第5話 十ラウンド
「パパ、これ、まけてるよ」
赤羽亮平は画面から目を離した。
四歳の息子、凪が、膝の上で不満そうに頬を膨らませている。
「まだ始まったばっかりだぞ」
「だって、あかいひと、たたかれてる」
「このあと、ちゃんと勝つんだよ」
亮平は再生を少し進めた。古い試合映像の中で、赤いグローブの青年が相手を追い詰め、鋭い右ストレートを打ち込む。
「ほら」
「やった!」
凪が両手を上げた。
「これ、パパ?」
「ああ。大学生の頃だ」
「パパ、すごいね」
「だろ?」
台所から、小さく吹き出す声がした。
「また昔の試合見せてるの?」
「凪が見たいって言うから」
「さっきまで怪獣の動画見てたのに」
妻の由衣は、鍋の火を弱めながらこちらを見た。スーパーのパートから帰ると、凪の世話をしながら、亮平の体重に合わせた夕食を作ってくれる。
亮平も、試合が近づくまでは配送のアルバイトをしていた。
「ねえ、世界チャンピオンになったら、何がしたい?」
由衣が皿を並べながら聞いた。
「まず洗濯機だな。こないだ脱水で変な音してた」
「それはチャンピオンにならなくても買わなきゃだめなやつ」
「じゃあ旅行」
「いいね。凪、海行きたい?」
「うみ! あと、どうぶつえん!」
凪が両手を上げ、由衣と亮平は顔を見合わせて笑った。
由衣が画面を覗き込んだ。
「昔の亮平、ほんとに勢いがあるね」
「だろ。あの頃は、打てば当たる気がしてた」
「でも私、今の試合も好きだよ。相手をよく見て、考えて勝つでしょ」
「……地味だって言われるけどな」
「私は好き。あれだけ練習してるの、知ってるから」
亮平は照れ隠しに、凪の頭を撫でた。
画面の中の青年は、相手のパンチをあまり見ていなかった。打たれても前に出て、打ち返して、それで勝っていた。
三十二歳の今は、あんなふうには戦わない。
試合が終わり、映像の中で歓声が上がった。
亮平は、音量を少しだけ上げた。
凪が膝の上で身じろぎした。亮平は抱き直した。温かな重みが腕に伝わる。
* * *
世界タイトルマッチまで、あと三週間。
練習のあと、亮平は真壁と夕食に出た。
ジムから少し歩いたところで見つけた店だった。入口の小さな看板には『ごはん屋 なつこ』とあった。
引き戸を開けると、穏やかな声がした。
「いらっしゃいませ」
カウンターの向こうで、髪をまとめた女将が手を動かしていた。
動きに無駄がない、と亮平は思った。鍋を見て、包丁を置き、客に目を向ける。その順番が、最初から決まっているように見えた。
二人はカウンターに並んで座った。
「脂の少ない料理、ありますか。ご飯は少なめでお願いします」
「それなら、今日は鶏むね肉の香味焼きがおすすめですよ」
「じゃあ、それをお願いします。試合前なんで、助かります」
女将は、何の試合かとは聞かなかった。
それが、少しありがたかった。
真壁は焼き魚定食を頼むと、すぐにスマートフォンを取り出した。
「こいつは、簡単には崩れないぞ」
真壁修一は画面の映像を止めた。
五十六歳。亮平がプロに入ってから、ずっと面倒を見てくれているトレーナーだった。
映っているのは、世界スーパーフェザー級王者、エミリオ・サルガド。三十四歳。七度の防衛に成功しているメキシコ人ボクサーだ。
真壁は画面を指で叩いた。
「この場面。相手にジャブを取られてる。でも次の場面じゃ立つ位置変えて外してる」
「半歩ずらすだけで調整してますね」
「上手いな。幅が広い」
サルガドは攻防のどちらにも穴が少なく、パンチも強かった。何年も王座を守っている理由は、映像を見れば分かる。
「世界戦は初めてのお前と、七回も防衛してきたこいつじゃ、経験が違う」
「はい」
「でも、技術は通用するはずだ。お前のジャブは通る。距離も取れる。焦るなよ」
「いつもどおり、積み重ねます」
「そう。十二ラウンド全部使うつもりでな」
デビュー直後に二連敗してから、真壁と何度も試合を見直し、距離を測り、ジャブを使い、相手を読むボクシングを作ってきた。十年近くかかった。次の機会があるとは限らない。
