第6話 要塞の人
俺は昔から、何かにつけて「念のため」と言う人間だった。
財布には予備の千円札を一枚、車には折り畳み傘を二本。領収書は日付順に並べ、不動産の管理台帳は月末に必ず照合して、担当者の欄に「宮本達也」と署名する。家賃の振り込みが一円でも合わなければ、原因が分かるまで落ち着かない。
ただ、それで周囲に迷惑をかけるほどではなかったと思う。
「達也、また変なの読んでる」
夕食後、妻の香奈が俺の肩越しに雑誌をのぞき込んだ。
「変なのじゃない。古代文明の特集だ」
「表紙に『人類滅亡』って書いてあるけど」
「記事の一つだよ」
「先月も滅びてなかった?」
「先月のは隕石。今月のは太陽活動だ」
「人類って忙しいのね」
香奈は、テーブルに広げた工具を片づけ始めた。古い椅子の脚を直すつもりらしい。
俺が三十歳の頃、香奈とは結婚して二年目だった。俺は父が所有するアパートや駐車場の管理を仕事にしていた。俺たちの家は両親の家と同じ敷地の端にあり、古くはあったが住むには十分だった。香奈は専業主婦で、暇さえあれば棚を作ったり家具を直したりしていた。
終末論も陰謀論も、俺にとっては娯楽だった。本気で世界が滅びると思っていたら、来月分の家賃の振り込みまで確かめたりしない。
あの日までは、そう思っていた。
* * *
十月の終わり、退去した部屋の修繕を業者と打ち合わせた帰りに、知らない路地へ入った。
昼を食べ損ねていた。角を曲がったところに、小さな看板が出ている。
『ごはん屋 なつこ』
引き戸を開けると、出汁の香りがした。
「いらっしゃいませ」
席に着く前に、消火器の位置を確かめた。念のためだ。
テーブル席では、首からカメラを提げた年配の男性が、隣の女性と楽しそうに小さな画面を覗き込んでいた。
カウンターの向こうで、女将が鍋に目を落としたまま、こちらに会釈した。
火から目を離さない人だ、と思った。少し安心した。
「今日はアジフライ定食がおすすめですよ」
「じゃあ、それで」
しばらくして、目の前に大きな皿が置かれた。
アジフライが二枚。粗めのパン粉が立ち、きつね色の衣からまだ細かな泡が弾けている。千切りキャベツにくし形のレモン、小さな器には刻んだゆで卵の入ったタルタルソース。炊きたてのご飯と、豆腐とわかめの味噌汁が並んだ。
「熱いので気をつけてくださいね」
衣は、箸を入れただけで、さく、と軽く割れた。
中から白い身が現れ、湯気が上がる。口に運ぶと、薄い衣が砕け、ふっくらした身がほどけた。魚の甘みと、揚げたての香ばしさが広がる。
レモンを少しだけ搾ると、油の香りがすっと軽くなった。タルタルをつければ、卵のまろやかさと玉ねぎの歯触りが加わる。
これなら二枚でも足りないかもしれない。
さっき確かめた消火器のほうへは、もう目が行かなかった。
そう思って、もうひと口食べたときだった。
レモンの滴が、光った。
念のため、と身構える暇もなかった。光は皿の縁を越え、カウンターから床へとこぼれ落ちていった。
――宮本昭夫の記憶――
最初に聞こえたのは、低いうなり声のような音だった。
ホテルのベッドに腰掛けていた。足元がかすかに震え、壁に掛かった額が揺れた。
地震だ。
立とうとした瞬間、床が跳ね上がった。
膝が折れ、ベッドの角に肩を打ちつけた。湯飲みが飛び、テレビが落ちた。天井から白い粉が降り、照明が大きく振れる。建物全体が、巨大な手で乱暴に揺さぶられている。
立てない。這おうとしても体が横へ投げ出される。頭の上で何かが裂ける音がした。
