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ごはん屋 なつこ  作者: K2MA


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6/13

第6話 要塞の人

 俺は昔から、何かにつけて「念のため」と言う人間だった。


 財布には予備の千円札を一枚、車には折り畳み傘を二本。領収書は日付順に並べ、不動産の管理台帳は月末に必ず照合して、担当者の欄に「宮本達也」と署名する。家賃の振り込みが一円でも合わなければ、原因が分かるまで落ち着かない。


 ただ、それで周囲に迷惑をかけるほどではなかったと思う。


「達也、また変なの読んでる」


 夕食後、妻の香奈が俺の肩越しに雑誌をのぞき込んだ。


「変なのじゃない。古代文明の特集だ」

「表紙に『人類滅亡』って書いてあるけど」

「記事の一つだよ」

「先月も滅びてなかった?」

「先月のは隕石。今月のは太陽活動だ」

「人類って忙しいのね」


 香奈は、テーブルに広げた工具を片づけ始めた。古い椅子の脚を直すつもりらしい。


 俺が三十歳の頃、香奈とは結婚して二年目だった。俺は父が所有するアパートや駐車場の管理を仕事にしていた。俺たちの家は両親の家と同じ敷地の端にあり、古くはあったが住むには十分だった。香奈は専業主婦で、暇さえあれば棚を作ったり家具を直したりしていた。


 終末論も陰謀論も、俺にとっては娯楽だった。本気で世界が滅びると思っていたら、来月分の家賃の振り込みまで確かめたりしない。


 あの日までは、そう思っていた。


     * * *


 十月の終わり、退去した部屋の修繕を業者と打ち合わせた帰りに、知らない路地へ入った。


 昼を食べ損ねていた。角を曲がったところに、小さな看板が出ている。


『ごはん屋 なつこ』


 引き戸を開けると、出汁の香りがした。


「いらっしゃいませ」


 席に着く前に、消火器の位置を確かめた。念のためだ。


 テーブル席では、首からカメラを提げた年配の男性が、隣の女性と楽しそうに小さな画面を覗き込んでいた。


 カウンターの向こうで、女将が鍋に目を落としたまま、こちらに会釈した。


 火から目を離さない人だ、と思った。少し安心した。


「今日はアジフライ定食がおすすめですよ」

「じゃあ、それで」


 しばらくして、目の前に大きな皿が置かれた。


 アジフライが二枚。粗めのパン粉が立ち、きつね色の衣からまだ細かな泡が弾けている。千切りキャベツにくし形のレモン、小さな器には刻んだゆで卵の入ったタルタルソース。炊きたてのご飯と、豆腐とわかめの味噌汁が並んだ。