真壁と積み上げたものを、世界のリングで証明したかった。
「お待たせしました」
女将が膳を置いた。
「鶏むね肉の香味焼き定食です。ご飯は少なめにしてあります」
「ありがとうございます」
白い皿に、こんがり焼き色のついた鶏肉が重なっていた。斜めに切られた断面はしっとりと白く、刻んだ葱と生姜を合わせた醤油だれが、たっぷりと絡んでいる。脇には鮮やかな緑のブロッコリーと、柔らかそうな人参。
小鉢にはきのこのおろし和え。豆腐の味噌汁と、少なめに盛られた白いご飯にも湯気が立っていた。
「どうぞ、ごゆっくり」
女将はそう言って、厨房へ戻った。
真壁はまだ映像を見ていた。彼の前の焼き魚定食は、ほとんど手つかずだ。
「右ストレートは、もらうなよ。これは痛いぞ」
「昨日も聞きましたよ」
「明日も言うぞ」
亮平は肩をすくめた。
箸で鶏肉を一切れ持ち上げた。香ばしい焼き目から生姜醤油の匂いが立ち、思わず腹が鳴りそうになった。
口に入れると、表面にはほどよい弾力があり、中は驚くほど柔らかい。噛むほどに鶏肉のうまみが出てきて、葱の甘みと生姜の香りが後から追いかけてくる。
脂っこくないのに、物足りなさがない。亮平は思わずご飯に箸を伸ばした。
――おいしい。
もう一切れを、奥歯で噛みしめた。顎に、ぐっと力が入る。
由衣にも食べさせてやりたい。
たれを纏った断面が、光った。
その光が、静かに視界を覆っていった。
――赤羽亮平の記憶――
マウスピースを、奥歯で噛みしめた。
ゴングが鳴った。
向かいにはサルガド。観客と照明に囲まれた、世界戦のリングだった。
亮平の左が王者の顔を捉える。反撃はかわし、また当てる。
通用する。十分に戦える。
第四ラウンドには王者をロープ際へ追い込み、真壁が声を上げた。
「いいぞ。ポイント取れてる。そのままだ」
サルガドも戦い方を変えてきた。距離を詰め、腹を打ち、すぐに離れる。だが亮平は焦らず、相手の動きを見て対応した。
第六ラウンドを終える頃には、亮平がポイントで先行していた。
王者も必死だった。攻撃を増やし、何とか流れを変えようとしてくる。亮平は、無理に倒しにいかなかった。
第九ラウンド。追いかけてくるのは王者のほうだった。
第十ラウンド。
サルガドが左を見せた。
もう一度、左。
その奥で、王者の右肩が動いた。
来る。
王者の右ストレート。
亮平は膝を沈め、頭を左へ外しながら右カウンターを突き刺した。
拳が顎を捉えた。
サルガドが崩れ落ちた。
歓声が膨れ上がった。真壁がリングに飛び込んでくる。
世界王者。
世界王者になったのだ。
リングサイドで由衣が泣いていた。笑いながら、何度も頷いている。
観客が自分の名前を叫んでいる。
あの頃と同じ歓声だった。
その歓声が、リングの照明の白さに吸い込まれていった。
「亮平?」
目の前に真壁がいた。
「どうした。ぼうっとして」
「……いえ」
「大丈夫か?」
「はい」
箸は手に持ったままだった。鶏肉はまだ温かい。
ほんの一瞬だったのだろう。
だが、十ラウンド分の感触が身体に残っていた。
ジャブが当たる感触。王者の足運び。そして、最後に決めた右カウンター。
何より、あの歓声。
夢だ、と思おうとした。
試合前の選手は、勝つ場面ばかり思い描く。そういうものだ。
だが、右の拳には、顎を打ち抜いた感触がまだ残っていた。
「何か気になることでもあるのか」
「……サルガドの右ストレートです。あれに右を合わせられる気がします」
真壁は画面を見た。
「入れば大きい。でも、まずはそこに持っていくまでだ」
「ええ。そこは崩さないつもりです」
亮平は頷いた。
* * *
練習の最後に、もう一度ミットを持ってもらうようになった。
真壁がサルガドの右ストレートを模してミットを伸ばす。亮平は左に体を傾け右カウンターを返す。
「もう一回、お願いします」
「今日はもう十分だ」
「あと三本だけ」
以前なら、三本で終わらせていた。
今は、その三本が終わると、もう三本欲しくなった。