揺れが一瞬弱まった隙に、入口へ向かった。扉が開かない。肩をぶつけると、ようやくわずかな隙間ができた。
そこから見えた廊下は、知っている廊下ではなかった。
天井の一部が崩れ、床には石膏の破片や割れたガラスが散らばっている。非常灯がひとつだけ点いていた。
「誰か! 誰かいませんか!」
自分の声が情けないほど裏返った。
「助けて!」
すぐ近くから女の声がした。
崩れた壁の向こうに、人が倒れていた。肩から下が瓦礫に隠れている。灰色の粉で顔が白くなり、口元だけが動いていた。
「動けないんです。お願いします」
俺は瓦礫に手をかけ、足を踏ん張って引いた。
「痛いっ!」
慌てて手を離した。何かをどかせば助かると思ったのに、その何かが彼女の体を押さえつけているのかもしれなかった。
「宮本です。人を呼んできます。すぐに」
階段はどちらだ。非常口の表示はあったはずなのに、思い出せない。携帯電話は、何度押しても画面が黒いままだった。
また揺れが来た。
近くの壁が崩れ、粉塵が噴き上がった。頭を抱えてしゃがみ込む。口を開くたび粉が入ってきて、咳が止まらない。
揺れが収まった。
「大丈夫ですか」
返事がない。
「聞こえますか!」
暗がりで、さっきの女がどこにいるのかも分からなくなっていた。
床がまた動くのではないか。天井が落ちてくるのではないか。
何より怖かったのは、次に何が起きるのか、まったく分からないことだった。
壁の向こうから、誰かが何度も助けを呼んでいた。声がかすれ、やがて聞こえなくなった。
水の滴る音がした。
どれくらい経ったのだろう。体の震えを止められなかった。
遠くから声がした。
「誰かいるか!」
叫ぼうとしたが、喉からはかすれた音しか出なかった。壁を叩いた。拳が痛くなっても叩いた。
足音が近づいてくる。
助かった。
その思いが胸に広がった瞬間、女の声が聞こえなくなっていたことを思い出した。
俺は、壁を叩く手を止められなかった。
壁を叩く自分の拳が、白い粉塵の中に見えなくなった。
箸を落としそうになった。
アジフライの衣は、まだ温かかった。
握っていた拳を開いた。粉塵も血もついていない。
床の揺れ方も、口に入った粉の苦さも、女の声も、まだ体の中に残っている。
あの廊下で、俺は宮本と名乗っていた。
女将が黙って、水のグラスを置いていった。
水を飲んでも胸のざわつきは消えなかった。アジフライをもうひと口食べた。さっきと同じようにおいしかった。
念のため、もう一口食べた。やはり、おいしかった。
勘定を済ませると、女将は揚げ鍋の火を弱めてから振り向いた。
「ありがとうございました。またどうぞ」
外へ出ると、日が差していた。通りを歩く人たちは、誰も地面を気にしていなかった。
俺だけが、舗装された道を信用できなくなっていた。
* * *
その夜、香奈に話した。
「ホテルが壊れる地震を見たんだ」
「ニュース?」
「違う。俺が中にいた」
自分で言っておいて、変な話だった。香奈も妙な顔をしたが、茶化さずに聞いてくれた。
「夢みたいなもの?」
「たぶん。でも、全然薄れない」
「怖かったんだね」
その一言で、急に喉が詰まった。
「……すごく」
香奈は、俺の手の上に自分の手を置いた。
「じゃあ、寝室の棚、固定しようか。前から気になってたし」
そこまでは、ごく普通の話だった。
翌朝、家具を固定した。懐中電灯と靴を枕元に置いた。ようやく少し落ち着いた。
ところが夜、布団に入ってから気がついた。
寝室は安全になった。では、台所にいるときに揺れたら?