「熱いので気をつけてくださいね」


 衣は、箸を入れただけで、さく、と軽く割れた。


 中から白い身が現れ、湯気が上がる。口に運ぶと、薄い衣が砕け、ふっくらした身がほどけた。魚の甘みと、揚げたての香ばしさが広がる。


 レモンを少しだけ搾ると、油の香りがすっと軽くなった。タルタルをつければ、卵のまろやかさと玉ねぎの歯触りが加わる。


 これなら二枚でも足りないかもしれない。


 さっき確かめた消火器のほうへは、もう目が行かなかった。


 そう思って、もうひと口食べたときだった。


 レモンの滴が、光った。


 念のため、と身構える暇もなかった。光は皿の縁を越え、カウンターから床へとこぼれ落ちていった。


――宮本昭夫の記憶――


 最初に聞こえたのは、低いうなり声のような音だった。


 ホテルのベッドに腰掛けていた。足元がかすかに震え、壁に掛かった額が揺れた。


 地震だ。


 立とうとした瞬間、床が跳ね上がった。


 膝が折れ、ベッドの角に肩を打ちつけた。湯飲みが飛び、テレビが落ちた。天井から白い粉が降り、照明が大きく振れる。建物全体が、巨大な手で乱暴に揺さぶられている。


 立てない。這おうとしても体が横へ投げ出される。頭の上で何かが裂ける音がした。


 揺れが一瞬弱まった隙に、入口へ向かった。扉が開かない。肩をぶつけると、ようやくわずかな隙間ができた。


 そこから見えた廊下は、知っている廊下ではなかった。


 天井の一部が崩れ、床には石膏の破片や割れたガラスが散らばっている。非常灯がひとつだけ点いていた。


「誰か! 誰かいませんか!」


 自分の声が情けないほど裏返った。


「助けて!」


 すぐ近くから女の声がした。


 崩れた壁の向こうに、人が倒れていた。肩から下が瓦礫に隠れている。灰色の粉で顔が白くなり、口元だけが動いていた。


「動けないんです。お願いします」


 俺は瓦礫に手をかけ、足を踏ん張って引いた。


「痛いっ!」


 慌てて手を離した。何かをどかせば助かると思ったのに、その何かが彼女の体を押さえつけているのかもしれなかった。


「宮本です。人を呼んできます。すぐに」


 階段はどちらだ。非常口の表示はあったはずなのに、思い出せない。携帯電話は、何度押しても画面が黒いままだった。


 また揺れが来た。


 近くの壁が崩れ、粉塵が噴き上がった。頭を抱えてしゃがみ込む。口を開くたび粉が入ってきて、咳が止まらない。


 揺れが収まった。


「大丈夫ですか」


 返事がない。


「聞こえますか!」


 暗がりで、さっきの女がどこにいるのかも分からなくなっていた。


 床がまた動くのではないか。天井が落ちてくるのではないか。


 何より怖かったのは、次に何が起きるのか、まったく分からないことだった。


 壁の向こうから、誰かが何度も助けを呼んでいた。声がかすれ、やがて聞こえなくなった。


 水の滴る音がした。


 どれくらい経ったのだろう。体の震えを止められなかった。


 遠くから声がした。


「誰かいるか!」


 叫ぼうとしたが、喉からはかすれた音しか出なかった。壁を叩いた。拳が痛くなっても叩いた。


 足音が近づいてくる。


 助かった。


 その思いが胸に広がった瞬間、女の声が聞こえなくなっていたことを思い出した。


 俺は、壁を叩く手を止められなかった。


 壁を叩く自分の拳が、白い粉塵の中に見えなくなった。


 箸を落としそうになった。


 アジフライの衣は、まだ温かかった。


 握っていた拳を開いた。粉塵も血もついていない。


 床の揺れ方も、口に入った粉の苦さも、女の声も、まだ体の中に残っている。


 あの廊下で、俺は宮本と名乗っていた。


 女将が黙って、水のグラスを置いていった。


 水を飲んでも胸のざわつきは消えなかった。アジフライをもうひと口食べた。さっきと同じようにおいしかった。


 念のため、もう一口食べた。やはり、おいしかった。


 勘定を済ませると、女将は揚げ鍋の火を弱めてから振り向いた。


「ありがとうございました。またどうぞ」


 外へ出ると、日が差していた。通りを歩く人たちは、誰も地面を気にしていなかった。


 俺だけが、舗装された道を信用できなくなっていた。


     * * *


 その夜、香奈に話した。


「ホテルが壊れる地震を見たんだ」

「ニュース?」

「違う。俺が中にいた」


 自分で言っておいて、変な話だった。香奈も妙な顔をしたが、茶化さずに聞いてくれた。


「夢みたいなもの?」

「たぶん。でも、全然薄れない」

「怖かったんだね」


 その一言で、急に喉が詰まった。


「……すごく」


 香奈は、俺の手の上に自分の手を置いた。


「じゃあ、寝室の棚、固定しようか。前から気になってたし」


 そこまでは、ごく普通の話だった。


 翌朝、家具を固定した。懐中電灯と靴を枕元に置いた。ようやく少し落ち着いた。


 ところが夜、布団に入ってから気がついた。


 寝室は安全になった。では、台所にいるときに揺れたら?