スパーリングでも、相手の右ストレートを待つ時間が増えた。ジャブで触って距離を外し、確実に取れる場面でも、相手の右ストレートを誘おうとした。
「今、ジャブ打てただろう」
「……はい」
「なら打て。カウンターを待つのはいいが、待つために試合するなよ」
真壁の声は厳しかった。
「はい。……ただ、サルガドの右ストレートには、合わせられると思うんです」
「だからって、それ一本にはするな」
「ええ。ジャブも距離も、今までどおりやります」
自分には十年かけて身につけたボクシングがある。
今の自分のボクシングに、あの頃の大胆さを取り戻したい。
帰宅すると、由衣が夕食を温めてくれた。
「今日、遅かったね」
「少し残ってた」
「調子は?」
「いいよ。かなり」
亮平が答えると、由衣は、ほっとしたように息をついた。
妻にはずっと苦労をかけている。子供を育て、家計を支え、毎日の食事まで考えてくれる。
勝ちたい。
その夜、由衣と凪が眠ったあとで、亮平は一人で大学時代の試合を再生した。
打たれても前に出て、打ち返して、それで勝っていた青年。
最後の歓声のところで、音量を上げた。
それから、もう一度、最初から再生した。
試合の十日前、最後のスパーリングがあった。
相手は、真壁に頼まれてサルガドの右を真似る、階級が一つ上の選手だった。三ラウンド目、相手の右肩が動いた。亮平の右が、その内側を通った。
相手の膝が、一瞬だけ落ちた。
ラウンド終了のブザーが鳴っても、真壁はしばらく何も言わなかった。いつもなら、真っ先に直すところを言う人だった。
試合の一週間前。
「亮平。お前の今のボクシングは強い。そこを忘れるな」
「ええ。真壁さんと積み上げてきたボクシングですから」
「カウンターは武器の一つだが、当てるまでの組み立てを忘れるな」
亮平は答えなかった。
真壁はしばらくこちらを見ていたが、やがて口を開いた。
「十日前のあのカウンターは、俺が十年見てきた中で一番だった」
「もし……お前が右を狙って行くっていうなら、俺はお前に賭ける」
「……真壁さん」
「ただし、試合中は俺の声を聞けよ」
「もちろんです」
差し出された拳に、亮平は自分の拳を当てた。
朝は、河原の遊歩道を走った。
真壁がストップウォッチを握って立っている。その前を、何本も駆け抜ける。
「ラスト一本!」
「はい!」
「ここから上げろ! 最後まで落とすな!」
駆け抜けて膝に手をつくと、真壁が背中を一度だけ叩いた。
耐えた。
整えた。
世界戦の日が来た。
今日で、人生を変える。
由衣、凪、真壁さん。
三人の顔を、一つずつ思い浮かべた。
* * *
入場口へ向かう前、由衣から短いメッセージが届いた。
『凪と一緒に応援してる。いつもどおりね』
写真には、由衣の隣で小さな拳を握りしめた凪が写っていた。
亮平は画面を見て、少しだけ肩の力を抜いた。
いつもどおり。
そうだ。いつもどおりやればいい。
* * *
第一ラウンド。
左が王者の顔を捉えた。打っては離れ、相手の攻撃をかわして打ち返す。
王者のパンチは重い。だが、こちらの拳も届く。
通用する。
第二ラウンドには、サルガドの右ストレートをかわして打ち返し、会場が沸いた。
イメージ通りだった。
それきり、王者は右を打ってこなくなった。
亮平はさらに王者の右を待った。来ない。亮平も攻めないまま、ゴングが鳴る。
第四ラウンドから、サルガドの動きが変わった。近づけば腹を打たれ、追えば離される。
右は打ってこない。
サルガドの拳が脇腹に入り、息が漏れた。
インターバルには真壁の声が飛んだ。
「ポイント取られてるぞ! 取りに行け!」
脇腹が痛い。顔もずきずきする。
第六ラウンド。
亮平の連打でサルガドがロープ際まで下がった。会場が大きく沸く。
王者の頬は赤く腫れていた。
自分の顔はいまどうなっているのか。
互角に戦えている。
相手はいつか右を打ってくる。
そこを仕留める。
第八ラウンド。
ガードの上から受けた衝撃が肩に残る。踏み込むたびにふくらはぎが痛い。