翌日、台所の棚を全部点検した。香奈は工具を渡す手際がいい。
「ここまでやったら、ずいぶん安心ね」
「ああ」
俺もそう思った。思ったのだが、夕食の途中で別のことに気づいた。
家そのものが壊れたら、金具は役に立たない。
箸を置いて、古い家の天井を見上げた。
「……達也?」
「耐震診断を受けよう」
「今、ご飯食べてるけど」
「食べ終わってから予約する」
補強工事は専門業者に頼んだ。俺は毎日立ち会って、工事の順番や部材を細かく尋ねた。担当者は最初こそ丁寧に説明してくれたが、三日目には俺を見ると先に資料を開くようになった。
知らないことを知るのは楽しかった。
ただ、知れば知るほど、知らない危険も増えた。
それ以来、泊まりの旅行はほとんどしなくなった。どうしても泊まるときは、部屋に入る前に非常階段まで歩いて確かめた。
* * *
三十四歳のとき、悠斗が生まれた。
小さな息子を抱いた晩、寝顔を見ながら、守るべきものが増えたと思った。嬉しかったし、怖くもあった。
悠斗が四歳になった頃、初めて家族三人で避難訓練をした。
「お父さんが『地震』って言ったら、靴を履いてここに集まるんだぞ」
「わかった!」
俺が「地震!」と声をかけると、悠斗は寝室へ走った。
靴を履きに行ったのかと思ったら、ぬいぐるみの犬を抱えて戻ってきた。
「わんわんも!」
「それは置いてこよう」
「やだ!」
無理に取り上げれば、本番でも言うことを聞かなくなるかもしれない。
「わかった。わんわんも一緒に避難しよう」
訓練結果をノートに記入した。三人が玄関に集まるまで一分四十二秒。ぬいぐるみの回収に三十一秒。
翌週、俺は犬を入れる専用の袋を玄関に取り付けた。
「何これ」
「避難用。ここに入れておけば三十一秒短縮できる」
「わんわん専用?」
「そう」
「この子、最近は恐竜のほうが好きみたいよ」
俺は袋の寸法を測り直した。
翌月には、犬と恐竜と小さな消防車が一度に入る袋になっていた。
さすがに大きすぎたが、悠斗が自分で三つ入れてみせたので、しばらくそのままにした。
俺自身も、何となく嬉しかった。
* * *
四十二歳の春、俺は自宅の建て替えを決めた。
設計士に希望を書いた紙を渡した。
「まず、地震に強いこと。停電に備えて配線を分けたい。あと、地下には避難室を」
「地下ですか」
「外へ出なくても、一定期間暮らせるようにしたいんです」
設計士は紙をめくった。
「最後に『生活しやすい家』とありますが」
「はい。そこも大事です」
香奈が横から口を挟んだ。
「窓、ちゃんとつけてくださいね」
「もちろんです」
「ただ、窓は弱点になるので、なるべく少なく」
「達也」
「うん?」
「リビングには普通の窓が欲しいの」
「分かってる。外側に防護扉をつければ――」
「外が見えなくなるでしょ」
俺は返答に詰まった。
香奈は窓辺で本を読むのが好きだった。新しい家でそれを取り上げるのは、さすがに違う。
「……窓はつけよう」
「よかった」
「位置は検討する」
「普通の位置にして」
結局、リビングには大きな窓がついた。完成した部屋で香奈が日なたに座っているのを見ると、正解だった。
地下室の入口には頑丈な扉を設けた。香奈はその内側に棚を作った。自分で寸法を測り、きれいに仕上げたので、俺は素直に感心した。
「すごいな。店で売れるぞ」
「売らないわよ。あなたが物を増やすから必要なの」
その棚は、二か月で入りきらなくなった。
* * *
父が亡くなり、数年後に母も亡くなった。
空き家になった両親の家で遺品を整理していると、古い住所録が出てきた。俺がほとんど顔を知らない親戚の名前まで並んでいる。
父の従兄にあたる宮本昭夫という人の欄には、住所の上から一本、細い線が引かれていた。
昔は行き来があったらしいが、俺には名前を聞いても顔が浮かばなかった。