 翌日、台所の棚を全部点検した。香奈は工具を渡す手際がいい。


「ここまでやったら、ずいぶん安心ね」

「ああ」


 俺もそう思った。思ったのだが、夕食の途中で別のことに気づいた。


 家そのものが壊れたら、金具は役に立たない。


 箸を置いて、古い家の天井を見上げた。


「……達也?」

「耐震診断を受けよう」

「今、ご飯食べてるけど」

「食べ終わってから予約する」


 補強工事は専門業者に頼んだ。俺は毎日立ち会って、工事の順番や部材を細かく尋ねた。担当者は最初こそ丁寧に説明してくれたが、三日目には俺を見ると先に資料を開くようになった。


 知らないことを知るのは楽しかった。


 ただ、知れば知るほど、知らない危険も増えた。


 それ以来、泊まりの旅行はほとんどしなくなった。どうしても泊まるときは、部屋に入る前に非常階段まで歩いて確かめた。


     * * *


 三十四歳のとき、悠斗が生まれた。


 小さな息子を抱いた晩、寝顔を見ながら、守るべきものが増えたと思った。嬉しかったし、怖くもあった。


 悠斗が四歳になった頃、初めて家族三人で避難訓練をした。


「お父さんが『地震』って言ったら、靴を履いてここに集まるんだぞ」

「わかった!」


 俺が「地震!」と声をかけると、悠斗は寝室へ走った。


 靴を履きに行ったのかと思ったら、ぬいぐるみの犬を抱えて戻ってきた。


「わんわんも!」

「それは置いてこよう」

「やだ!」


 無理に取り上げれば、本番でも言うことを聞かなくなるかもしれない。


「わかった。わんわんも一緒に避難しよう」


 訓練結果をノートに記入した。三人が玄関に集まるまで一分四十二秒。ぬいぐるみの回収に三十一秒。


 翌週、俺は犬を入れる専用の袋を玄関に取り付けた。


「何これ」

「避難用。ここに入れておけば三十一秒短縮できる」

「わんわん専用?」

「そう」

「この子、最近は恐竜のほうが好きみたいよ」


 俺は袋の寸法を測り直した。


 翌月には、犬と恐竜と小さな消防車が一度に入る袋になっていた。


 さすがに大きすぎたが、悠斗が自分で三つ入れてみせたので、しばらくそのままにした。


 俺自身も、何となく嬉しかった。


     * * *


 四十二歳の春、俺は自宅の建て替えを決めた。


 設計士に希望を書いた紙を渡した。


「まず、地震に強いこと。停電に備えて配線を分けたい。あと、地下には避難室を」

「地下ですか」

「外へ出なくても、一定期間暮らせるようにしたいんです」


 設計士は紙をめくった。


「最後に『生活しやすい家』とありますが」

「はい。そこも大事です」


 香奈が横から口を挟んだ。


「窓、ちゃんとつけてくださいね」

「もちろんです」

「ただ、窓は弱点になるので、なるべく少なく」

「達也」

「うん?」

「リビングには普通の窓が欲しいの」

「分かってる。外側に防護扉をつければ――」

「外が見えなくなるでしょ」


 俺は返答に詰まった。


 香奈は窓辺で本を読むのが好きだった。新しい家でそれを取り上げるのは、さすがに違う。


「……窓はつけよう」

「よかった」

「位置は検討する」

「普通の位置にして」


 結局、リビングには大きな窓がついた。完成した部屋で香奈が日なたに座っているのを見ると、正解だった。


 地下室の入口には頑丈な扉を設けた。香奈はその内側に棚を作った。自分で寸法を測り、きれいに仕上げたので、俺は素直に感心した。


「すごいな。店で売れるぞ」

「売らないわよ。あなたが物を増やすから必要なの」


 その棚は、二か月で入りきらなくなった。


     * * *


 父が亡くなり、数年後に母も亡くなった。


 空き家になった両親の家で遺品を整理していると、古い住所録が出てきた。俺がほとんど顔を知らない親戚の名前まで並んでいる。


 父の従兄にあたる宮本昭夫という人の欄には、住所の上から一本、細い線が引かれていた。


 昔は行き来があったらしいが、俺には名前を聞いても顔が浮かばなかった。


 空いた敷地をどう使うか、俺は何度も図面を引いた。賃貸住宅を建てるのが、仕事としては最も分かりやすい。


 だが、うちの地下避難室はまだ狭かった。


 狭ければ広げればいい。地下を広げるなら地上にも設備が要る。地上の設備を守るには、敷地の外周も考える必要がある。


 気がつけば、賃貸住宅の案は図面から消えていた。


 図面を見た香奈の指が、敷地の端で止まった。


「お義父さん、ここはアパートにするつもりだったんでしょう」

「ああ」

「悠斗の大学のお金は?」

「別に取ってある。念のため」


 香奈は笑わなかった。


「ねえ。あなた、何がそんなに怖いの」


 答えようとして、言葉が出なかった。


 あのホテルの廊下のことは、香奈に一度話したきりだ。だが、それだけでここまでするのか、と聞かれたら、自分でもうまく説明できなかった。


 香奈は図面を畳んで、俺の前に置いた。


「じゃあ、地下の棚は、全部私が作るから」


 それで話は終わった。


 終わったのかどうかは、よく分からなかった。


 俺が五十歳になった年、拡張工事が始まった。


 大地震だけが災害じゃない。火山灰もある。大規模な停電もある。学生の頃に鼻で笑って読んでいた話も、一つずつ考えると、確実に否定できるものは案外少なかった。


 ふと思った。ミサイルが飛んでくるかもしれない。


「地下室を、核シェルターに近い仕様まで強化したいんです」

「……核、ですか」


 設計担当者は少し考え、できることとできないことを順番に説明してくれた。相談と設計変更を重ね、地下には独立した換気設備が設けられた。敷地を囲う防護壁も厚さ一メートルの鉄筋コンクリートになった。