打つ。離れる。打ち返す。いつもなら自然にできた動きを、一つずつ確かめなければならない。
第九ラウンド。
パンチが見えているのに、身体が遅れる。ようやく亮平の左が当たり、サルガドが顔をしかめた。
まだ戦える。王者だって苦しいはずだ。
だが、胸は焼けるようで、何度息を吸っても足りない。
真壁が何か叫んでいる。
何を言っているのか、わからない。
亮平は左を出した。もう一発。今度は外れた。
違う。あのときは、もっと近かった。
第九ラウンド終了のゴングが鳴った。
コーナーに戻ると、真壁が顔を寄せた。
「亮平、聞こえてるか」
「……はい」
「競ってるぞ。お前の左は当たってる。相手は嫌がってる」
亮平は顎を引いた。
「残り三ラウンド。全部取れば勝てる。お前が王者だ」
そうだ。勝てる。
自分の拳は、確かに届いている。
「だからこれ以上もらうな。このままじゃ止められるぞ。足を使え。右を待つな」
真壁の声が、少し遠くなった。
「いいか。左から組み立てろ。お前のボクシングを――」
真壁の口は動いていた。
亮平は頷いた。
口に含んだ水が、ひどく苦かった。
第十ラウンド。
脚が重い。それでも前に出る。
ここまで来た。十年かけて、ここまで。
サルガドが左を見せた。
もう一度、左。
その奥で、王者の右肩が動いた。
来る。
あの角度。あの踏み込み。
記憶の中のサルガドと、目の前のサルガドが重なった。
亮平は膝を沈め、頭を左へ外した。
今だ。
あのときと同じだ。
残った力を、すべて自分の右拳に込めた。
拳を打ち出す。
伸びてくるはずの右が、どこにもなかった。
何かが視界を横切った。
眩しい。
リングのスポットライトが、白く広がっていく。
世界が歪んだ。
* * *
静かだった。
歓声も、真壁の声も聞こえない。どこかで、小さな電子音が規則正しく鳴っている。
右手を動かそうとして、細い管がつながっていることに気づいた。
「……由衣?」
椅子に座っていた妻が、顔を上げた。
「亮平!」
由衣は立ち上がり、ベッドに駆け寄った。
「よかった……」
両手で亮平の手を握る。
「本当によかった……」
泣いていた。
亮平はゆっくりと息を吸った。
最後に覚えているのは、王者の右肩が動いたところだ。
自分は右カウンターを打った。
そのあとは、わからない。
「……試合は?」
由衣の指に力が入った。
「終わったよ」
「……負けた?」
由衣は頷いた。
亮平は目を閉じた。
「そうか」
「……」
「ごめん」
「謝らないで」
「……勝てなかった」
由衣は首を振った。
「倒れたまま動かないから……もう、どうしようって」
言葉の途中で、また涙がこぼれた。
「帰ってきてくれて、よかった。ほんとに」
天井が、ひどく遠かった。
* * *
検査と経過観察を経て、亮平は退院した。
医師からは、頭部への強い衝撃を受けたこと、しばらく運動を控え、異変があればすぐ受診することを説明された。
また試合ができるのかどうか、医師は言わなかった。亮平も、聞かなかった。
由衣は迎えに来た車の中で、何度も振り返った。
「気持ち悪くない? 頭は?」
「大丈夫だよ」
「帰ったら寝てて。凪にも静かにするよう言ってあるから」
「そこまでしなくていいって」
由衣は笑わなかった。
家に着くと、凪が玄関で待っていた。
「パパ、おかえり!」
抱きつこうとして、由衣に止められる。
「凪、パパまだ痛いところあるから、そっとね」
凪は慌てて足を止め、亮平の手だけを握った。
「いたいの、なおる?」
「ああ。もうすぐな」
「よかった」
息子の手は温かかった。
亮平は、その小さな指を握り返した。
* * *
数日後、真壁が訪ねてきた。
玄関の呼び鈴が鳴り、由衣が出る。聞き慣れた低い声がした。
「真壁さんが来てくれたよ」
亮平は居間のソファに座っていた。
立ち上がろうとして、やめた。
「……悪い。帰ってもらって」
「亮平?」
「今は、会えない」
由衣は、すぐには動かなかった。
「真壁さん、ずっと心配してたんだよ」
「分かってる」