空いた敷地をどう使うか、俺は何度も図面を引いた。賃貸住宅を建てるのが、仕事としては最も分かりやすい。
だが、うちの地下避難室はまだ狭かった。
狭ければ広げればいい。地下を広げるなら地上にも設備が要る。地上の設備を守るには、敷地の外周も考える必要がある。
気がつけば、賃貸住宅の案は図面から消えていた。
図面を見た香奈の指が、敷地の端で止まった。
「お義父さん、ここはアパートにするつもりだったんでしょう」
「ああ」
「悠斗の大学のお金は?」
「別に取ってある。念のため」
香奈は笑わなかった。
「ねえ。あなた、何がそんなに怖いの」
答えようとして、言葉が出なかった。
あのホテルの廊下のことは、香奈に一度話したきりだ。だが、それだけでここまでするのか、と聞かれたら、自分でもうまく説明できなかった。
香奈は図面を畳んで、俺の前に置いた。
「じゃあ、地下の棚は、全部私が作るから」
それで話は終わった。
終わったのかどうかは、よく分からなかった。
俺が五十歳になった年、拡張工事が始まった。
大地震だけが災害じゃない。火山灰もある。大規模な停電もある。学生の頃に鼻で笑って読んでいた話も、一つずつ考えると、確実に否定できるものは案外少なかった。
ふと思った。ミサイルが飛んでくるかもしれない。
「地下室を、核シェルターに近い仕様まで強化したいんです」
「……核、ですか」
設計担当者は少し考え、できることとできないことを順番に説明してくれた。相談と設計変更を重ね、地下には独立した換気設備が設けられた。敷地を囲う防護壁も厚さ一メートルの鉄筋コンクリートになった。
図面を見た香奈が顔を上げた。
「一メートル?」
「うん」
「壁の厚さが?」
「そう」
「私、壁の上で寝られるわね」
「香奈は細いからな」
「そういう話じゃない」
備品の一覧には、家族のためとは言いにくいものも増えていった。
瓦礫を持ち上げるためのジャッキが三台。長いバールが二本。担架が二つ。
家族は三人なのに、担架が二つ。あの廊下には、俺のほかにも人がいた。
ジャッキは、休みの日に庭のコンクリートブロックで試した。勢いをつけず、少しずつ持ち上げる。下に誰かが挟まっていても、痛くないように。
今度は、手を離さずに済むように。
ある日、高校から帰ってきた悠斗が門の前で立ち止まった。
「父さん、学校で聞かれた。うち、戦争するのって」
「しないよ。生き残るためだよ」
「友達にそう言っとく」
「そうしろ。今度連れてこい。地下室、見せてやる」
「やめとく」
即答され、俺は少し傷ついた。
* * *
工事は、二年がかりになった。
ある日、町内会長から電話がかかってきた。
「宮本さん、回覧板を持ってきたんだけどね。その、どうやって渡せばいいんだい?」
門まで出ると、会長が腕を組んで立っていた。分厚い壁と重厚な鉄の扉にはまだポストがなかった。
「もうすぐつきます」
「それより、早くインターホンつけてくれないかな。毎回電話するのは、ちょっとね」
秋には工事が終わった。門には郵便受けもついた。
防犯を考えて、投函口は手が入らない幅にしてある。
翌週、会長からまた電話がかかってきた。
「宮本さん、回覧板が入らないんだけど」
そこまで考えていなかった。
俺と香奈は、工事を終えたはずの家に、まだ手を入れ続けていた。
近所では、いつの間にか俺の家が「要塞」と呼ばれるようになっていた。大げさだと思ったが、道で小学生に「あ、要塞の人だ」と言われると、なぜか少し嬉しかった。
* * *
テレビ局が来たのは、その翌年だった。
カメラが門をくぐり、厚い壁を映した。地下を案内すると、取材班は何度も「ええっ」と声を上げた。
俺は説明するのが楽しくなった。こんなに熱心に話を聞いてもらったことは、家族以外では初めてだ。
地下の廊下で、カメラマンが壁の小さなパネルに目を留めた。
