
涙が出た。高瀬さんは枕元にティッシュの箱を寄せて、急かさずに待ってくれた。
「……航平さんは」
高瀬さんは、すぐには答えなかった。
膝の上で、指を一度組み直した。
「旧講堂の裏の、使われていない倉庫で」
その先は、聞かなくても分かった。
冷たい地面。動かない手足。暗闇の中の声。
あれは、航平さんだった。
沙耶の顔が浮かんだ。
高瀬さんが、ティッシュの箱をもう一度こちらへ寄せた。
しばらくして、ようやく声が出た。
「鍵、ちゃんとかけてたんです」
「サークルの部屋で、鍵束を写真に撮っていたそうです。合鍵は、その日のうちに作られていました」
「大野さんからも、お話を伺いました」
「大野先輩……?」
「前に一度、杉本さんが沙耶さんの帰り道の少し後ろを歩いているのを見たそうです。確かめようがなくて、誰にも言えずにいた、と」
その話、あんまり人にするなよ。
すれ違いざまの、あの低い声を思い出した。
「どうして、旧講堂の裏だって……」
「あなたが話してくれたからです」
高瀬さんは、まっすぐ私を見た。
あの、誰も信じなかった話で。
「あなたが署を出てすぐ、話の記録が私の机に回ってきました。航平さんの捜索の担当でしたから。青い鉄扉。外階段のひび。その足で行ってみたら、そのとおりでした」
床の上で震えていたスマホを思い出した。
あれは、この人だったのだ。
「でも、私、変なこと言いましたよね。ご飯を食べてたら白い光が見えて、知らない人になったなんて」
「そうですね。不思議なお話です」
否定もしない。笑いもしない。
「何を、食べていたんですか」
「……オムライスです。路地の奥の、小さなお店で」
高瀬さんは、少しのあいだ黙っていた。
「そうですか」
高瀬さんは、オムライス、と口の中で小さく繰り返して、目元をほころばせた。
それから、掛け布団の端を、私の肩まで引き上げてくれた。
「どうして、信じてくれたんですか」
「信じたかどうかは、分かりません。ただ、あなたのお話を、きちんと聞いてみたいと思ったんです」
高瀬さんは立ち上がった。
「回復されたら、もう一度聞かせてください。覚えていることを、全部」
扉が静かに閉まった。
枕元のスマートフォンが、短く震えた。
沙耶からだった。
『莉央が警察で話してくれたから、航平、見つけてもらえた』
『ありがとう』
返事を打とうとして、指が止まった。
何を書いても、足りない気がした。
覚えていることを、全部。
誰にも言うなと言われたことも、全部。
私の口は、たぶん、人より少し軽い。
今度は、それでいいと思った。
目を閉じた。真っ暗になっても、もう誰の声もしなかった。
――了――