「じゃあ、少しだけでも」
「……頼む」
由衣はそれ以上言わず、玄関へ戻った。
真壁の声が、小さく聞こえた。
「そうか。分かった」
少し間が空いた。
「体だけは、ちゃんと治せって伝えてくれ」
ドアが閉まった。
亮平は膝の上に置いた手を見つめていた。
自分の右カウンターを信じてくれた人だった。
十年近く、負けるたびに一緒に考えてくれた人だった。
その人の前に、どんな顔で出ればいいのか分からなかった。
由衣が戻ってきた。手に、小さな紙袋を提げていた。
「真壁さんから。凪に、だって」
中には、凪の好きな動物のビスケットが入っていた。
* * *
由衣は、以前と変わらずパートに出かけた。
朝は凪の支度を手伝い、帰れば夕食を作った。亮平が家事を代わろうとすると、無理のない範囲なら頼んでくれた。
ある日、脱衣所の洗濯機が新しくなっていた。
由衣がパートの給料から、分割で買ったという。
「チャンピオンにならなくても買わなきゃだめなやつ、だからね」
由衣は、わざと得意げな顔をした。
新しい洗濯機は、脱水のときも静かだった。
何もなかったことにしているわけではない。
夜、凪が眠ったあとで、由衣が一度だけ言った。
「悔しかったね」
亮平は頷いた。
「私も、すごく悔しかった」
由衣は食卓の上に置いた手を見ていた。
「ずっと一緒に目指してたもんね」
亮平も、その手を見ていた。
由衣は顔を上げた。
「でも、終わったのは試合だよ」
亮平は返事をしなかった。
別の日、由衣がスマートフォンを持ってきた。
「ねえ、これ見た?」
海外のスポーツ記事だった。サルガドの写真が載っている。
「相手の人ね、今までで一番タフな戦いだったって言ってるよ」
亮平は画面を見なかった。
「あなたのジャブがすごく厄介だったって。何度も流れを変えられたって」
返事はなかった。
由衣は少し待ってから、スマートフォンを伏せた。
「……そう」
由衣は台所へ戻った。蛇口をひねる音が、しばらく止まなかった。
その夜、由衣と凪が眠ったあとで、亮平は一人でその記事を開いた。
翻訳された文章を、ゆっくり下へ送る。ジャブのこと。距離のこと。由衣が読んだとおりだった。
最後の段落で、指が止まった。
『第二ラウンドで、彼が右を待っていると分かった。だから最後まで、右は見せるだけにした』
亮平は画面を消した。
暗くなったスマートフォンに、自分の顔が映っていた。
* * *
二か月が過ぎた。
身体の痛みはほとんど消えた。
真壁からは何度か連絡が来た。
『具合はどうだ』
『落ち着いたら顔を見せろ』
亮平は返事を打ちかけた。
『すみませんでした。最後、真壁さんの声が』
そこで指が止まった。
しばらく画面を見つめてから、全部消した。
『大丈夫です』
送信してしまうと、それ以上は何も書けなかった。
日曜日の夕方。
由衣が台所で夕食を作り、凪は居間の床に色鉛筆を広げていた。
「パパ、見て」
凪が一枚の紙を持ってくる。
三人が並んで立っている絵だった。真ん中の大きな人物が亮平らしい。
「これ、ぼく。こっち、ママ。これ、パパ」
「うん」
「みんなで、どうぶつえんにいったの」
「まだ行ってないだろ」
「これから、いくの」
亮平は、絵の中の自分を指でなぞった。
「そうか。行こうな」
台所から由衣が顔を出した。
「来週の日曜、晴れたら行こうか。お弁当作るよ」
「やった!」
凪が飛び跳ねた。
「パパもいっしょだよ!」
「ああ」
亮平は息子の頭を撫でた。
凪が両手を上げ、由衣が笑った。亮平も、少し遅れて笑った。
そのとき、テレビから歓声が聞こえた。
夕方のスポーツニュースだった。
亮平は思わず顔を上げた。
画面では、見知らぬ二人の選手が打ち合っていた。
――今だ。
「パパ?」
凪が顔を覗き込んでいた。
「どうしたの?」
「……なんでもないよ」
亮平はテレビの電源を切った。
「ご飯できたよ」
由衣が声をかける。
「はーい!」
凪が元気よく返事をした。
亮平も立ち上がり、二人のいる食卓へ向かった。
――了――