 図面を見た香奈が顔を上げた。


「一メートル?」

「うん」

「壁の厚さが?」

「そう」

「私、壁の上で寝られるわね」

「香奈は細いからな」

「そういう話じゃない」


 備品の一覧には、家族のためとは言いにくいものも増えていった。


 瓦礫を持ち上げるためのジャッキが三台。長いバールが二本。担架が二つ。


 家族は三人なのに、担架が二つ。あの廊下には、俺のほかにも人がいた。


 ジャッキは、休みの日に庭のコンクリートブロックで試した。勢いをつけず、少しずつ持ち上げる。下に誰かが挟まっていても、痛くないように。


 今度は、手を離さずに済むように。


 ある日、高校から帰ってきた悠斗が門の前で立ち止まった。


「父さん、学校で聞かれた。うち、戦争するのって」

「しないよ。生き残るためだよ」

「友達にそう言っとく」

「そうしろ。今度連れてこい。地下室、見せてやる」

「やめとく」


 即答され、俺は少し傷ついた。


     * * *


 工事は、二年がかりになった。


 ある日、町内会長から電話がかかってきた。


「宮本さん、回覧板を持ってきたんだけどね。その、どうやって渡せばいいんだい?」


 門まで出ると、会長が腕を組んで立っていた。分厚い壁と重厚な鉄の扉にはまだポストがなかった。


「もうすぐつきます」

「それより、早くインターホンつけてくれないかな。毎回電話するのは、ちょっとね」


 秋には工事が終わった。門には郵便受けもついた。


 防犯を考えて、投函口は手が入らない幅にしてある。


 翌週、会長からまた電話がかかってきた。


「宮本さん、回覧板が入らないんだけど」


 そこまで考えていなかった。


 俺と香奈は、工事を終えたはずの家に、まだ手を入れ続けていた。


 近所では、いつの間にか俺の家が「要塞」と呼ばれるようになっていた。大げさだと思ったが、道で小学生に「あ、要塞の人だ」と言われると、なぜか少し嬉しかった。


     * * *


 テレビ局が来たのは、その翌年だった。


 カメラが門をくぐり、厚い壁を映した。地下を案内すると、取材班は何度も「ええっ」と声を上げた。


 俺は説明するのが楽しくなった。こんなに熱心に話を聞いてもらったことは、家族以外では初めてだ。


 地下の廊下で、カメラマンが壁の小さなパネルに目を留めた。


「これ、インターホンですか?」

「非常用です。各部屋についています」

「全部の部屋に?」

「物置にも、機械室にもあります。どこかに閉じ込められても、声が外に届くように」

「門には、ついてないのに」


 音声係が、マイクを持ったまま顔を背けた。


「念のためです」


 そう答えたが、なぜ門より先にこちらだったのか、自分でもよく分からなかった。


「発電機は何台あるんですか?」

「三台です」

「三台も?」

「一台故障しても動くように」

「じゃあ、二台故障したら?」


 俺は口を閉じた。


 考えていなかったわけではない。だが、二台壊れれば残りは一台だ。その一台まで壊れたら。


 取材班が帰ったあと、俺はノートを開いた。


 香奈がコーヒーを持ってきて、ノートを伏せた。


「今日はもう寝なさい」


 この件は後日、きちんと相談した。


 放送を見た悠斗は、同じ場面を三回巻き戻した。


「父さん、最後、取材のこと忘れて発電機のこと考えてたろ。顔が仕事中の顔になってた」


 うちの新入社員のくせに。


 ただ、反省はした。


 そして、発電機は二台増えた。


     * * *