「これ、インターホンですか?」
「非常用です。各部屋についています」
「全部の部屋に?」
「物置にも、機械室にもあります。どこかに閉じ込められても、声が外に届くように」
「門には、ついてないのに」
音声係が、マイクを持ったまま顔を背けた。
「念のためです」
そう答えたが、なぜ門より先にこちらだったのか、自分でもよく分からなかった。
「発電機は何台あるんですか?」
「三台です」
「三台も?」
「一台故障しても動くように」
「じゃあ、二台故障したら?」
俺は口を閉じた。
考えていなかったわけではない。だが、二台壊れれば残りは一台だ。その一台まで壊れたら。
取材班が帰ったあと、俺はノートを開いた。
香奈がコーヒーを持ってきて、ノートを伏せた。
「今日はもう寝なさい」
この件は後日、きちんと相談した。
放送を見た悠斗は、同じ場面を三回巻き戻した。
「父さん、最後、取材のこと忘れて発電機のこと考えてたろ。顔が仕事中の顔になってた」
うちの新入社員のくせに。
ただ、反省はした。
そして、発電機は二台増えた。
* * *
悠斗に仕事を任せて、何年か経った。
ある日、昔と同じつもりで工具箱を持ち上げたら、腰に嫌な痛みが走った。
「高いところはもう業者さんに頼もう。私も危ないし」
香奈にそう言われると、反論しにくかった。以来、大きな工事は任せ、俺は図面を描くことにした。
ちょうどその頃、香奈が地下室で野菜を育て始めた。
棚に栽培用のライトを取り付け、水耕栽培の容器を並べる。最初に採れたのは小さなレタスだった。
「見て。立派になったでしょ」
俺は葉の厚みを確かめ、収穫量を記録した。
「これだけだと、非常時の食料としては足りないな」
「今夜のサラダには足りるわよ」
「主食になる作物も必要だ」
「それはレタス食べてから考えましょ」
レタスは、しゃきしゃきしていておいしかった。
結局、地下菜園は俺より香奈のほうが詳しくなった。いつの間にか、俺が立ち入ると怒られる場所になっていた。
「その水のホース踏まないで」
「ごめん」
「あと、勝手にライトの位置変えないでね」
香奈が楽しそうだから、まあいい。
* * *
七十を過ぎたある朝、俺は地下へ下りる階段で初めて立ち止まった。
膝が痛む。いつもなら何も考えずに下りられた段差が、妙に高く見えた。
俺はずっと、家が壊れる場合、電気が止まる場合を考えてきた。階段を下りる俺自身が先に壊れるとは、あまり考えていなかった。
ノートに『高齢者の避難動線を再検討』と書いてから、ペンが止まった。
高齢者というのは、俺のことだ。
久しぶりに帰ってきた悠斗に、図面を見せた。
「地下へ下りる昇降機を考えてる。停電時も動く必要がある。故障した場合は、別の避難経路が要る。その経路も使えなかった場合は――」
「父さん」
悠斗は俺のノートを指さした。
「まずは、階段を楽に下りることでしょ」
そうだった。
悠斗は、若い頃によく香奈がしたのと同じ顔をした。あまり似ていない親子だと思っていたのに、ああいう表情は似るものらしい。
昇降機は専門業者に設置してもらった。初めて乗ったとき、俺はちょっと感動した。
膝が痛くない。
香奈も「地下へ行くのがずいぶん楽になった」と喜んだ。そこでようやく、設備を増やしてよかったと心から思った。
テレビ局は、その頃にも時々やってきた。地下を案内すると、若い取材の人たちはみんな同じような顔で驚く。
「宮本さん、ここまで何年かかったんですか?」
「四十年くらいですね」
「もう完成ですか?」
俺は少し迷った。
「いや、まだ足りないところはあります」
取材の人は笑った。
どうして笑うんだろう。実際、足りないところはあるのに。
* * *
その冬、昔のノートを整理していたら、悠斗のぬいぐるみ避難袋の図面が出てきた。
あいつはもう四十代半ばだ。犬のぬいぐるみのこと、覚えているだろうか。
図面の隅に『三十一秒短縮』と書いてある。何を短縮したかったのだろう。
ふと、ホテルの廊下が浮かんだ。
崩れた天井。白い粉。瓦礫の下から聞こえた声。
あれから五十年近く経つのに、忘れられない。
俺はずっと、あの地震がこれから起きる出来事なのではないかと思ってきた。未来を見たのか、単なる夢だったのか。いくら考えても分からなかった。
ただ、あのときの恐怖は本物だった。直しているうちに新しい工夫を思いつき、いつの間にか、それが俺の暮らしそのものになっていた。
無駄だったのだろうか。
「達也、ちょっと来て!」
地下から香奈の声がした。
昇降機で下りると、香奈が新しい栽培棚の前に立っていた。上の段に手が届きにくくなったので、高さを調整できるようにしたらしい。
「いいな。使いやすい」
「でしょ」
「ただ、固定部分はもう少し――」
「そこはもう考えてあるの」
香奈が得意そうに金具を指した。
無駄だったかどうかは、よく分からない。
少なくとも今、この地下室をいちばん上手に使っているのは香奈だった。
* * *
八十歳を過ぎると、手の力が弱くなり、香奈に固い蓋を開けてもらうようになった。
点検は業者に任せ、悠斗に管理の手順を伝えた。分厚いファイルを見た悠斗が目を丸くした。
「これ、全部覚えろってこと?」
「大事なところには印をつけてある」
悠斗が開いたページには、ほとんどの項目に印がついていた。
「父さん。大事じゃないところは、どこ?」
考えてみたが、すぐには答えられなかった。
その日、香奈と二人で地下菜園へ下りた。昇降機の扉が開くと、青い葉の匂いがした。
壁の奥で、換気設備が低い音を立て続けている。栽培用のライトが、棚の葉を白っぽい緑に照らしていた。地上が晴れているのか曇っているのか、ここでは分からない。
俺は椅子に座り、レタスの苗を一つずつ香奈に渡した。指先が少し震える。香奈も、作業の途中で腰を伸ばす回数が増えた。
ただ、香奈は棚をいじっているときだけ、昔と同じ顔をする。
俺は壁を見渡した。頑丈な扉、電源室、貯水設備。入口の脇では、非常用インターホンの小さなランプが緑色に灯っている。その一角に、香奈の手作りの棚が並んでいる。
「香奈」
「なあに?」
「これだけ造っておけば、お前は安心して長生きできるな」
香奈は苗を置いて、俺を見た。
「管理が大変だから、あなたも長生きするのよ」
「そのつもりだよ」
目の前の棚に、小さな隙間があった。そこにもう一段つければ、苗の置き場が増やせる。
今度、香奈に提案してみよう。
いや、まずは寸法を測ってからだ。
* * *
宮本達也が亡くなってから、しばらくして。
悠斗は母親と一緒に、父が残した設備の維持費を確認していた。
点検費、修繕費、電気代。項目が多い。管理会社に任せられるものもあるが、手間まで含めると相当なものだった。
書類の束の最後に、備蓄品の一覧が挟まっていた。
水と食料は、家族三人分の十倍あった。毛布が四十枚。担架が二つ。ジャッキが三台。
「……これ、うちの分じゃないよね」
香奈は老眼鏡をかけ直し、一覧をしばらく見ていた。
「あの人らしいわね」
悠斗は、しばらく一覧から目を離さなかった。
「要塞って呼ばれてたのにな」
「そうねえ」
悠斗は、維持費の書類に目を戻した。
「でも、維持するだけでもとんでもないよ。壊す?」
香奈はすぐに首を振った。
「壊さない」
悠斗はもう一度、書類に目を落とした。
「まあ、そう言うと思ったけど」
香奈は立ち上がり、地下室へ下りる準備を始めた。
「どこ行くの?」
「菜園。棚をもう一段増やそうと思って」
「……父さんに似てきたね」
「失礼ね。必要な分だけよ」
悠斗は何も言わず、工具箱を持った。
香奈の後を追って、昇降機に乗った。
――了――