 悠斗に仕事を任せて、何年か経った。


 ある日、昔と同じつもりで工具箱を持ち上げたら、腰に嫌な痛みが走った。


「高いところはもう業者さんに頼もう。私も危ないし」


 香奈にそう言われると、反論しにくかった。以来、大きな工事は任せ、俺は図面を描くことにした。


 ちょうどその頃、香奈が地下室で野菜を育て始めた。


 棚に栽培用のライトを取り付け、水耕栽培の容器を並べる。最初に採れたのは小さなレタスだった。


「見て。立派になったでしょ」


 俺は葉の厚みを確かめ、収穫量を記録した。


「これだけだと、非常時の食料としては足りないな」

「今夜のサラダには足りるわよ」

「主食になる作物も必要だ」

「それはレタス食べてから考えましょ」


 レタスは、しゃきしゃきしていておいしかった。


 結局、地下菜園は俺より香奈のほうが詳しくなった。いつの間にか、俺が立ち入ると怒られる場所になっていた。


「その水のホース踏まないで」

「ごめん」

「あと、勝手にライトの位置変えないでね」


 香奈が楽しそうだから、まあいい。


     * * *


 七十を過ぎたある朝、俺は地下へ下りる階段で初めて立ち止まった。


 膝が痛む。いつもなら何も考えずに下りられた段差が、妙に高く見えた。


 俺はずっと、家が壊れる場合、電気が止まる場合を考えてきた。階段を下りる俺自身が先に壊れるとは、あまり考えていなかった。


 ノートに『高齢者の避難動線を再検討』と書いてから、ペンが止まった。


 高齢者というのは、俺のことだ。


 久しぶりに帰ってきた悠斗に、図面を見せた。


「地下へ下りる昇降機を考えてる。停電時も動く必要がある。故障した場合は、別の避難経路が要る。その経路も使えなかった場合は――」

「父さん」


 悠斗は俺のノートを指さした。


「まずは、階段を楽に下りることでしょ」


 そうだった。


 悠斗は、若い頃によく香奈がしたのと同じ顔をした。あまり似ていない親子だと思っていたのに、ああいう表情は似るものらしい。


 昇降機は専門業者に設置してもらった。初めて乗ったとき、俺はちょっと感動した。


 膝が痛くない。


 香奈も「地下へ行くのがずいぶん楽になった」と喜んだ。そこでようやく、設備を増やしてよかったと心から思った。


 テレビ局は、その頃にも時々やってきた。地下を案内すると、若い取材の人たちはみんな同じような顔で驚く。


「宮本さん、ここまで何年かかったんですか?」

「四十年くらいですね」

「もう完成ですか?」


 俺は少し迷った。


「いや、まだ足りないところはあります」


 取材の人は笑った。


 どうして笑うんだろう。実際、足りないところはあるのに。


     * * *


 その冬、昔のノートを整理していたら、悠斗のぬいぐるみ避難袋の図面が出てきた。


 あいつはもう四十代半ばだ。犬のぬいぐるみのこと、覚えているだろうか。


 図面の隅に『三十一秒短縮』と書いてある。何を短縮したかったのだろう。


 ふと、ホテルの廊下が浮かんだ。


 崩れた天井。白い粉。瓦礫の下から聞こえた声。


 あれから五十年近く経つのに、忘れられない。


 俺はずっと、あの地震がこれから起きる出来事なのではないかと思ってきた。未来を見たのか、単なる夢だったのか。いくら考えても分からなかった。


 ただ、あのときの恐怖は本物だった。直しているうちに新しい工夫を思いつき、いつの間にか、それが俺の暮らしそのものになっていた。


 無駄だったのだろうか。


「達也、ちょっと来て!」


 地下から香奈の声がした。


 昇降機で下りると、香奈が新しい栽培棚の前に立っていた。上の段に手が届きにくくなったので、高さを調整できるようにしたらしい。


「いいな。使いやすい」

「でしょ」

「ただ、固定部分はもう少し――」

「そこはもう考えてあるの」


 香奈が得意そうに金具を指した。


 無駄だったかどうかは、よく分からない。


 少なくとも今、この地下室をいちばん上手に使っているのは香奈だった。


     * * *


 八十歳を過ぎると、手の力が弱くなり、香奈に固い蓋を開けてもらうようになった。


 点検は業者に任せ、悠斗に管理の手順を伝えた。分厚いファイルを見た悠斗が目を丸くした。


「これ、全部覚えろってこと?」

「大事なところには印をつけてある」


 悠斗が開いたページには、ほとんどの項目に印がついていた。


「父さん。大事じゃないところは、どこ?」


 考えてみたが、すぐには答えられなかった。


 その日、香奈と二人で地下菜園へ下りた。昇降機の扉が開くと、青い葉の匂いがした。


 壁の奥で、換気設備が低い音を立て続けている。栽培用のライトが、棚の葉を白っぽい緑に照らしていた。地上が晴れているのか曇っているのか、ここでは分からない。


 俺は椅子に座り、レタスの苗を一つずつ香奈に渡した。指先が少し震える。香奈も、作業の途中で腰を伸ばす回数が増えた。


 ただ、香奈は棚をいじっているときだけ、昔と同じ顔をする。


 俺は壁を見渡した。頑丈な扉、電源室、貯水設備。入口の脇では、非常用インターホンの小さなランプが緑色に灯っている。その一角に、香奈の手作りの棚が並んでいる。


「香奈」

「なあに?」

「これだけ造っておけば、お前は安心して長生きできるな」


 香奈は苗を置いて、俺を見た。


「管理が大変だから、あなたも長生きするのよ」

「そのつもりだよ」


 目の前の棚に、小さな隙間があった。そこにもう一段つければ、苗の置き場が増やせる。


 今度、香奈に提案してみよう。


 いや、まずは寸法を測ってからだ。


     * * *


 宮本達也が亡くなってから、しばらくして。


 悠斗は母親と一緒に、父が残した設備の維持費を確認していた。


 点検費、修繕費、電気代。項目が多い。管理会社に任せられるものもあるが、手間まで含めると相当なものだった。


 書類の束の最後に、備蓄品の一覧が挟まっていた。


 水と食料は、家族三人分の十倍あった。毛布が四十枚。担架が二つ。ジャッキが三台。


「……これ、うちの分じゃないよね」


 香奈は老眼鏡をかけ直し、一覧をしばらく見ていた。


「あの人らしいわね」


 悠斗は、しばらく一覧から目を離さなかった。


「要塞って呼ばれてたのにな」

「そうねえ」


 悠斗は、維持費の書類に目を戻した。


「でも、維持するだけでもとんでもないよ。壊す?」


 香奈はすぐに首を振った。


「壊さない」


 悠斗はもう一度、書類に目を落とした。


「まあ、そう言うと思ったけど」


 香奈は立ち上がり、地下室へ下りる準備を始めた。


「どこ行くの?」

「菜園。棚をもう一段増やそうと思って」

「……父さんに似てきたね」

「失礼ね。必要な分だけよ」


 悠斗は何も言わず、工具箱を持った。


 香奈の後を追って、昇降機に乗った。


         ――了――


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